スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
久しぶりに将棋の本を紹介します。これが8冊目です。一昨年の6月30日に光文社から発刊された野澤亘伸の「師弟 棋士たち魂の伝承」です。
著者の野澤はカメラマンです。高校時代は将棋部で部長を務め,団体戦では県大会で準優勝したそうなので,それなりの棋力はあるとみていいでしょう。おそらく海パンカメラマンという異称で,アイドルの写真集を多く出されている方として有名なのではないかと思いますので,その方が将棋の本を出したということ自体が僕には驚きではありました。
プロ棋士になるためには師匠が必要です。この本は6組の師弟について,師匠と弟子にそれぞれインタビューを重ね,その関係を明らかにしていくというものです。その6組というのは順に,谷川浩司と都成竜馬,森下卓と増田康宏,深浦康市と佐々木大地,森信雄と糸谷哲郎,石田和雄と佐々木勇気,そして杉本昌隆と藤井聡太です。さらに巻末に,羽生善治に対するインタビューがあります。
それぞれの師弟関係のエピソードも豊富で,まずそれだけで面白く読むことができると思います。また,個々のエピソードとしても,たとえば増田は将棋を研究するときに,集中するために立って行うという,個人的には驚くようなことも含まれていました。僕が感じたのは,師匠というのは僕が想像していたよりもずっと弟子のことを考えていますし,また弟子の方も,従うのであれ反撥するのであれ,師匠からの影響というのは否めないものがあるのだということです。
この本が素晴らしいのは,野澤が綿密な取材をすることによって,様ざまなことを明らかにしているということだけではありません。野澤の将棋に対する愛や,棋士に対する畏敬の念といったものが,文章の端々に満ち溢れていることの方が,僕には強く印象に残りました。本業はカメラマンですが,ライターとしてもかなり優秀だと思います。
スピノザの相の下に,といういい回しは,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche自身による記述です。いうまでもなくそのときニーチェは,第二部定理四四系二 の,永遠の相の下に quadam aeternitatis specieというスピノザの記述を意識していました。
ここまでの文脈から理解できることがあります。ニーチェによれば,神自身が蜘蛛となって自らの巣を張るようになったのは,スピノザの相の下においてです。つまり,神が蜘蛛となったのは,形而上学の歴史の中で,スピノザが最初であるとニーチェはみていることになります。そしてスピノザ以前の形而上学者は,神の周囲に蜘蛛の網を張っていたのだということになるでしょう。いい換えれば,この部分において神の周囲に蜘蛛の網を張っていたとされているのは,スピノザ以前の形而上学者であったということになります。
次に,神の周囲に蜘蛛の網を張っていたことと,神自身が蜘蛛になって自らの巣を張るようになったことを,連続的な出来事とニーチェはみなしています。したがってニーチェはスピノザのことを,神が蜘蛛となって自らの巣を張るようになったという点で新奇性を認めているといわねばならないでしょうが,その新奇性はそれ以前の形而上学からの連続性から理解されなければならないと考えていることも間違いないところです。したがってスピノザは,それ以前の形而上学者の系譜から連なるひとりの形而上学者として,ニーチェによって把握されていると解するべきです。
これは一七節の終りの方で,この節の最後は,神が物自体になったというように締め括られています。物自体というのはカントImmanuel Kantによる哲学用語です。つまりニーチェは,カントはスピノザから連なる形而上学者のひとりであると考えていたことになるでしょう。また,これによってこの節が終了しているということは,カントの形而上学が,形而上学の到達地点であるとニーチェはみなしていたからなのかもしれません。ただしこれについては僕は断定は避けます。
これでみれば分かるように,『アンチクリスト Der Antichrist 』には確かに蜘蛛の比喩が出てくるのですが,スピノザ自身が蜘蛛に喩えられているとはいえない面があります。むしろその比喩の対象は,神だと解せそうです。
昨年度の将棋大賞 は1日に発表されました。
最優秀棋士賞は渡辺明三冠 。棋聖に挑戦 ,奪取 。A級優勝で名人挑戦。棋王を防衛 。王将を防衛 。日本シリーズに優勝 。昨年度,最も活躍した棋士なので当然の受賞。2012年度 以来,7年ぶり2度目の最優秀棋士賞受賞。
特別賞に木村一基王位。王位に挑戦 ,奪取 。この奪取の一局が名局賞に選出されています。昨年度の実績はこれだけですが,史上最年長でタイトルを獲得したことが評価されることになりました。特別賞は初受賞。
