スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

課題&道徳的感情

2022-04-15 19:14:10 | 将棋トピック
 女流棋戦の増設,スポンサーの増加,将棋会館の移転の目途と,佐藤が新会長になってからの体制は,過去に類をみないほどといっていい大きな仕事を次つぎと成し遂げました。というか,この体制は現在も継続しているのですから,成し遂げつつあるといった方がいいのかもしれません。ただ,僕は課題がないというわけではないと思っています。最後にそのことについて示して,この連載を終了させることにします。
 佐藤は,前の会長であった谷川が,無実であった三浦九段に対して処分を下したために,谷川の指名を受ける形で会長となりました。つまりこれは急遽の出来事であって,このときの状況から佐藤が新会長に選出されたことからしても,いずれは佐藤が会長になったのだろうと思われますし,谷川にも佐藤にもそういう意識はあったと僕は推測しますが,その時期に佐藤が会長に就任することは,予定外であったのは間違いないでしょう。
 谷川の前の会長は米長でした。米長は佐藤とは異なり,会員である棋士の全面的な支持を受けていたとはいえなかったと思います。成し遂げた大きな仕事はふたつあって,ひとつは将棋連盟を公益社団法人に移行させたことで,もうひとつは名人戦の主催を毎日新聞単独から,毎日新聞と朝日新聞の共催にしたことです。このうち,後者は毎日新聞に名人戦を単独で主催させ続けるかという形で会員の間で投票となり,それが否決される形で共催となったのですが,このときの票数は僅差でした。会員が二分されてしまったのは,ことの性質上は止むを得なかったともいえますが,その体制が必ずしも全面的には支持されていなかったことと同時に,それにもかかわらず事前の調整が不足していたことが大きく影響していたと思われます。
 米長は,自身の後継者として谷川を指名。このために自身が会長のうちから谷川を理事にしました。つまり谷川は米長の後の会長になるべく,事前に会長の近くで仕事をしていたわけです。米長は会長職のまま死にましたので,谷川が会長に就任したのも,予定よりは早かったかもしれません。ただそれは既定路線であって,米長の次の会長が谷川になるということは,棋士内部だけでなく,外部の関係者も承知していたといっていいでしょう。

 スピノザの哲学で良心の呵責conscientiae morsusが非道徳的なことであるとされているのは,一般に悲しみtristitiaが非道徳的であり,良心の呵責は悲しみの一種であるからです。このときに気を付けておいてほしいのは,この道徳は,能動actioと受動passioという観点から発生しているということです。したがって,悲しみはスピノザの哲学ではみっつとされる基本感情affectus primariiのひとつで,その悲しみの反対感情が喜びlaetitiaであるからといって,直ちに喜びが道徳的である,あるいは同じことですが,喜びの一種とされるすべての感情が道徳的であるといわれるわけではないのです。第三部定理五九は,能動的である喜びと欲望cupiditasがあるといっていますが,すべての喜びと欲望が能動的であるといっているわけではありません。つまり,受動的な喜びもあれば受動的な欲望もあるわけです。その限りでは喜びも欲望も非道徳的なことになるのであって,それが能動的である限りにおいて,道徳的であるといわれるのです。
                                    
 たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesや,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,基本感情としては喜びの一種です。希望に関しては定義Definitioの中でそのようにいわれていますし,高慢は第三部諸感情の定義二八説明から分かるように自己愛philautiaの特質とされていて,この自己愛というのは第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoのことであって,それは喜びの一種です。しかるにこのふたつの感情については,その定義それ自体から明らかなように,観念ideaとしてみた場合には混乱した観念idea inadaequataであって,それは第三部定理一によって受動です。なのでこれらの感情は喜びであっても必然的にnecessario非道徳的とされることになります。一方,必然的に能動とされるような感情はありません。したがって,それ自体で道徳的であるとされる感情があるわけではないのです。ですから,良心の呵責は非道徳的なことであるとされるのですが,何らかの道徳的な感情が前もってあるのではありません。感情は能動的である限りにおいては道徳的であり得るのであり,良心の呵責は能動的ではあり得ないので,それ自体で非道徳的であることになります。そしてすべての悲しみと,ある種の喜びおよび欲望は,それ自体で非道徳的であることになるのです。
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サッポロビール盃マリーンカップ&非道徳

2022-04-14 19:17:29 | 地方競馬
 昨晩の第26回マリーンカップ
 サルサディオーネが逃げて1馬身差でショウナンナデシコががっちりとマーク。3馬身差でレディバグとメモリーコウ。2馬身差でレーヌブランシュ。2馬身差でクールキャット。大きく離れてハピネスマインド。2馬身差でアイカプチーノ。大きく離れてグレートコマンダーとナラ。また大きく離れてネイバーアイランド,ハナウタマジリ,アウティミアーという,とても縦に長い隊列。前半の800mは50秒3のミドルペース。
 3コーナーを回るとショウナンナデシコがサルサディオーネに並び掛けていき,2頭が併走で直線に。すぐにショウナンナデシコが先頭に立つと,後は引き離す一方となって圧勝。ショウナンナデシコにはまったく抵抗できませんでしたが,ほかの馬の追撃は凌いだサルサディオーネが8馬身差で2着。直線入口で少し離れた3番手まで上がってきていたレーヌブランシュは,サルサディオーネとの差は詰めたものの追いつくまでには至らず1馬身差で3着。
 優勝したショウナンナデシコエンプレス杯からの連勝で重賞2勝目。ここはエンプレス杯の上位3頭が出走してきて,その3頭がほかに対して能力上位とみられました。そのときと同じ着順での決着となり,きわめて順当な結果に。圧勝になったのは,ショウナンナデシコがサルサディオーネさえ負かせば勝てるだろうというような内容の競馬をしたためで,おそらく騎手にそういう自信があったのだろうと推測されます。逆にいえば後ろからくるもっと強力な馬がいるとこういう競馬はしにくくなるので,ここまで差がつくということもなかったろうと思います。それでも今年のダートの牝馬戦線の中心となるのは間違いないでしょう。父はオルフェーヴル。母の父はダイワメジャー。従兄に2017年にシンザン記念を勝っている現役のキョウヘイ
                                        
 騎乗した吉田隼人騎手と管理している須貝尚介調教師はマリーンカップ初勝利。

 スピノザが働くagereことを肯定し,働きを受けるpatiことを否定しているということは,スピノザがデカルトRené Descartesに変えて打ち立てた新たな道徳律が,能動的であることを推奨し,受動的であることを回避するように求めるものであったという点から明白です。働くとは能動actioを意味し,働きを受けるとは受動passioを意味するからです。そして現実的に人間が悲しみtristitiaを感じるということは,必然的にnecessarioその人間が働きを受けているということを示すので,この観点からもスピノザは悲しみを否定しているといえます。いわば道徳的な観点からも,スピノザは悲しみを原則的に否定するのです。
 このようにスピノザは,人間の現実的本性actualis essentiaすなわちコナトゥスconatusという観点,および道徳的な観点というふたつの観点から,悲しみを原則的に否定します。そして良心の呵責conscientiae morsusが悲しみという感情affectusの一種である以上,それもまた原則的に否定されるということになります。ここには理解することがそれほど容易ではない部分も含まれているかもしれません。道徳的な観点からもスピノザは悲しみを否定するのですから,その悲しみの一種である良心の呵責は,スピノザによれば道徳的な観点からも否定されるということになっているからです。僕たちはイメージとしては良心の呵責を感じることを,道徳的なことと思ってしまう傾向があるのではないかと僕は思いますが,スピノザの主張では,良心の呵責を感じるということ自体は,道徳的であるとはいえず,むしろそれに反する,つまり非道徳的なことであるということになるのです。
 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはこの点については何もいっていませんし,『スピノザ〈触発の思考〉』でも何かがいわれているというわけではありません。ただ,良心の呵責がスピノザの哲学では原則的には非道徳的なことであるということは,スピノザの思想とニーチェの思想とを結びつけるひとつの要因にはなり得るでしょう。他面からいえば,確かにこの点においてはスピノザはニーチェの先達あるいは先駆者なのであって,ニーチェが指摘していることは間違っているわけではありません。良心の呵責を非道徳的なことのひとつとして数え上げるような思想は,そう多くはないであろうからです。
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実在の場所&悲しみの一種

