スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大楠賞争奪戦&僕の定義の場合

2022-04-26 19:02:08 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは桜井‐佐藤の北日本,吉田‐平原‐諸橋‐木暮の関東,稲川‐村上の近畿で大坪は単騎。
 佐藤がスタートを取りましたが,誘導との車間をなかなか詰めませんでした。この間にバックで稲川が上昇。誘導と佐藤の間に入って前受け。3番手に桜井,5番手に大坪,6番手に吉田という周回に。吉田は前との車間を少し開けたものの動きはなく,この隊列のまま誘導が退避して残り2周。打鐘が入って桜井が上昇。稲川と先行争いの形になり,これを制したのは稲川。桜井は脱落して佐藤が村上の後ろにスイッチ。バックに入ってようやく吉田が反撃開始。ただ捲ることはできず,いききれないとみたマークの平原が最終コーナーから自力で発進。直線で前をいく選手すべてを差し切って優勝。村上にスイッチした佐藤が稲川と村上の間に進路を取り,村上と接触して両選手は落車。それに巻き込まれて,平原マークから内に進路を取った諸橋と佐藤を追走するレースになった大坪も落車。落車とは無関係の大外から伸びた木暮が1車身半差で2着。逃げ粘った稲川が4分の3車輪差で3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は先月の大垣記念以来の優勝で記念競輪30勝目。武雄記念は初優勝。この開催は松浦が準決勝で敗退。このために関東ラインがかなり有利になりました。吉田はおそらくかまして先行するという作戦を立てていて,しかし先に桜井に発進されてしまったために,先行するタイミングを失ってしまったのだと思います。これでみれば完全に失敗に終わったレースで,実際に捲りは不発に終わったのですが,ある程度まではいってくれたので,平原は優勝することができました。吉田の捲りによいところで見切りをつけたのが平原の優勝の要因といえそうです。

 僕の見解opinioでは,良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとして定義するなら,自分がなしたあるいはなすであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitia,とするのが適切です。僕たちが良心の呵責を感じるという場合には,概ねこのような心理状態のことを意味しているといえるからです。そこでもしも良心の感情を,『エチカ』あるいはスピノザの哲学から離れて,ここに定義したような感情としてみた場合にも.この感情は推奨されるのかということを考えれば,やはりこれは推奨され得ると僕は解します。
 僕が定義した良心の呵責は,過去とも未来とも関係する感情です。自分がなしたことというのは過去のことですし,なすであろうことというのは未来と関係しますから,これはとくに説明するまでもないでしょう。このとき,これを過去とだけ関係づけるとすれば,それは確かに第三部諸感情の定義二七の類似感情であるといえます。そしてその後悔poenitentiaをスピノザは推奨しているのですから,この場合にスピノザが良心の呵責を推奨しないということはあり得ません。僕が『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』の良心の呵責については,それを良心の呵責ということも,畠中が良心の呵責と日本語に訳して構わないといっていることにも疑問をもっているということはすでにいったことですが,それが後悔の類似感情であるということは認めます。したがって『短論文』の良心の呵責が,スピノザによって肯定されることは疑い得ません。これと同じ理由で,僕が定義した良心の呵責が,過去と関連づけられる限りでは推奨されるということも,疑い得ないのです。
 一方,未来と関連づけられる場合にも,この良心の呵責は推奨され得ると僕は考えます。この場合に良心の呵責は,他人に対して害悪を加えることを回避するようにその良心の呵責を感じている人間を動かし得る感情であるからです。ある人間Aが現実的に存在しているとして,この人間Aが別の人間Bに対して,Bの害悪になるとAが確知していることをなそうとしているときに,Aがその加害,他面からいえばBの被害を表象して良心の呵責を感じたために,その行為をなすことを止めるということは,論理的にあり得ますし,現実的にもあり得るでしょう。
コメント
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