優秀棋士賞は豊島将之二冠。名人を奪取。竜王に挑戦 ,奪取 。叡王に挑戦 。銀河戦に優勝 。実績的には渡辺三冠と甲乙つけ難いところがあります。タイトルをひとつ防衛していれば,逆になったかもしれません。優秀棋士賞は初受賞。
敢闘賞は永瀬拓矢二冠。叡王を奪取 。王座に挑戦 ,奪取 。実績的にはナンバー3で,これも当然の受賞。敢闘賞は初受賞。記録部門の連勝賞も15連勝で獲得しました。
新人賞は本田奎五段。棋王に挑戦 。タイトル戦出場までいったのが大きく評価されました。ただ真価を問われるのはこれからだと思います。
残る記録部門は,最多対局賞が67局の佐々木大地五段。最多勝利賞は53勝,勝率1位賞は8割1分5厘で共に藤井聡太七段でした。
最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位を奪取 。初代清麗を獲得 。倉敷藤花を防衛 。女流名人を防衛 。女流棋士だけが受賞の対象なので当然でしょう。2009年度 ,2010年度 ,2011年度 ,2012年度,2013年度 ,2015年度 ,2016年度 ,2017年度 ,2018年度 に続き5年連続10回目の最優秀女流棋士賞受賞。
優秀女流棋士賞は伊藤沙恵女流三段。倉敷藤花に挑戦 。女流棋士の中での実績はナンバー2です。ただ該当者なしもあり得るところだったと思います。2017年度以来,2年ぶり2度目の優秀女流棋士賞受賞。記録部門の女流最多対局賞も受賞しました。
升田幸三賞はエルモ囲いを採用したコンピュータソフトのelmoが受賞。升田幸三特別賞を脇システムにより脇謙二八段が受賞しました。
女流名局賞は女流王座戦の第四局 。名局賞特別賞は王将戦の挑戦者決定リーグの最終戦で,広瀬章人竜王(当時)が藤井聡太七段を破って挑戦を決定した一局。最終盤での逆転でした。
近藤は,アルチュセールLouis Pierre Althusserが自身の政治的な立場をスピノザの哲学によって基礎づけようとしたこと,これは僕にとってはすでにいったように事実ではないのではないかと思えるのですが,近藤はそのようにみていて,このことを,カヴァイエス Jean Cavaillèsやゲルー Martial Gueroultは自身の政治的な立場をスピノザの哲学によって基礎づけようとはしなかったということの対比で記述しています。しかしこのようにいってしまうと,スピノザの哲学においては排除されるべき主体 subjectumという概念notioが入り込んできてしまうのです。ですから,それが事実であるかどうかの見解の相違は別として,もしもこのことを主張しようとするのであれば,アルチュセールがドゥサンティ Jean-Toussaint Desantiを批判した文脈,ドゥサンティの思想のうちには実存主義の残骸が含まれていて,意味によって自我すなわち主体を基礎づけているという部分との比較でいう方が,スピノザの哲学との関連の中ではよいのではないかと僕には思えます。
ただし,近藤は無意識的に排除されるべき主体を主張の中に組み込んでいるのですが,一方では政治的立場や宗教的立場をスピノザの哲学によって基礎づけようとはしなかったカヴァイエスについて,その政治的行動も宗教的行動もスピノザ主義者のものであったといっています。これは矛盾しているようですが,そうではありません。カヴァイエスの行動はスピノザの哲学によって正当化され得るというようには,カヴァイエス自身が認めていなかったということが,政治的立場をスピノザの哲学によって基礎づけようとはしなかったということの意味になっているからです。つまり当人がスピノザの哲学をどのように解釈するのかということが,自身の立場を哲学によって基礎づけるとはいかなることなのかということの規準となっていて,たとえ当人が意識をしていない部分で,ある哲学がその人間の行動の基礎となっているとしても,その場合には近藤はそれが哲学によって基礎づけられているとはいわないのです。
ですからこの部分は,政治的であるとはいかなることであるのかという僕と近藤の間の見解の相違だけでなく,哲学による基礎付けをどう解するかという点の相違にも影響を受けています。
2018年度の将棋大賞 は1日に発表されました。
最優秀棋士賞は豊島将之二冠。棋聖挑戦 ,奪取 。王位挑戦 ,奪取 。A級順位戦優勝。もとより力がある棋士ということは分かっていましたが,昨年度は飛躍の一年となりました。2017年度 の敢闘賞で最優秀棋士賞は初受賞。
優秀棋士賞は渡辺明二冠 。王将挑戦,奪取 。棋王防衛 。記録部門の連勝賞も受賞。勝ちまくった棋士のひとりで,最優秀棋士賞でもおかしくないところでした。2005年度 ,2008年度 ,2010年度 ,2011年度 ,2015年度 に続き3年ぶり6度目の優秀棋士賞。