2022-04-13 19:38:04 | 歌・小説
 『三四郎』における三四郎と美禰子との出会いの場面が,読者によって異なった解釈が可能になっている最大の理由というのは,これは小説なのだけけれども,架空の場所で繰り広げられる物語であるわけではなく,場所は実在するという点にあります。この出会いの場面でいうなら,理科大学とその研究室,森,池と池に架かる石橋,その石橋へ続く坂と坂の上の岡といった場所は,すべて実在するのです。このうち池は三四郎池という名称で,東京大学の構内に現存しています。
                                        
 このことから,この実在する場所を知っているかいないかによって,読解が変わるのです。少なくとも変化し得るのです。なぜなら,漱石が記述している場所は,そのときに実際にあった場所を記述しているわけですから,もしもその場所を知っているのなら,記述されていないことも理解することができるからです。たとえば『三四郎』では,三四郎は池の傍にしゃがみこんだとされていますが,この池は石橋が架かっているくらいですからそれなりの大きさがあり,しかしその大きな池のどのあたりに三四郎が座ったのかということは,その場所を実際に知っているのなら理解することができますが,知らなければ何も分かりません。そもそも池がどの程度の大きさであるのかということも分からないでしょう。
 さらに,池の大きさがどの程度であり,三四郎がその池の周囲のどのあたりに座っているのかということが分かるなら,そこにいた三四郎から何が見えたのかということも理解できます。実際に小説の中で,三四郎が目撃したものが何であるのかということのすべてが記述されるということはあり得ませんが,その場所を知っている読者には記述されていないことも理解することができるのです。そしてただそれだけではありません。池のどのあたりに三四郎が座っているのかということが分かっているなら,三四郎から何が見えていたのかということが分かるだけではなく,何が見えなかったのかということも分かります。読解の上で重要なのはむしろそちらの点です。

 第三部諸感情の定義一七から分かるように,『エチカ』でいわれている良心の呵責conscientiae morsusは,基本感情affectus primariiとしては悲しみtristitiaに属します。スピノザは悲しみという感情は基本的に否定するnegareのです。なぜスピノザが悲しみを原則的に否定するのかということは,ふたつの観点から説明することができます。そしてこれは悲しみ一般に妥当するのですから,当然ながらその一種であるとされる良心の呵責にも妥当するのです。
 第三部諸感情の定義三から分かるように,悲しみというのはより大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioです。第二部定義六から,この完全性というのが実在性realitas,つまりそのものの存在する力potentia,いい換えれば力という観点からみられるそのものの本性essentiaを意味することが分かります。そして第三部定理七から,個物res singularisが自己の有に固執するperseverareというコナトゥスconatusは,その個物の現実的本性actualis essentiaなのです。したがって,現実的に存在する個物が何らかの悲しみを感じるということは,原則的にはその個物の現実的本性に反することがその個物のうちに生じているということを意味します。このことは第三部定理二八からも理解できます。現実的に存在する人間が悲しみを感じるということは,その人間が忌避しているあることがその人間に生じているという意味になるからです。なので悲しみはスピノザの哲学では原則的には,いい換えればそれ自体では,否定される感情なのです。よって良心の呵責は原則的に否定される感情として『エチカ』では定義されているということになります。
 なお,このことは同時に,悲しみの反対感情である喜びlaetitiaは,スピノザの哲学では原則的に肯定されるということも,悲しみが否定されるということの説明から明らかになります。よって良心の呵責の反対感情である歓喜gaudiumは,悲しみと喜びが反対感情であることからも明白なように,第三部諸感情の定義一六にあるように喜びの一種となりますが,こちらは原則的は肯定されます。
 もうひとつの理由は,第三部定理五九から分かるように,僕たちが悲しみを感じるということは,僕たちが働きを受けているということと関係します。スピノザは働くagereことを肯定し,働きを受けるpatiことは否定するのです。
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感情の総括的定義説明&基本線の一致

2022-04-12 19:12:40 | 哲学
 第三部諸感情の定義の末尾にある感情の総括的定義を正しく理解するためには,その後の説明でいわれている以下の部分は非常に重要であると僕は考えます。
                                   
 「精神が自己の身体あるいはその一部分について,以前より大なるあるいはより小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに,精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる」。
 この部分は,感情の総括定義の中では,以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するaffirmare,といわれている部分と関係します。そして,たとえばある人間の精神mens humanaが,自分の身体corpusの現在の状態を,自分の身体の過去の状態と比較するという意味ではないということが,説明のこの部分でいわれていることの主旨になります。いい換えれば,定義Definitioの中で,以前より大なる存在力を肯定するといわれるとき,それはそのときのその人間の精神が,現在の自分の身体について過去の自分の身体よりも大きな存在力を肯定しているという意味ではないのです。むしろ,これは観念ideaとしてみられる感情affectusについての定義なのですから,感情によって説明するなら,ある感情の形相formaを構成している観念,それがすなわち観念としてみられる感情のことですが,その観念が自分の身体について,以前より大なる存在力を含んでいるようなあるものを肯定しているという意味なのです。もちろん小なる存在力の場合は,この場合の大なる存在力を小なる存在力といい換えることで,同じように説明されることになります。
 第二部定理一三から分かるように,ある人間の身体humanum corpusというのは,その人間の精神の観念対象ideatumなのです。そして存在力すなわち実在性realitasというのは,力potentiaという観点からみられる限りで本性essentiaそのものです。なので精神があるときに自分の身体あるいはその一部について,以前より大なる実在性を含むものを肯定すれば,精神も大なる完全性perfectioに移行しますし,小なる実在性を含むあるものを肯定すると,精神はより小なる完全性へと移行するのです。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは疚しさを全面的に否定します。そこでもしスピノザが疚しさすなわち良心の呵責conscientiae morsusを全面的に否定するnegareのであれば,その反対感情である歓喜gaudiumについては全面的に肯定するaffirmareのでなければなりません。僕の見解opinioではスピノザが良心の呵責,これは第三部諸感情の定義一七の良心の呵責ですが,それを全面的に否定することはないのですから,同時にスピノザは歓喜,これも第三部諸感情の定義一六の歓喜になりますが,それを全面的に肯定することはないという見解も僕は有しているということになります。しかしここは各々の定義Definitioを離れ,もっと一般的に良心の呵責と歓喜という感情affectusを考えたときに,もしもそのふたつの感情が反対感情とみられる限りにおいては,スピノザは良心の呵責を全面的には否定しないし,歓喜を全面的に肯定することはないというように理解してもらっても構いません。ただそれらの感情をどう把握するのにせよ,歓喜と良心の呵責が反対感情であるという点だけは踏まえておいてください。
 僕はこのような意味でスピノザの考えとニーチェの考えには差異があると考えます。ですがニーチェがこのことに関してスピノザを自身の先達であると判断したことについて,絶対的な意味において否定するというわけではありません。差異があるのは各々の感情を全面的に否定したり肯定したりするのか,それとも全面的にではなく,いい換えれば部分的に否定するのか肯定するのかという点にあるのであって,良心の呵責は否定されるべき感情であり,それに対して歓喜は肯定されるべき,少なくともされ得る感情であるという点では,ニーチェとスピノザとの間で基本的な一致がみられると考えるからです、いい換えれば,スピノザはニーチェの全面的な先達であるということはできないかもしれませんが,部分的な先達である,あるいは基本的な先達であるといういい方はできると僕は考えますし,この考え方は正確なものであると思います。
 このためにまず,スピノザが良心の呵責を基本的には否定すると僕が考えている根拠から説明していきます。これはふたつの点からそのようにいえるのですが,どちらの場合も,スピノザの哲学の基本感情affectus primariiが大きく関係しています。
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湘南ダービー&全面否定

