スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理二七&善悪

2016-09-10 19:19:22 | 哲学
 第四部定理二六では,人間が理性ratioを用いている場合には,事物を十全に認識するために役立つものだけを有益であると判断するとされています。ところで,第四部定義一では,人間が有益であると確知するものについては善bonumであるとされています。つまりこの定理は善および悪malumと関係している定理なのです。その帰結として示されるのが次の第四部定理二七です。
                                     
 「我々は,真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する」。
 これは必然的な帰結事項ですから,詳しく証明することは不要でしょう。そしてこの定理から確知するということの意味が判明します。
 この定理が第四部定理二六からの帰結事項であるなら,それは理性による認識だけに的を絞っていわれていると解さなければなりません。第四部定理二六が理性による認識についてだけ言及し,たとえば人間の精神が事物を表象するというような場合は排除しているのですから当然です。したがってこの定理でいわれている確知するということは,理性によって十全に認識されるということでなければならないのです。とするとスピノザが同じ語句で説明している部分,すなわち第四部定義一と第四部定義二も,理性によって認識される場合の善と悪について定義していると解しておくのが妥当であるということになるでしょう。
 ただし,これは第四部定理八とは両立しません。悪の認識とされる悲しみtristitiaの感情affectusは,観念ideaとしてみるなら十全ではあり得ず,したがって理性による認識ではあり得ません。また善の認識とされる喜びlaetitiaという感情も,観念としてみるならば十全であるとは限らないからです。このことは第四部定理六八から明白で,もしも理性的であることを前提として絶対視するなら,本来は善も悪も定義しようがないからです。
 こうした部分についても,善と悪は異なった観点から言及されているといえるでしょう。

 こうした比較が喜びlaetitiaの場合だけでなく,悲しみtristitiaの場合にも生じ得ること,他面からいえば善bonumの場合だけでなく悪malumの場合にも生じ得ることは明白でしょう。
 AもBも悲しみを齎す限り,AもBも悪と認識されます。そしてBによって齎される悲しみの方がより大きいなら,Bの方が大きな悪と認識されるでしょう。このとき,どちらかの悲しみは必ず享受しなければならず,しかし一方の悲しみを享受するなら他方の悲しみは回避できると認識されたとします。この観点からAはそれ自体では悲しみすなわち悪であるけれども,Bというより大きな悲しみを阻害するという観点からはむしろ善と認識されるでしょう。いい換えればこの場合にはその人はAを希求することになるでしょう。この場合にも,AとBが比較されることによってAは善と認識され,その善の認識がAを肯定するという意志作用volitioの起成原因causa efficiensとなっています。いい換えればAという善を欲望する起成原因となっています。そしてこれも人間の現実的本性actualis essentiaに合致するがゆえに,この欲望cupiditasはその人間の精神のうちに必然的に発生しているといえるでしょう。
 したがって,スピノザの哲学とくに『エチカ』にみられる善悪のふたつの観点とは,善と悪いい換えれば喜びと悲しみが単独のものとして認識される場合と,複数のものが比較された上で,あるものが善,それ以外のあるものが悪と認識される場合の観点であるというのが僕の見解です。前者は第三部定理九備考第四部定理八にみられる観点で,スピノザの哲学において何を善といい,また何を悪というかの基調となる観点です。そしてこの場合には喜びは必然的に善であり,悲しみは必然的に悪であるということになります。後者が第四部定理一五第四部定理一九でみられる観点です。この場合には喜びは必然的に善ではありませんし,悲しみは必然的に悪であるというわけでもありません。むしろ大きな喜びを妨害する小さな喜びが悪と認識される場合もあるでしょうし,逆に大きな悲しみを妨害する小さな悲しみが善と認識される場合もあるでしょう。これを矛盾というなら,その矛盾は解消できないし,解消する必要もないというのが僕の結論です。
コメント