敢闘賞は広瀬章人竜王 。竜王挑戦 ,奪取 。棋王挑戦 。記録部門の最多対局賞も受賞。こちらも勝ちまくりましたが,今年に入ってやや失速。棋王戦は優秀棋士賞の争いでもあったことになります。2010年度以来8年ぶり2度目の敢闘賞。
新人賞は大橋貴洸四段。YAMADAチャレンジ杯優勝。加古川青流戦優勝 。新人王戦を優勝した藤井聡太七段が,昨年度の新人賞ということでこちらに回ってきました。初受賞。
その他の記録部門では,最多勝利賞が佐々木大地五段。勝率1位賞が藤井聡太七段でした。
最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王将防衛 。女流王座防衛 。倉敷藤花防衛 。女流名人防衛 。マイナビ女子オープン挑戦 。これは当然。2009年度 ,2010年度,2011年度,2012年度 ,2013年度 ,2015年度,2016年度 ,2017年度に続き4年連続9度目の受賞。
優秀女流棋士賞は渡部愛女流王位。女流王位奪取 (挑戦決定は2017年度内)。第一人者からタイトルを奪取したのですからこちらも当然でしょう。日本将棋連盟主催の賞ですが,所属団体は無関係のようです。初受賞。女流王位戦五番勝負は4局全体で女流名局賞に選出されました。
記録部門の女流最多対局賞は伊藤沙恵女流二段。
升田幸三賞は竜王戦5組決勝で藤井聡太七段が76手目に指した☖7七同飛成。これは凄い一手ですが,この手があることを読んで68手目に☖6三同金と取っていたことに驚愕します。
角換りおよび一手損角換りの研究により,丸山忠久九段に升田幸三特別賞が贈られています。
名局賞は名人戦第一局。横歩取りから互いに一歩も引かない激しい攻め合いになった将棋でした。
名局賞特別賞は女流名人戦リーグ4回戦の渡部‐上田戦。これは対抗形の相穴熊の将棋で204手の熱戦。駒柱が何度も出現し,投了図も8筋に駒柱が立っている局面でした。
キリスト教神学の神 Deusが超越論的な神であるなら,神学は集合論を支える形而上学になり得ると僕は予想します。もちろん僕は,外延と内包というのが集合論においてどういった概念notioであるのかが分からないということは何度もいっている通りですが,上野のいい方はスピノザは内包を認めないというもので,これは外延なら認めると受け取ることができることは説明しました。よってこの説明は,集合論における外延の形而上学的位置は,スピノザの哲学における神に該当するというように僕は読解するのです。僕自身は,スピノザの形而上学は,外部と内部という区分自体を認めないというものだと考えますから,もし上野がいっていることが僕の読解の通りであるなら,この考え方には同調はしません。ですがもし外延を神学における神であると解するなら,外延の形而上学的位置が,神学における神の形而上学的位置に一致すると思います。そして上野の説明の仕方からは,そうである可能性が高いだろうと思うのです。なのでたぶん集合論というのは,神学と一致する形而上学的背景を有する論理なのではないでしょうか。
よってスピノザの形而上学が集合論を支えることはあり得ないということはここからも出てくるのですが,同じような意味では,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの形而上学も同様なのだろうと僕は思うのです。確かにニーチェの哲学というのは,スピノザの哲学ほど徹底した内在の哲学であるわけではなく,むしろ超越論的な要素を有しているといえるでしょう。ですがこの超越論的背景が,集合論の本性essentiaに属する部分と形而上学的に一致する背景である可能性は,低いのではないかと僕は思います。
ただしこれは,僕が集合論における外延の形而上学的な位置を,上野の発言から類推する限りで神の形而上学的位置としているから出てくる見解opinioです。実際にはそうでない場合というのもあり得るということは僕も否定することはできません。少なくともスピノザの哲学が集合論を肯定する形而上学を有することはありませんが,たとえば外延と内包の関係が,ニーチェのいう意志voluntasと観念ideaの関係に類するのであれば,ニーチェの形而上学が集合論を肯定することはあり得ます。
将棋関連の書籍のレビューはこれが7冊目。2017年4月に発売された佐藤天彦の『理想を現実にする力』です。