2022-04-11 19:08:45 | 競輪
 昨日の平塚記念の決勝。並びは平原‐佐藤の東日本,郡司‐和田‐大塚の神奈川,古性‐神田の大阪,山田‐井上の九州。
 やや牽制があった後,平原と佐藤が誘導を追いました。するとその外から郡司が上昇。バックで誘導の後ろに入って前受けに。4番手に平原,6番手に山田,8番手に古性という周回に。残り3周のバックを出ると古性が上昇。ホームで誘導との車間を少しずつ開けていた郡司を叩いて前に。このラインに続いていた山田がホーム後のコーナーで古性を叩いて前に出ると,今度は平原が上昇。山田を叩いてバックで前に出ました。郡司はこのラインを追いましたが,平原を叩きにはいかず,平原が先頭で打鐘。山田は引かなかったので3番手を内の山田と外の郡司で取り合う隊列に。ホームに入ると郡司が発進。平原を叩きにいくと激しい競り合いに。内の平原が突っ張ることに成功。郡司は脱落。郡司マークの和田が自力で発進すると,それに乗るような形となったのが古性。和田の捲りは平原が牽制で止めました。佐藤はそのまま直線に向かうと踏み込み,逃げる平原を差して優勝。和田がいききれなかったので,進路を変更し平原と佐藤の間から伸びた古性が1車身差の2着。逃げ粘った平原が8分の1車輪差で3着。
 優勝した福島の佐藤慎太郎選手は2月の静岡記念以来の優勝で記念競輪10勝目。平塚記念は初優勝。僕はこのレースは平原の先行になるのではないかとみていたので,その場合は佐藤に優勝のチャンスがありそうだと思っていました。大きかったのは叩きにきた郡司を平原が突っ張ってくれたことで,このために最も強力な選手の捲りを止めにいかないで済むようになりました。それでも自力に転じた和田の捲りは止めていますから,十分に使命を果たしての優勝といっていいでしょう。平原もさすがに郡司と先行争いをしては脚力の消耗が激しく,佐藤に差されたのはもちろん,2着に残れなかったことも仕方がなかったと思います。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがスピノザを自身の先達とみるとき,強調されているのは,スピノザが良心の呵責conscientiae morsusを歓喜gaudiumの反対感情と措定している点です。もしスピノザが,第三部諸感情の定義一七で定義される感情affectusのことを良心の呵責といったことについて,何らかの意図をもっていたとすれば,それが歓喜の反対感情であるという点は,その意図の全体ではないかもしれませんが,意図の一部に含まれているか,そうでなくともスピノザの意図から必然的にnecessario帰結しなければならない事柄であったということは,僕には疑い得ないように思えます。そこで僕はこの観点から良心の呵責を考えることにします。なので,スピノザが良心の呵責を『エチカ』においてはこのように定義したことについて,大した意味がない場合はもちろん,ある意図をもっていたのだとしても,その意図が何であるかを深く追求しなくてもこれからの考察の大きな欠点とはならないでしょう。ですからそもそも意図があったのかなかったのかということについても,探求しなくて構わないことになります。
                                   
 ニーチェは,疚しさと無垢とを比較して,無垢の方を称揚しているのでした。これはニーチェにとっては全面的な意味をもっているのでなければなりません。なぜなら,疚しさの起源は原罪であるとニーチェは指摘しているのですから,もしも無垢と疚しさの比較が全面的なものでなく,部分的なものであるのだとしたら,原罪を否定するのも部分的でなければならないからです。いい換えればニーチェは原罪についても,部分的には否定しない,つまり部分的には称揚することができるというのでなければなりません。しかしニーチェがそのように主張するとは考えられません。よってニーチェは原罪を全面的に否定すると理解しなければならないのであって,そのように理解する以上は,原罪を起源として発生する疚しさ,これが良心の呵責のことですが,その感情についても全面的に否定すると解する必要があります。
 ニーチェがスピノザを自身の先達としてみるとき,おそらくこのような考え方がニーチェの中にあったと僕は思います。しかしスピノザは良心の呵責を全面的には否定しないだろうと僕は思います。
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桜花賞&スピノザの意図

2022-04-10 19:43:29 | 中央競馬
 第82回桜花賞
 ライラックは控えるような発馬で1馬身の不利。逃げたのはカフジテトラゴンで2番手にウォーターナビレラ。3番手はナムラクレアとアルーリングウェイとクロスマジェスティとラブリイユアアイズ。7番手にピンハイとパーソナルハイとサブライムアンセムとスターズオンアースとラズベリームース。13番手にアネゴハダ。14番手にベルクレスタとサークルオブライフとナミュール。前の2頭を除いた14頭は一団。2馬身差でライラックとフォラブリューテ。2馬身差の最後尾にプレサージュリフト。前半の800mは46秒8のスローペース。
 直線に入ると逃げたカフジテトラゴンが一旦は後ろを引き離しにかかりましたが,ウォーターナビレラがまた追い詰め,先頭に。この2頭の間から伸びてきたのがナムラクレア。さらにウォーターナビレラの外から馬群を割ってスターズオンアースが追い込んできました。粘ろうとするウォーターナビレラに外のスターズオンアースが並び掛けてフィニッシュ。写真判定となりましたが優勝は外のスターズオンアース。ウォーターナビレラがハナ差で2着。ナムラクレアが半馬身差で3着。大外から追い込む形となったサークルオブライフはクビ差で4着。
 優勝したスターズオンアースは重賞初制覇となる大レース優勝。とはいえここ2戦は重賞で連続2着でしたから,能力そのものが極端に劣っているというわけではありませんでした。ただこのレースはペースが結果に与えた影響が大きかったように思います。中ほどの枠だったので馬群を割る形となり,ぎりぎりで届きましたが,もし外の方の枠で外を回らなければならなかったとしたら,この優勝はなかったのではないでしょうか。負けた馬も含めて,はっきりとした能力差があるというようには考えない方がいいでしょう。父はドゥラメンテ。母のひとつ下の半妹がJRA賞で2016年に最優秀2歳牝馬,2017年に最優秀3歳牝馬に選出されたソウルスターリングで3つ下の半妹が2018年にアルテミスステークスを勝ったシェーングランツ
                                          
