スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

永源遥&2015年12月の通院

2016-06-24 19:05:12 | NOAH
 ラッシャー・木村が馬場を「兄貴」と呼び始めた流れで結成された義兄弟タッグ。世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場していますが,最終的にはファミリー軍団となり,悪役商会を相手に前座を盛り上げることになりました。僕は今でもあれはプロレスのひとつのスタイルの完成形であったと思っています。悪役商会の側で中心的役割を担ったのが永源遥。プロレスラーとして何か実績を残したとはいい難いかもしれませんが,間違いなく名レスラーだったと僕は思います。
 僕のプロレスキャリアが始まったとき,永源は新日本に所属していました。ただし前座レスラーであり,テレビ中継に登場することはありませんでした。そもそも当時の新日本プロレスのスタイルとは一線を画していたと思え,テレビに出てはいけないレスラーだったかもしれません。
 長州力ジャパンプロレスに参加し,必然的に全日本で仕事をするようになりました。長州が永源のスタイルを好んでいたとは僕には考えられません。ただ永源は営業の手腕があり,それを買われてジャパンプロレスに参加することになったのではないかと推測します。
 1987年のピンチのときに谷津嘉章らとともに全日本に残留。長州と袂を分かちました。新日本に復帰してもレスラーとしてはいい仕事場があったとは思えないので,これは賢明な選択だったといえるでしょう。ただ,営業手腕を馬場に買われたという可能性もあると思います。
 天龍源一郎がSWSに移籍した後も全日本に留まりました。すでに悪役商会は結成されていたのでこれは当然の判断。結果的に生前の馬場の最後の試合の相手を務めたひとりになりました。
 NOAHの旗揚げには参加。木村も参加しましたから,相手に困ることはありませんでした。NOAHでも営業を担当し,その部分での貢献もあった筈です。
 営業手腕があったというのは,同時にアイデアマンであったということだろうと思います。ファミリー軍団と悪役商会の試合があれだけ面白くなったのは,永源の才能による部分も大きかったのではないでしょうか。

 12月20日,日曜日。妹のピアノのレッスン。午後2時半からでした。
 12月21日,月曜日。内分泌科の通院の日でした。
 病院に到着したのは午後12時50分。この日は採尿を終えると採血の順番が回ってくるところでしたので,先に採血を済ませ,それを終えてから注射針を処理しました。診察の予約は午後2時半でしたので,この日も外食しています。
 採血を終えると包帯を巻かれます。僕は普段はこれを内分泌科の受付に行く直前に外して,受付に設置されている所定のごみ箱に捨てています。ところがこの日はいつになくきつく巻かれてしまったようで,締め付けに耐えられず,ずっと早い段階で外してしまいました。実際にはこれは5分ほど着用しておけばよいものですからそれでも問題はありません。ただごみ箱は所定のものを使わなければいけない規則ですから,持ち歩かなければならず,この面倒をいつもは避けているだけです。
 この日は待たされました。診察が始まったのは午後3時半でしたから,1時間も遅れたことになります。最近はひどく待つケースが減っていましたので,この日は何か特別な理由があったのだろうと思うのですが,何であったかは分かりません。
 HbA1cは7.0%でした。まだそれほど寒くなっていませんでしたから,これくらいの数値を保つことができていたということです。そしてこの日はこれ以外には何も異常が出ていませんでした。これは非常に珍しいケースで,2014年4月以来です。
                                     
 計測した血糖値を記入しておく自己管理ノートは1年で1冊を使いきるものです。年末でしたからもうすぐ記入欄がなくなります。ですので新しいものをもらいました。一方,K先生の方からは,来年,というのは今年のことですが,3月で退職することが決まったという話がありました。主治医は2年か3年で交代するというのがほぼ通例になっていましたから,僕もそんなに驚く話ではありませんでした。次の診察もやや間隔があり3月中旬になりましたが,それがK先生による最後の診察になるということです。この日も薬局にはすべての在庫があり,午後4時45分に帰宅しました。
コメント
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