スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

カーンの雑感⑨&良心の呵責

2022-04-05 19:06:23 | NOAH
 の最後のところでいったように,ジャパンプロレスへの入団はカーンの本意ではなかったのですが,後にジャパンプロレスは全日本プロレスと提携していたため,カーンは全日本プロレスで仕事をすることになりました。カーンは新日本プロレスに入団したのも本人の希望とは違っていて,本当は全日本プロレスに行きたかったのですから,自分を脅した永源遥に対しても,感謝の気持ちをもっていると語っています。カーンは全日本で仕事をするようになった後,日本武道館で馬場とのシングルマッチを行っていますが,これは感無量の試合だったようです。
 新日本と全日本では,スタイルが異なるといわれることもありますが,カーンはリングの上に立ってしまえばどこでも一緒という考えをもっていました。カーンが名を売ったのは,大巨人との試合でのアクシデントであったわけですが,そこから理解できるように,カーンはアメリカでも食べていくことができるレスラーでした。こうしたレスラーは,リングの上では相手を立てたり自分を立ててもらうということが大事で,そういう姿勢はどこのリングであっても同じであるという考え方をすることが多いように見受けられます。カーンもそのひとりだというのが僕の認識です。
 カーンはこの観点から,ジャンボ・鶴田天龍源一郎を比較すれば,天龍の方がはるかに試合ができると評価しています。鶴田は技をかけた後で,蹲っている相手の横で観客に対してガッツポーズをすることがあり,これはカーンにとってはプロレスラーとしてやってはいけないことだったのです。これは戸口の雑感⑩で戸口がいっていることと相通じる部分があります。戸口もまた,アメリカで食べていくことができるレスラーでしたから,考え方として相通じる部分はあったのでしょう。一方,これは天龍の雑感⑪で,天龍が鶴田に対していっていることとも,部分的には通じます。カーンが指摘している行為は,相手を見下しているとみることもできるからです。

 確かにスピノザは絶対的な善bonumが存在するということを認めません。同様に,普遍的な悪malumが存在するということも認めません。むしろ同じものが,現実的に存在する別々の人間にとって,一方にとって善であり,他方にとって悪であるということがあり得るということを認めますし,同じものが現実的に存在するある人間にとって,あるときには善であってもまた別のときには悪にもなり得るということを認めます。そして,神Deusは本性naturaの必然性necessitasによって働くagereのであり,すべてを善意によってなすということは全面的に否定します。もし神が善意によってすべてのことをなすのであれば,神の外に善という目的finisを立て,神はその目的に従属することになるので,神は不完全な存在者であることになるといって,そうした意見opinioを論難します。ただ,これだけのことによってニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがスピノザを自身の先達とみなすのは,根拠として弱いようにも思えます。確かにこれらのことは,現実的に存在する人間が良心をもつことを,あるいはこの場合には疚しさを感じることをといった方がいいかもしれませんが,そうしたことを否定するnegareことに繋がるでしょう。しかし一方で,スピノザが上述の主張をするとき,そこで良心について,あるいは疚しさについて,何事かを積極的に語っているというわけではないからです。
                                   
 ではスピノザは良心について,もしくは疚しさについて,直接的に何かをいっているのでしょうか。『エチカ』にはそうした部分がないように思えるかもしれませんが,必ずしもそんなことはありません。それは第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusと関係する部分です。この感情affectusを説明するときにいっておいたように,畠中はこれを落胆と訳していますが,この感情を日本語に直訳するなら,それは良心の呵責となるのです。そしてニーチェが強調しているのもこの部分です。とくにニーチェは,スピノザがこの感情を,スピノザが歓喜gaudiumの反対感情とみていることを重くみます。つまりスピノザにとって,良心の呵責は歓喜の反対感情なのであるから,スピノザはそれを肯定的には解釈していないとみるのです。この感情をどう解するかは別として,この見方自体は正当なものでしょう。
コメント
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