 騎乗した川田将雅騎手は川崎記念以来の大レース33勝目。第74回以来8年ぶりの桜花賞2勝目。管理している高柳瑞樹調教師は開業から11年3ヶ月で大レース初制覇。

 僕の見解opinioでは,良心の呵責conscientiae morsusに似通った感情affectusは,第三部諸感情の定義二〇の憤慨indignatioで,この憤慨が外部でなく内部すなわち自分自身に向かったとき,良心の呵責になる,少なくとも僕たちが良心の呵責といっているのと近似した感情になります。それに対して,第三部諸感情の定義一七で示されている感情は,僕たちがいう良心の呵責と程遠い感情であり,畠中がそういっているように,落胆conscientiae morsusとか失望といわれるべき感情であると思います。
 ではなぜこの感情のことが『エチカ』では良心の呵責といわれているのかということが,当然の疑問として生じてきます。ただし僕はその点については深く考察しません。というのも,この感情を良心の呵責といったことに,何か深い意味があったのかどうかということが定かではないからです。スピノザの時代に,こうした感情のことが一般に良心の呵責といわれていたという可能性は低い,というかほとんどないと思います。とはいえだからといってスピノザが何か意味を込めてこの感情のことを良心の呵責といったと断定することができるというものでもありません。たとえばこのように定義される感情については,それを示す適切な語がなかったために,あるいはそういう語があったとしてもスピノザはそれを知らなかったために,便宜的に良心の呵責といったということはあり得ますし,逆にスピノザは何らかの感情についてそれを良心の呵責といいたかった,いい換えれば良心の呵責を感情として定義しておきたかったので,とりあえずこの感情のことを良心の呵責といったのだということもあり得るでしょう。こうした場合にはこの感情が良心の呵責といわれなければなかったことに特別の理由があったわけではないということになりますから,それについて考察するということ自体が無意味であることになるでしょう。
 一方,確かにスピノザはある意図をもって,失望とか落胆といわれるべき感情について,それを良心の呵責といったのだという可能性があるということも事実なのであって,そのこと自体は僕も否定しません。ただその場合にはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが強調していることがその意図の一部を構成しているのは間違いないでしょう。
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将棋会館の移転&自分への憤慨

2022-04-09 19:14:03 | 将棋トピック
 女流棋戦の増設スポンサーの増加は,佐藤が新会長となってからの体制の実績といっていいでしょう。このほかにもうひとつ,この体制は大きな実績を残すことに成功しました。それが東西の将棋会館の移転に目途をつけたということです。
 将棋会館は東西,東京都内と大阪府内にあります。棋士は基本的に将棋会館で公式戦の対局を行いますから,これはプロ棋士にとって欠くべからざる建物だといえます。ただ,どちらの将棋会館も,建物が老朽化していたため,建て替えないしは移転が長年の懸案となっていたのです。この懸案の解決の目途を立てたのですから,これは確かに大きな実績なのです。
 長年の懸案だったのになかなか解決できなかったのはふたつの問題があったからです。ひとつは移転するのであればどこに移転するのかということであり,もうひとつは移転するにせよ建て替えるにせよ,その資金をどのように調達するのかということです。他面からいえば,懸案に目途を立てたというのは,このふたつの問題を解決したということです。
 東京将棋会館は,棋戦のスポンサーとなっている不動産会社の協力を得られることになりました。関西将棋会館は,将棋で町おこしをしようという自治体の協力が得られることになりました。これで移転先の問題は解決されました。資金に関しては,返礼品を用意しての寄付でその一部を賄うという方法を採用。これは継続中なので,完全に解決できたというわけではありませんが,少なくともこのような方法で資金の調達を目指すという方法を提案し,かつ実践したというのは,実績あるいは成果のひとつであるといっていいでしょう。
 もちろんこうしたことのすべてが可能になったのは,佐藤が会長になって体制が一新されたからだということに還元できるわけでなく,佐藤が会長に就任した頃から目に明らかな追い風が吹き始めたことを抜きには考えられないでしょう。ただ純粋になし得たことという観点だけでみるなら,今尾の将棋連盟の体制は,過去に類をみないほどの大きな仕事をした,あるいはしているといえるかもしれません。

 僕はもしも良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとして定義するのであれば,自身がなしたあるいはなすであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitiaとするのがいいのではないかといいました。この観点からいって,『エチカ』の第三部諸感情の定義の中で定義されている感情の中で,最もそれに近いのは,意外に思われるかもしれませんが,第三部諸感情の定義二〇の憤慨indignatioであると思います。この感情は,害悪の観念を原因として伴っているからです。この憤慨は,定義Definitioの中で直接的にそのようにいわれているわけではありませんが,他人に対して向かう感情です。それが自分自身に対して向かうと,良心の呵責ということになるのではないかと僕は思うのです。他面からいえば,良心の呵責というのは,自分自身に対して向かう憤慨であるといういい方が可能なのではないでしょうか。
                                      
 良心の呵責と憤慨の類似性をいうためには,スピノザの哲学の観点からひとつだけ注意しておきたいことがあります。憤慨は,憎しみodiumの一種として定義されていますが,憎しみは第三部諸感情の定義七から分かるように,悲しみの一種です。ですから,僕がいった良心の呵責も憤慨も,同じように悲しみであるという点では変わるところはありません。ただ,憎しみというのは外部の原因の観念 idea cause externaeを伴った悲しみのことをいうのであり,僕がいう良心の呵責は外部の原因の観念を伴っているわけではありません。伴っているのは自分がなしたあるいはなすであろう害悪なのですから,それは外部に対していえば内部だからです。ですからこの意味での良心の呵責は悲しみの一種であっても,憎しみの一種ではないのです。他面からいえば,憎しみというのは外部に向かう感情なので,内部には向かいません。つまり自分で自分を憎むということは,スピノザの哲学では語義矛盾となるのです。とはいえ,自分で自分を憎むというのは,文法的にはあるいは慣用的な表現としては成立します。ですから,僕がいう良心の呵責を,自分で自分を憎むことの一種であると理解しても,間違いであるというわけではありません。ただスピノザの哲学では,そのようないい方は成立しないのだということは,理解しておいてください。
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将棋大賞&類似感情