理想を現実化するためには,自分の力によって実現することが可能なことを自分の理想として掲げなければなりません。すなわち標題にある理想を現実にする力というのは,自分にとって実現できる事柄を自分の理想とする力のことです。つまり先に理想を掲げてそれを現実化することではなく,実現することが可能なことを自分の理想とすることが,理想を現実にする力の正体です。佐藤はこのことをよく弁えた上で,どのように対処をすれば,自分にとって現実化可能なことを自身の理想とすることができるのかということを綴っていきます。そしてそうした事柄を理想とすることができれば,あとはそれに向って努力するだけです。この努力は必ず報われるでしょう。つまり,理想を現実にする力とは,現実化可能なことを理想にする力であると同時に,必ず報われる努力をする力であるともいえます。佐藤は服飾や家具,音楽といった事柄にも造詣が深く,使用される例は将棋ばかりではありません。たぶんこの本は純粋なハウツー本としても十分に成立していると思います。
ただ僕が驚いたのは,佐藤が示している考え方が,あまりにスピノザの哲学と親和的であるということでした。少なくとも第一部公理三 とか第一部公理四 は,佐藤が物事を考える上での基軸になっています。おそらく佐藤はスピノザの哲学のことなどは何も知らないでしょうし,スピノザという名前さえ知らないかもしれません。しかしスピノザの哲学が実践 を伴うものであり,かつスピノザの思想に則した実践を行う者こそがスピノザ主義者なのだというのであれば,佐藤はたぶんスピノザ主義者です。そして佐藤に限らず,この種のスピノザ主義者というのは,数多くではないにしても,確かにこの世界のうちに存在しています。たとえその人がスピノザを知らないのだとしても。
1月21日,日曜日。この日が従兄 の葬儀でした。式場は同じ瀬谷ですから,僕は相鉄で瀬谷に向い,そこから歩きました。その後,マイクロバスで北部斎場に行き,そこで従兄を火葬しました。北部斎場は僕の父を火葬した斎場です。その後で再び瀬谷の式場に戻り,初七日の法要を執り行いました。前日の夜と同様に,この日も僕は父のすぐ上の兄に自動車で二俣川まで送ってもらいました。
また,この日に伯母はロサンゼルスに帰国しました。翌日からは再び母が夕食の支度をするようになりました。洗濯機を回して洗濯物をとりあげること,そして取り込んだ洗濯物を畳むことは,母はかなり後まで続けることができました。
1月22日,月曜日。妹を作業所に送りました。この日は送っている途中で小雪がちらつくような天候になり,とても寒かったです。ただ,昼過ぎからは大雪になりましたので,まだ幸いでした。妹は降雪時に歩くことを怖がりますので,もしもっと早くから本格的な雪となっていたら,この日はお休みにしたかもしれません。
1月23日,火曜日。前週の通院のときに主治医に指示されていた合併症 の検査の日でした。医師は診察のときには僕に対してみっつの検査を指示しましたが,その日の会計を済ませたときに同時に出てくる次回の診察の予約票によれば,実際に行われる検査はよっつありました。それらの検査は予約時間があり、最も早いものが自律神経の検査で,午前11時となっていました。ただ,前日の雪の影響が残ってバスがやや遅れてしまったため,僕が病院に着いたときにはその時刻を少しばかり過ぎていました。
検査はいずれも中央検査室 で行われます。なので予約票を所定の機械から印字したら中央検査室に直行しました。すると窓口の担当者が,超音波の検査はすぐできるので,まず最初にそれを受診するようにと指示しました。これは本来の予約時間では午後2時半になっていたものです。これは頸動脈に超音波を当てて血管を調べる検査です。11時25分にはこの検査は終了しました。
再び受付に戻ると,今度は神経伝導の検査ができるから,それを受けるようにという指示が出されました。
2日に2017年度の将棋大賞 が発表されました。
最優秀棋士賞は羽生善治竜王。棋聖防衛 ,竜王挑戦 ,奪取 ,名人挑戦。堅調な成績とはいい難いのですが,竜王を奪取したことにより現時点で可能なタイトルのすべての永世ないしは名誉の称号を獲得し,国民栄誉賞を受賞したことも考慮に入れられたものだろうと思います。1988年度,1989年度,1992年度,1993年度,1994年度,1995年度,1996年度,1998年度,1999年度,2000年度,2001年度,2002年度,2004年度,2005年度,2007年度 ,2008年度 ,2009年度 ,2010年度 ,2011年度 ,2014年度 ,2015年度 に続き2年ぶり22度目の最優秀棋士賞。
優秀棋士賞は菅井竜也王位。王位挑戦 ,奪取 。王位戦で羽生竜王を圧倒したことが評価の対象となったものでしょう。同じように王座を奪取した中村太地王座より勝利数や勝率で上回っていた分,こちらが選出されたということだと思います。初受賞。
