スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ジャンボ・鶴田&固定化

2014-01-12 19:22:24 | NOAH
 ブロディとスヌーカのシングルマッチが消化不良の一戦になってしまったのは,ジャンボ・鶴田が乱入したためでした。僕が理解する仲間割れの事情から,何らかの仕方で試合を終らせる必要があり,その役を鶴田が買って出た,あるいは押しつけられたということであったと僕は理解しています。鶴田は全日本プロレスに入団するときに,全日本プロレスに就職するということばを使ったくらいですから,損な役回りではあるけれども,これも仕事のひとつと割り切ることができたのではないかと思います。
                         
 僕のプロレスキャリアが始まった時点で,鶴田はすでにトップクラスといっていい選手でした。1992年に肝臓の疾患で休養に入るまではずっとそのクラスで戦っていましたから,ものすごく息長く戦い続けた選手で,レスラー人生のトータルでの競い合いとしては,僕が全盛期をライブでみた選手の中では最強であったといえると思います。
 身体が大きくて運動能力にも優れていた,単に優れていたといより秀でていましたから,どんなに素晴らしい仕事をしても,もっとできるのではないかとファンに思わせてしまうような希有な選手でした。僕が見始めた頃からは超獣をライバルとし,ジャパンプロレスとの対抗戦時代長州力らと戦い,1987年のピンチの後は天龍と戦い,天龍の離脱後は三沢と戦いというように,主たるライバルは次々と変わっていきましたが,ずっと同じような強さを発揮しました。今から考えればこれは驚異的なことであったと思えるのですが,その時点ではなかなか満足感を与えることがなかったような選手で,これだけの選手は今後もそうそうは現れることはないでしょう。
 しかも,見た目だけの印象でいうなら,病気でリタイアする直前まで,単に強さを維持してきたというだけでなく,より強くなっていった感さえあります。実際,長州と戦っていたときよりも天龍と戦っていたとき,天龍と戦っていたときよりも三沢と戦っていたときの方が,鶴田は強いと感じた方も多いのではないでしょうか。これはたぶん鶴田が自分の強さの表現方法をスキルアップさせていったからだとは思うのですが,人気も,リタイア直前が最も高かったように思えます。
 病気の影響での引退後は教職に就きました。残念ながら第二の人生の志半ばで亡くなってしまいましたが,その人生を全うできていれば,プロレスラーの生き方に新しい道を敷くこととなっていただけに残念でなりません。

 スピノザは第二部定理四九系で,知性intellectusと意志voluntasが同一であることを明言しています。そしてスピノザがいう知性とは個々の観念ideaの総体のことであり,意志とは個々の意志作用volitioの総体のことです。つまりある観念とその観念を肯定するaffirmare意志作用は同一のものであるということになります。それがときに観念といわれ,またときに意志といわれるのは,この思惟の様態cogitandi modiがどのような観点から把握されているのかという相違にすぎないのです。ですから,いかに意志の欠如があるとはいっても,Aの観念が知性のうちにあるという場合に,一切の意志がそこには存在しないということにはなりません。もちろんこれはBの観念の場合にも同様です。
 このことは,ことばと観念とは異なるということをよく理解し,ただ思惟の様態としてのAとBに注目できる人にとっては当然のことでしょう。ここでの仮定では,AはBを発生させることによって原因causaであると十全に認識されるのですから,Aの観念のうちにはAからBが発生するということを肯定する意志作用が存在しているからです。同様に,BはAから生じることによって結果effectusであると十全に認識されるのですから,Bの観念のうちにも,BがAから発生するということを肯定する意志作用が存在しているからです。そしてこれらの意志作用が存在しないならば,Aの観念もBの観念も,どんな知性のうちにもあることができないということもまた明白です。
 僕がここで意志の欠如という場合の意志とは,このときに,AとBの関係を固定化するような意志作用のことです。AからBが発生することを肯定する意志作用は,AからCが発生することを肯定する意志作用が同時に存在することを何ら妨げることがありません。同様に,BがAから発生することを肯定する意志作用は,BがDから発生することを肯定する意志作用が同時に存在することを排除することができません。つまりAとBの関係を固定化する意志作用とは,そうした可能性を完全に排除するような意志作用のことです。そしてこうした意志作用の存在を前提しなければ,第一部公理三は,知性のうちに存在することができないということになると僕は考えます。
コメント
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