2022-04-08 19:28:22 | 将棋トピック
 2021年度の将棋大賞が1日に発表されています。
                                        
 最優秀棋士賞は藤井聡太竜王。棋聖防衛,叡王挑戦,奪取。王位防衛。竜王挑戦,奪取。王将挑戦,奪取。記録部門の最多対局賞と最多勝利賞も合わせて受賞。文句なしでしょう。2020年度に続いて2年連続の最優秀棋士賞。
 優秀棋士賞は渡辺明名人。名人防衛。棋聖挑戦。棋王防衛。これも当然。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度,2015年度,2018年度,2020年度に続き2年連続8度目の優秀棋士賞。
 敢闘賞は菅井竜也八段。銀河戦朝日杯将棋オープンに優勝。タイトル戦に出場しないでの受賞は珍しいケースかもしれません。同じようにふたつの棋戦で優勝し,王位に挑戦した豊島九段の方が上だったような気もします。敢闘賞は初受賞。
 新人賞は伊藤匠五段。新人王戦に優勝。記録部門の勝率一位賞も受賞。これは妥当なところでしょう。初受賞。
 残る記録部門の連勝賞は渡辺和史五段でした。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流四冠。女流王位防衛。女流王将挑戦,奪取。倉敷藤花防衛。女流王座挑戦,奪取。マイナビ女子オープン挑戦。これも当然。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度,2020年度に続き7年連続12度目の最優秀女流棋士賞。
 優秀女流棋士賞は西山朋佳女流二冠。女王防衛。白玲獲得。女流王位挑戦。こちらも当然。この年度が初の受賞対象でした。
 記録部門の女流最多対局賞は伊藤沙恵女流名人。
 升田幸三賞は千田翔太七段。角換わり戦における☖3三金型の後手早繰り銀が受賞対象になっています。
 升田幸三特別賞は序盤のエジソンという異名で数々のアイデアを披露し,近々の引退が決まっている田中寅彦九段。
 名局賞は藤井竜王が奪取した竜王戦の第四局。
 女流名局賞は女流名人戦の第二局でした。

 『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』では良心の呵責conscientiae morsusが後悔poenitentiaの同類感情とされていました。後悔は『エチカ』でも定義されています。第三部諸感情の定義二七です。そこでは,僕たちが自由な決意decretumによってなしたと信じる行為の観念ideaを伴った悲しみtristitiaが後悔といわれています。このとき,自由な決意によってなしたということは,字義通りに積極的に解する必要はありません。僕たちが何かある行為をなして,後にその行為を表象して悲しみを感じたときに,もしもその行為をなさないことも可能であったと表象されるなら,僕たちは後悔するとスピノザはいっているのです。他面からいえば,ある行為について,自分はその行為をなすこともできたしなさないこともできたと認識した場合には,僕たちはその行為を自分の自由な決意によってなしたと判断しているということです。
 良心の呵責が,この意味での後悔の類似感情であったとして,その場合にはおそらく自由な決意であるかどうかということはあまり関係ありません。むしろそのある行為が害悪を伴っているかいないかということが重要なのであって,そこに害悪が伴っている場合には,この種の後悔は良心の呵責といわれると理解するのが適切だと僕は考えます。したがって,『短論文』でいわれている良心の呵責が,『エチカ』でいわれている後悔の類似感情であるということは可能だと思います。しかし『エチカ』でいわれている良心の呵責,すなわち第三部諸感情の定義一七でいわれている落胆conscientiae morsusについて,それは後悔の類似感情であるというのは僕には難しいと思えます。少なくともこの場合の良心の呵責すなわち落胆は,事前にそれと関係する希望spesおよび不安metusという感情がないならば,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには発生し得ない感情affectusですが,後悔の方はそのような感情であるとはいえないからです。よって『エチカ』で定義されている良心の呵責が,『エチカ』でいわれている後悔の類似感情であるとはいえないでしょう。したがってスピノザは,良心の呵責が後悔の類似感情であるという点については.『短論文』のときと『エチカ』のときで,考え方を改めている,あるいはそれぞれの感情を見直しているといっていいと思います。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&短論文の定義

2022-04-07 19:18:05 | 地方競馬
 昨晩の羽田盃トライアルの第25回クラウンカップ
                                        
 僕はノブレスノアの逃げと予想していたのですが,一番外のリヴィフェイスの逃げとなりました。タツノエクスプレス,アイウォール,ミゲルの3頭が2番手集団を形成。5番手にフレールフィーユ。6番手にノブレスノアとエミーブレイズとフウト。9番手にライアン。10番手にフレッシュグリーン。最後尾にフィリオデルソルという隊列で発走後の正面を通過し,向正面へ。2番手にミゲル,3番手にフレールフィーユという隊列になったところ,フウトが外から一気に上昇していきました。前半の800mは51秒4のスローペース。
 一気に動いたフウトは一旦は逃げたリヴィフェイスの前に出たようにみえましたが,すぐにリヴィフェイスが内から先頭を奪い返し,2頭が並んでコーナーに。そこでフウトは一旦離され,その外を回ったフレールフィーユが2番手に。その後ろからアイウォールとミゲルが並んで追い上げてきました。直線は逃げたリヴィフェイスと追ってきたフレールフィーユのマッチレース。差し切ったフレールフィーユが優勝。逃げ粘ったリヴィフェイスが半馬身差で2着。コーナーで苦しくなりましたが直線でも頑張ったフウトが2馬身半差で3着。
 優勝したフレールフィーユは南関東重賞初制覇。前走はこのレースのトライアルレースを勝っていて,連勝。このレースはそのトライアルの勝ち馬がここ3年続けて勝っていて,これで4年連続となりました。レースの傾向としては銘記しておくべき点でしょう。ただニューイヤーカップでは大きく負けている馬なので,先週の京浜盃から羽田盃に向かう馬たちに対しては,劣勢なのではないかと思います。父はエスポワールシチー。母の6つ下の半妹に2012年のエリザベス女王杯を勝ったレインボーダリア。Frere Fillesはフランス語で兄弟,娘。
 騎乗した大井の和田譲治騎手は報知グランプリカップ以来の南関東重賞7勝目。クラウンカップは初勝利。管理している浦和の野口寛仁調教師は開業から3年半で南関東重賞初勝利。

 実はこのことは,僕がここで深く考察したいことではないのですが,そのことと無関係というわけでもありませんから,もう少し探求を進めます。
 スピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』でも良心の呵責conscientiae morsusについて触れています。そこでは,善bonumであるか悪malumであるかを疑うようなあることをなすことによって生じる悲しみtristitiaが良心の呵責であるといわれていて,それは後悔poenitentiaの類似感情であるとされています。そして畠中は,この場合にはそれを良心の呵責と直訳してもいいのだけれど,第三部諸感情の定義一七の感情affectusについては,それを良心の呵責と直訳するのは適当ではないので,落胆conscientiae morsusという訳語を充てるといっています。
 僕はこの点についても疑問を感じます。後悔という感情は,過去に関係するのか未来に関係するのかといえば,過去と関係します。厳密にいえば,未来のこととして表象されるある事象と関係はし得ますが,その事象がそれと関連づけられる過去の事象とは絶対に関係します。したがって,後悔というのは僕たちが過去のある事柄を表象しなければ,生じることがない感情です。これに対して良心の呵責というのは,未来の事柄と関係し得ますし,未来の事柄とだけ関係し得るのです。僕たちはある事柄をなそうとして,その事柄によってだれかに害悪を及ぼすと確知するcerto scimus限りで,良心の呵責を感じるということがあり得ますし,現にあるからです。ですから,僕はスピノザが『短論文』で示している良心の呵責についても疑問がありますし,畠中がその場合にはそれを良心の呵責と直訳してもよいといっていることにも疑問をもちます。
 ただし,畠中が『短論文』の感情は良心の呵責と直訳するべきで,『エチカ』の感情は落胆という訳語を充てるべきだというとき,どちらの感情が良心の呵責という感情により近いのかという観点からそれを考えれば,確かに『短論文』で示されている感情の方が,『エチカ』で示されている感情よりは良心の呵責に近いという点には同意します。『短論文』と『エチカ』は,『短論文』の方が先に書かれています。つまりスピノザは,より良心の呵責からは離れていると思われる感情のことを,後に良心の呵責というようになったのです。
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マイナビ女子オープン&落胆

