スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ジャパンプロレス&実在的と名目的

2011-04-09 18:33:42 | NOAH
 全日本プロレスに1987年のピンチをもたらしたのはジャパンプロレスだったのですが,このジャパンプロレスと全日本プロレスが提携するようになったのは1984年の暮れのことでした。
 全日本プロレスの暮れの風物詩といえば世界最強タッグ決定リーグ戦。『馬場伝説』に掲載されている年表で調べてみたところ,この年の最強タッグの最終戦は12月12日。それまでは国技館で行われていたのですが,この年は横浜文化体育館。僕の生年月日については以前に記しましたが,誕生日プレゼントということでこのチケットを買ってもらい,アリーナで生観戦しています。プロレス観戦ということならそれまでにも経験がありましたが,全日本プロレスはこの日が初めてであったと記憶しています。メーンは鶴田,天龍組とハンセン,ブロディ組の公式戦で,鶴田組が反則勝ちでリーグ戦の優勝を決めました。
 おそらくはテレビ局同士の契約があったためだろうと思いますが,ジャパンプロレス勢の試合が日本テレビの全日本プロレス中継で放映されるようになったのは翌年になってから。ただ,ジャパンプロレス勢はそれより前から全日本プロレスのリングには上がっていまして,実際にこの日もジャパンプロレスのエースであった長州は試合をしています。
 全日本プロレスはずっと日本人選手と強力外国人選手の対抗という形でストーリーが展開していました。つまり日本人選手同士の対戦というのはほとんどなかったわけです。しかしこれを機に,ジャパンプロレス軍団と全日本プロレスの対抗,そこに外国人選手も絡むということになり,だいぶ様変わりしました。
 天龍が鶴田に対して反旗を翻したのも,あるいは三沢が打倒鶴田の旗を上げたのも,この日本人選手同士の対抗という路線に沿ったものであったとはいえます。そういう意味では,実は全日本プロレスがピンチをチャンスとすることができたことの要因の一端は,このときの全日本とジャパンによる対抗という面があったのだということも可能かもしれません。そう考えれば,後に全日本と訣別し,新日本にUターンした選手たちにとっては,皮肉な結果であったともいえるでしょう。

 第一部定義四のうちに含まれていると僕が考えている認識論と実在論を巡る問題とは別の問題ですが,これについてはドゥルーズGille Deleuzeが『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』で用いているいい方に倣い,実在的realiterであるかそれとも名目的であるかを巡る問題と規定しておきます。ただ,ドゥルーズは著書において,実在的とはどういう意味であり,名目的とはどういう意味であるのかということを具体的に説明しているわけではありません。そこでまず,この両者の差異を,この考察では僕がどのようなものとして理解するのかということを説明しておくことにします。
                         
 もしも第一部定義四が実在的な定義Definitioであるとするなら,属性attributumというのが実在的なものであるということが前提されます。具体的な意味としては,この定義を認識論的な定義と理解するのか,それとも実在論的な定義として理解するのかによって異なってきますので,それを明らかにすることは,少なくとも今の段階ではできません。ただ,そのどちらの場合であれ,この定義を実在的な定義と解する以上は,何らかの意味で実体substantiaというものが実在的なものであるということもまた前提されなければなりません。というのは,属性というのは実体の本性essentiaを構成すると知性intellectusが認識するcognoscereもの,ないしは実体の本性を構成しているところのものですから,属性が実在的であるためには実体もまた実在的であるということが必要条件となってくるからです。実在的ではないもの,あるいは実在的であるかどうかが不明であるものについて,認識論的な意味であれ実在論的な意味であれ,その本性は実在的であるということが不可能であるということは,それ自体で明らかだと思います。
 一方,もしも第一部定義四は実在的な意味は含まず,単に名目的なものとして定義されているにすぎないのであるとすれば,属性は実在的である必要はありません。したがって実体についてもいかなる意味でまた同様です。よってこのような仕方でこの定義を理解するのであれば,実体というものは実在的なものであるかどうかは不明であっても,もしもその実体の本性を構成すると知性が知覚するものについては,それを属性というというのが認識論的な理解の場合の意味になりますし,同様にその実在性realitasと関係なく,実体についてその本性を構成するものを属性というというのが,実在論的に理解する場合の意味となります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする