スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ダイヤモンドレース&第四部定理八

2007-04-06 22:22:17 | 競輪
 川崎記念2日目優秀のダイヤモンドレース。まず並びですが,神山選手が北日本,前田選手が南関東を追走しての3分戦でした。
 前受けしたのは中部で,中団に五十嵐選手,後方に山崎選手で周回。残り2周から山崎選手が上昇し,バックで小嶋選手を抑えました。打鐘から今度は五十嵐選手が上昇,山崎選手を抑えてこのラインの3車が出きったところでホームから先行。4番手は内の山崎選手と外の小嶋選手で取り合う形になりましたが,そのまま小嶋選手が発進。バックで前にぐんぐんと迫りましたが番手の渡辺選手のところで一杯。後方に置かれた山崎選手は動けなかったので,前のラインでのきわどい争いとなり,番手の渡辺選手が1着,3番手の前田選手が2着に届き,五十嵐選手が3着に粘りました。
 小嶋選手と山崎選手が互いを意識しすぎたためにやや展開に恵まれた部分があったのは確かですが,それでも小嶋選手に捲らせなかったわけですので,今日は五十嵐選手の健闘が印象に残りました。

 善悪の定義Definitioというのはこの通りなのですが,これだと今度は有益utileであるということ,あるいはある事柄についてそれが有益であると確知するcerto scimusということがどういうことであるのかということが問題になってきます。そこでそのヒントとなるのが第四部定理八です。
 「善および悪の認識は,我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない」。
 僕が思うにこの定理Propositioにはふたつばかり注意するべき点があります。ひとつは,この定理では明らかに善悪というのが認識cognitioの問題とされているということです。スピノザはすでに第四部の序言において,善悪というのは,善bonumあるいは悪malumといわれる事物について積極的な何かを表示するような事柄ではなく,人間が事物を相互に比較することによって形成する概念notioであるといっています。確かに事物がひとつあるだけでは,それは善とも悪ともいわれ得ずに,少なくともふたつの異なる事物が存在することによって,はじめて一方が善といわれ他方が悪といわれ得るでしょうから,これはこれでいいのではないかと思います。
 もうひとつは,意識された限りでの感情affectusといわれている点で,これは単に喜びlaetitiaが善といわれ悲しみtristitiaが悪といわれるのではなく,喜びという感情の観念ideaが善と認識され,逆に悲しみという感情の観念が悪と認識されるということであろうと思います。
コメント
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