2022-04-06 20:04:31 | 将棋
 鶴巻温泉で指された昨日の第15期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女王が16勝,里見香奈女流四冠が15勝。これはNHK杯の女流予選を含んでいます。
 マイナビ出版の社長による振駒で里見四冠の先手となり中飛車。後手の西山女王が向飛車にしての相振飛車。先手は左玉,後手は高美濃の戦型に。
                                        
 先手が歩を突き出した局面。銀取りなので応じる必要があり,☖4五銀☗同銀と取って☖4六桂と打ちました。先手は☗5九飛。☗5三歩成があるので☖5四歩と取りましたが,☗4七金と逃げられました。
                                        
 第2図となって先手の駒得が確定して有利に。第1図では形は悪くても☖5四同金と取るか,そうでないなら第1図に進めてはいけなかったということになります。
 里見四冠が先勝。第二局は21日に指される予定です。

 落胆conscientiae morsusについてはそれに関連する感情affectusである,安堵securitas,絶望desperatio,歓喜gaudiumと共に,まとめて考察したことがあります。それを詳しく説明し直すことはしません。ただ僕は,岩波文庫版の訳者である畠中尚志とは異なり,希望spesに反した事柄が生じた場合にのみ感じる感情であるとは考えません。希望と不安metusはスピノザの哲学において,表裏一体の感情である,すなわち第三部諸感情の定義一三説明にあるように,現実的に存在する人間のうちに一方の感情があれば,その同じ人間のうちに他方の感情もあるからです。したがって,これは落胆に限らず何でもいいのですが,Xが希望の派生感情であれば,不安の派生感情でもあるというのが僕の見解opinioです。要するにある人間の希望に反することが起こるということと,その同じ人間が不安に感じていたことが現実化するということを,その人間にとって同じことと僕はみるのです。そして希望と不安を直接的な派生感情とする悲しみtristitiaを,絶望と僕は解します。落胆というのは,希望や不安の派生感情ではありますが,安堵の派生感情でもあり得ると僕は考えていて,ここでも僕はその見解に沿って落胆といっていると解してください。ただし,ここからの考察においては,僕の見解を採用しようと畠中の見解を採用しようと,大差はないかもしれません。というのもこの考察は,その部分に関することではなく,落胆の別の側面についての考察だからです。
 第三部諸感情の定義一七でいわれている感情について,それを良心の呵責と直訳せずに,落胆conscientiae morsusという訳語を畠中が与えているのは,適切であると僕は考えています。僕は良心の呵責というのも感情に違いないと思いますが,もしそれを定義するのであれば,自分自身がなした害悪あるいはなすであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみ,とするのが適切で,希望に反して生じた過去のものの観念を伴った悲しみとはいえないと思うからです。とくに僕は,希望に反するか否かということより,過去のものという限定を強調したいです。僕たちはまだしていないことすなわち未来のことに対しても,それによって生じるであろう害悪を表象し,良心の呵責を感じるということが現にあるからです。
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カーンの雑感⑨&良心の呵責

2022-04-05 19:06:23 | NOAH
 の最後のところでいったように,ジャパンプロレスへの入団はカーンの本意ではなかったのですが,後にジャパンプロレスは全日本プロレスと提携していたため,カーンは全日本プロレスで仕事をすることになりました。カーンは新日本プロレスに入団したのも本人の希望とは違っていて,本当は全日本プロレスに行きたかったのですから,自分を脅した永源遥に対しても,感謝の気持ちをもっていると語っています。カーンは全日本で仕事をするようになった後,日本武道館で馬場とのシングルマッチを行っていますが,これは感無量の試合だったようです。
 新日本と全日本では,スタイルが異なるといわれることもありますが,カーンはリングの上に立ってしまえばどこでも一緒という考えをもっていました。カーンが名を売ったのは,大巨人との試合でのアクシデントであったわけですが,そこから理解できるように,カーンはアメリカでも食べていくことができるレスラーでした。こうしたレスラーは,リングの上では相手を立てたり自分を立ててもらうということが大事で,そういう姿勢はどこのリングであっても同じであるという考え方をすることが多いように見受けられます。カーンもそのひとりだというのが僕の認識です。
 カーンはこの観点から,ジャンボ・鶴田天龍源一郎を比較すれば,天龍の方がはるかに試合ができると評価しています。鶴田は技をかけた後で,蹲っている相手の横で観客に対してガッツポーズをすることがあり,これはカーンにとってはプロレスラーとしてやってはいけないことだったのです。これは戸口の雑感⑩で戸口がいっていることと相通じる部分があります。戸口もまた,アメリカで食べていくことができるレスラーでしたから,考え方として相通じる部分はあったのでしょう。一方,これは天龍の雑感⑪で,天龍が鶴田に対していっていることとも,部分的には通じます。カーンが指摘している行為は,相手を見下しているとみることもできるからです。

 確かにスピノザは絶対的な善bonumが存在するということを認めません。同様に,普遍的な悪malumが存在するということも認めません。むしろ同じものが,現実的に存在する別々の人間にとって,一方にとって善であり,他方にとって悪であるということがあり得るということを認めますし,同じものが現実的に存在するある人間にとって,あるときには善であってもまた別のときには悪にもなり得るということを認めます。そして,神Deusは本性naturaの必然性necessitasによって働くagereのであり,すべてを善意によってなすということは全面的に否定します。もし神が善意によってすべてのことをなすのであれば,神の外に善という目的finisを立て,神はその目的に従属することになるので,神は不完全な存在者であることになるといって,そうした意見opinioを論難します。ただ,これだけのことによってニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがスピノザを自身の先達とみなすのは,根拠として弱いようにも思えます。確かにこれらのことは,現実的に存在する人間が良心をもつことを,あるいはこの場合には疚しさを感じることをといった方がいいかもしれませんが,そうしたことを否定するnegareことに繋がるでしょう。しかし一方で,スピノザが上述の主張をするとき,そこで良心について,あるいは疚しさについて,何事かを積極的に語っているというわけではないからです。
                                   
 ではスピノザは良心について,もしくは疚しさについて,直接的に何かをいっているのでしょうか。『エチカ』にはそうした部分がないように思えるかもしれませんが,必ずしもそんなことはありません。それは第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusと関係する部分です。この感情affectusを説明するときにいっておいたように,畠中はこれを落胆と訳していますが,この感情を日本語に直訳するなら,それは良心の呵責となるのです。そしてニーチェが強調しているのもこの部分です。とくにニーチェは,スピノザがこの感情を,スピノザが歓喜gaudiumの反対感情とみていることを重くみます。つまりスピノザにとって,良心の呵責は歓喜の反対感情なのであるから,スピノザはそれを肯定的には解釈していないとみるのです。この感情をどう解するかは別として,この見方自体は正当なものでしょう。
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叡王戦&先達

2022-04-04 19:12:59 | 将棋
 2日にシャトーアメーバで指された第7期叡王戦挑戦者決定戦。対戦成績は出口若武五段が2勝,服部慎一郎四段が0勝。
 振駒で服部四段の先手となり矢倉。後手が居玉のまま腰掛銀に構えて戦いに。かなり派手な応酬になりましたが,途中から先手がリードを奪ったようです。
                                      
 先手の王手に後手が逃げた局面。ここで☗2一金と指しましたが,これが失着で逆転となりました。
 後手は☖1五歩と突き☗4六飛と逃げたのに対し間髪を入れずに☖5四桂。
                                      
 これが絶妙手。☗同歩は☖5五金と打たれてしまうので☗6五玉と逃げましたが☖4六桂と後手は飛車を入手。簡単な局面ではないのですが,そのまま後手が押し切りました。
 出口五段が挑戦権を獲得するとともに,規定で六段に昇段。プロ入りから3年でタイトル戦初出場となりました。第一局は28日に指される予定です。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは良心は現実的に存在する人間にとって不要であると考えています。それは,良心の起源が原罪にあるからです。これはつまり,贖うことができない罪や,返済することができない負債は現実的に存在する人間にとって不要であるといっているのと同じことですから,ニーチェが良心は不要であるといったとしても,その理由は理解できるのではないかと思います。そして良心がない状態の人間,いい換えれば原罪や負債によって自身を苛むことがない人間のことを無垢な人間というのですから,ニーチェの思想の原理は,良心をもつより無垢であれということになります。僕の見解opinioでは,これを新約聖書に照合させていえば,使徒たちであるよりもイエスであれということになるのです。
 ニーチェは,良心を有するより無垢である方がよいという主旨のことをいうときに,ひとりの先達について触れています。それがスピノザなのです。ニーチェは,意地の悪いやり方であったけれども,スピノザはこのことに気が付いていたといっています。ニーチェは意地の悪いやり方というのを,ある日の午後にスピノザが自分自身のうちに良心の呵責conscientiae morsusが残っているかという問いを立てているうちに,世界は疚しさが創案される前の状態に戻ったのだといういい方で説明しています。これはニーチェの想像なのであって,実際にスピノザの精神mensのうちでそのような思惟作用が行われたと断定はしない方がいいでしょう。ただ,スピノザは,第四部定理八から分かるように,善悪を人間の認識cognitioに帰している,つまり普遍的な善悪があるというようには考えていませんし,第一部定理三三備考二から分かるように,Deusが善意の下にすべての事柄をなすという考え方については,きわめて否定的です。これらのことを合わせれば,ニーチェがいうように,スピノザが良心の疚しさを否定すること,他面からいえば,人間に疚しさを感じさせるだけの思惟作用としての良心を,否定しているという見方はできることになるでしょう。贖うことができない原罪も,返済することができない負債も絶対的な悪malumではあり得ないことになりますし,神が善意から良心を人間に与えるということもないからです。
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大阪杯&原罪

2022-04-03 19:34:24 | 中央競馬
 第66回大阪杯
 キングオブコージは発馬してすぐに控えました。アフリカンゴールドも逃げたかったようですが,枠が内だったジャックドールが先手を奪い,アフリカンゴールドは2番手に。3番手にウインマリリンとレイパパレ。5番手にポタジェとショウナンバルディ。3馬身差でヒシイグアス。8番手にヒュミドールとエフフォーリア。2馬身差でアリーヴォとステラリア。12番手にマカヒキ。13番手にスカーフェイスとアカイイト。レッドジェネシスとキングオブコージが最後尾を併走。前半の1000mは58秒8のミドルペース。
 3コーナーを回るとアフリカンゴールドがジャックドールに並び掛けようとしましたが,追いつけずに一杯に。その外からレイパパレが上がってきました。直線はジャックドールとレイパパレの競り合いからレイパパレが先頭に。その外からポタジェとアリーヴォが追ってきて,3頭の優勝争い。真ん中のポタジェが抜け出て優勝。2着争いは接戦になりましたが内のレイパパレがクビ差で2着。外のアリーヴォがハナ差で3着。
 優勝したポタジェは昨年1月のオープン以来の勝利。重賞初勝利での大レース制覇。この馬は強敵相手でもそんなに負けてはいなかったのですが,それは勝ち切るまでの力はなかったということでもあり,この優勝は驚きでした。ジャックドールにとっては展開が楽ではなく,レイパパレはそのジャックドールを早めに負かしにいったという敗因があるのですが,それを考慮しても差し切ったことは評価の対象としなければなりません。ここにきてまた力をつけたとみなければならないのかもしれません。父はディープインパクト。5つ上の半姉に2015年にきさらぎ賞,2016年にエプソムカップと毎日王冠,2017年にオールカマーを勝ったルージュバック
                                        
 騎乗した吉田隼人騎手は桜花賞以来の大レース5勝目。大阪杯は初勝利。管理している友道康夫調教師は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース17勝目。大阪杯は初勝利。

 これは『スピノザ〈触発の思考〉』で触れられていることではありませんが,僕から補足をしておきます。
 ニーチェの反キリストは,反イエス,すなわち現実的に存在した人間としてのイエスを否定するということに向けられているわけでは必ずしもなく,そのイエスをキリストつまり救世主として,キリスト教を布教していった人びと,とくにその初期に布教していった人びとに対して向けられています。一方,キリスト教において原罪という概念の典拠をどこに求めるべきなのか,具体的にいえば旧約聖書に求めるべきなのか,それとも新約聖書に求めるべきなのかということに関しては,様ざまな見解があり得ると思いますが,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはキリスト教の原罪,贖うことができないような罪について語ろうとしているのですから,少なくともそれはイエス以後の事柄について言及していると解する必要があります。その場合には,聖書における典拠が何であるのかということとは関係なく,イエスが原罪について語っているのか,それともイエスをキリストとしてキリスト教を布教した人たちが原罪について語っているのかということだけが問題になります。ですからたとえ典拠が旧約聖書にあるのだとしても,旧約聖書をどのように解するのかということが問題となるのであって,ニーチェ自身の思想の論拠となり得るのは,新約聖書だけであることになります。旧約聖書はイエス以前の書物であり,イエス以後についてはもちろん,イエスについて何かが書かれているわけではないからです。
 イエスは原罪について詳しく語っているわけではありません。それは共観福音書で共通しています。ですからキリスト教における原罪について責任を負うのは,イエス以後の使徒たちであることになります。他面からいえば,キリスト教における原罪,返済が不可能なほどの負債というのを,イエスが抱えていたということはできません。むしろイエス自身は原罪を知らなかったのであり,よって原罪がその起源となる良心,苛まれるような思惟作用も有していなかったということになります。ニーチェはその状態を無垢というので,イエスは無垢な人間であったことになるでしょう。
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スポンサーの増加&良心の起源

2022-04-02 19:00:33 | 将棋トピック
 佐藤が新会長となった後の体制で,大きな変化があったことのひとつが女流棋戦の増設ですが,もう一点,スポンサーの増加ということも挙げられると僕は考えています。
 代表的なのは,叡王戦の前主催者が主催を止めた後で,不二家が主催者として棋戦が継続したことでしょう。棋戦の主催というのは,新聞社をはじめとするメディア関係が務めてきました。不二家のような菓子の製造販売をする企業が棋戦を主催するというのは異例のことであり,これは将棋連盟の歴史にとって画期的な出来事であったといっていいでしょう。また,これは準公式戦ではありましたが,サントリーが棋戦を主催するということもありました。
 主催だけでなく,協賛者も増えました。以前のタイトル戦は,〇〇戦という名称でしたが,現在は××杯〇〇戦というのが珍しくなくなりました。また,××杯という名称は与えられていなくても,棋戦に協賛する企業が明らかに増加しているのは明白だといえるでしょう。さらに最近,名古屋対局場の新設が発表されましたが,これは会場をトヨタ自動車が無償で貸し出すとのことですから,棋戦の協賛社とはいえませんが,将棋連盟のスポンサーになったといういい方で間違いないと思います。
 もちろんこうしたことは,現在の将棋連盟の体制の力だけで可能になったことだとはいえません。炎の七番勝負でスター候補生であるということを内外に知らしめ,そして実際にスター街道を駆け上がっていった,あるいは今も駆け上がりつつある藤井聡太の影響なしにはこうしたことは起こり得なかったといえます。それは藤井が将棋界のスターであるということだけでなく,たとえば藤井が対局前にお茶を飲まなければ,あるいは対局中にチョコレートを食べなければ,今のような形でのスポンサーの増加はなかったかもしれないからです。ただ,こうしたスターが出現したという追い風を,追い風としてうまく利用することができるのかどうかということは,会社でいえば経営者の手腕によるところなのであり,将棋連盟でいえば会長を代表とする理事会の手腕ではあるでしょう。
 佐藤は叡王戦の新たな主催者を探すときに,まず不二家に話をもっていったと言っています。不二家を主催として棋戦を行うという発想ができただけでも,現在の体制は有能であると僕は思います。

 原罪と良心が関連するというニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの考え方は,簡単に示すと次のようなものになります。
                                       
 キリスト教に原罪という概念notioがあるということは有名です。これについてはここでは詳しく説明しません。この原罪というのは,現実的に存在する個々の人間にとって,贖うことができないような罪として与えられているものです。このために現実的に存在する人間は,贖うことができない罪を負っているという疚しさを感じることになります。この疚しさという思惟作用,あるいはこの疚しさを感じる精神mensの主体subjectumが,良心といわれるようになるのです。これは知の考古学の一種なのであって,良心という概念を考古学的に考察すれば,このような結論になるとニーチェはいっているのです。僕はこの指摘には正当性があると考えますが,そのことの是非はここでは探求しません。これを正しいと考えるか誤りであると考えるかは別に,ニーチェはそのように指摘しているということだけ理解しておいてください。
 このことは,たとえば良心の自由libertasといわれるときの良心よりは,幅が狭いかもしれません。ただ,良心というのは,疚しさを感じるときとか,痛み,精神的な痛みを感じるとき,あるいは呵責とか苛まれるような思いを感じるときに多くいわれることではあります。ですから原罪と関係しているのかどうかは別としても,疚しさという思惟作用,あるいは疚しさを感じるような思惟の主体と良心という概念を関連付けることは,理があることだということは分かるでしょう。
 同時にニーチェはこの概念を,ある負債として解しています。すなわち,現実的に存在する個々の人間にとって贖うことができない罪というのを,支払いが不可能な負債として理解するのです。そしてそれが良心の起源であるとニーチェはいっているのですから,そうした負債がない段階では,現実的に存在する人間は良心という概念を持たないということになります。その状態,人間が良心を持たない状態をニーチェは無垢な状態といいます。つまり負債,これは精神的な負債ですから,負い目という語で表現する方が的確かもしれませんが,この負い目がない状態を無垢な状態というのです。
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虞美人草&主旨

2022-04-01 20:03:43 | 歌・小説
 『漱石と三人の読者』では,漱石の作品では必ずしも小説の結末で解決が与えられるわけではないということ,また,小説の中に読者の位置が与えられていることが特徴として挙げられています。ですがこれには例外があって,その例外といえるものが『虞美人草』であると石原は指摘しています。どのような点で例外的であるのかということも含めて,この小説を僕なりに論評しておきます。
                                        
 この小説は藤尾という,才能豊かな女を中心として進捗していきます。藤尾は秀才である小野という男と結婚することを望むようになります。これは藤尾が小野に恋をしたと受け取ることもできますし,そうではなくて玉の輿に乗ろうとしたのだというように読むこともできます。これは読者の解釈に任されるのですから,僕はどちらであるともいいません。ただ藤尾は小野と結婚するために,母親とも協力して小野の気を引こうと努めます。ところが小野の方は,藤尾がそのような仕方で自分の気を引こうとしているということに嫌気がさしてしまい,別の女と結婚します。小野を失って悲嘆にくれた藤尾は結末で死んでしまうのです。
 このことから,はっきりとした結末が与えられていることは明白でしょう。漱石は基本的に藤尾のように技巧を凝らして男を誘惑しようとする女は悪であると考えていて,その女が不幸に陥るようにストーリーを計画したのです。『坊っちゃん』は勧善懲悪のストーリーといわれることがありますが,実は『虞美人草』もまた,僕たちがそのように読解するかどうかは別として,漱石にとっては勧善懲悪のストーリーであったといっていいでしょう。
 ただし,この小説を最も特徴づけるのは,その文章であると僕は思っています。こういういい方が適当であるかどうかは分かりませんが,『虞美人草』にはペダンティックな文章が多く含まれていて,そのために読みにくくなっていると僕は感じます。漱石はおそらく意図的にそのように書いたのだと思いますが,その意気込みは,小説という作品にとってはマイナスに働いたと思います。
 後に漱石自身が,この小説は失敗作だったといっています。失敗してしまった理由はいくつか考えられますので,それについても僕の考え方をいずれ示すことにします。

 ここまでにいってきたことから,僕の考察が必ずしも『スピノザ〈触発の思考〉』の主旨と関連しないであろうこと,少なくともそういうことが多くなるということは,容易に予測できると思います。これはたとえば『主体の論理・概念の倫理』を巡る探求を行ったときにも,必ずしもその主旨に沿った探求をしたわけではなく,スピノザの哲学について僕の探求心がそそられる事柄についてのみ考察をしたということと同じです。ですから書籍の主旨という観点からすれば,そこから大きくはみ出した探求をしていく場合もあるでしょう。また,スピノザ以外の思想家の思想については,その思想家の書籍にあたるのではなく,取り上げられている内容に沿って理解していくという点も同様になります。ですから僕の考察は,『スピノザ〈触発の思考〉』の論評というのとは程遠い内容になるということを,あらかじめ理解しておいてください。
 この書籍は6人の思想家の,スピノザの哲学と関係する触発について指摘されているのですが,すべてで7章あります。そして第1章は,「〈良心〉の不在と偏在」というタイトルになっていて,とくに特定の思想家の触発について集中的に書かれているわけではありません。もしも強いて思想家の名を出せばそれはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheということになるのですが,ほかの思想家たちについてはその思想の全貌とスピノザ哲学との触発という観点がもたれているのに対し,ここではニーチェの思想の全貌について触れられているわけではありません。いってみればこの章は,浅野が触発というとき,それで具体的に何を意味しようとするのかということを読者に理解してもらうためのものになっています。それは浅野が意図的にそうしたというわけではないと僕は思いますが,書籍の全体としては,明らかにそのような役割が与えられているのは確かだと思います。
 標題からも分かるように,この章では良心について集中的に語られています。その冒頭で,ニーチェの良心についての考え方が示されていて,それはキリスト教の原罪に関連するのだというのがニーチェの見方です。これは浅野がそういっているというだけでなく,確かなことです。
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