敢闘賞は豊島将之八段。王将挑戦,A級プレーオフ進出。豊島八段は間違いなく大活躍したのですが,タイトルは獲得できませんでしたし棋戦の優勝もありませんでした。こうした棋士がタイトル獲得や棋戦優勝をした棋士を差し置いて選出されるのはどうかと個人的には思います。敢闘賞は初受賞。
新人賞は藤井聡太六段で,特別賞も合わせて受賞しました。朝日杯将棋オープン優勝 。藤井六段は記録四部門の最多対局賞,最多勝利賞,勝率1位賞,最多連勝賞をすべて受賞。最優秀棋士賞でもよかったと思いますが,すぐに獲得することになるのだろうと思います。当然ながらいずれも初受賞。
最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位防衛 ,女流王将防衛 ,倉敷藤花防衛 ,女流王座防衛 ,女流名人防衛 。これは当然の受賞。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度 ,2013年度 ,2015年度,2016年度 に続き3年連続8度目の受賞。
優秀女流棋士賞は伊藤沙恵女流二段。女流王位挑戦 (決定は昨年度),女流王将挑戦 ,倉敷藤花挑戦 ,女流名人挑戦。いずれも跳ね返されてしまいましたが,こちらも当然の受賞でしょう。初受賞。女流最多対局賞も初受賞となっています。
升田幸三賞は青野照市九段と佐々木勇気六段が,横歩取りの先手番での作戦で受賞しました。故人の大内延介九段は振飛車穴熊で升田幸三賞の特別賞を受賞。いずれも初受賞。
名局賞は竜王戦第四局 。そうそうお目にかかれない寄せの手順と僕自身が書いた将棋なので納得です。
名局賞特別賞は2局で,ひとつが朝日杯将棋オープンの決勝。あの☗4四桂は見事な一手でした。もう一局が竜王戦6組ランキング戦で牧野光則五段と中尾敏之五段が指した420手という持将棋局。これは空前絶後の手数になるだろうと思います。
僕が排他的思想を産出しやすい感情affectusとして憤慨indignatioをあげたことの説明はこれですべてです。ただ,第四部付録第二四項 においては,憤慨が否定される理由として興味深いことが示されていますので,これも検討しておきましょう。
この項でスピノザが無法律といっているときの法律lexは,当然ながら法治国家における法を意味しています。よってスピノザはここでは国家Civitasとか社会といった観点から憤慨を否定していることになります。法治国家における法は公平なものでなければならないのは事実です。文脈では,憤慨は公平の外観を帯びているけれど不公平な感情であるとスピノザが考えていることは明らかで,だから憤慨は否定されなければならないというように読解するのが適切かもしれません。ただ,法lexというのは同時にその法の下に暮らす市民Civesにとって社会正義でなければならないのも事実でしょう。実際にこの項は正義justitiaについても言及しているのですから,スピノザが憤慨に関して述べている部分を,憤慨は公平の外観を帯びているけれども,社会正義に反するような感情であるといっていると読解したとしても,そう大きな間違いを犯しているとはいえないでしょう。公平であることと不公平であることのどちらが社会正義に適っているかと問われれば,大抵の人は公平であることだと答えるであろうからです。
よってスピノザは,憤慨は社会正義に反する,いい換えれば社会悪,社会においては悪malumであるといっていることになります。スピノザは第四部定理四五 で憎しみodiumは善bonumではないといった後,その直後の備考 Scholiumで憎しみを人間に対する憎しみに限定すると明言しています。これを踏まえて第四部定理四五系一では次のようにいわれています。
「ねたみ,嘲弄,軽蔑,怒り,復讐その他憎しみに属しあるいは憎しみから生ずる諸感情は,悪である 」。
この配置からすれば,第四部定理四五は必ずしも人間に対する憎しみに限定されていないから,悪であるとはいわれずに善ではあり得ないといわれ,その後で人間に対する憎しみに限定されたから,それは善ではあり得ないという弱いいい方ではなく,悪であるという強いいい方になったともいえそうです。
将棋関連の書籍のレビューの6冊目は,2016年7月に講談社現代新書より発売された,観戦記者としても活躍中の大川慎太郎が書いた『不屈の棋士』です。タイトルからイメージするのは難しいかもしれませんが,トップ棋士へのインタビュー集で,そのインタビューの内容は,コンピュータの将棋に特化しています。つまり棋士がコンピュータの将棋にどのように対応しているのかを大川が質問しているということです。
発売直前の2016年5月,第1回の電王戦で山崎隆之八段がポナンザに連敗しました。そして昨年は佐藤天彦名人もソフトに敗れ,電王戦は2回で幕を閉じることになりました。インタビューは当然ながら発売より前にされています。ただし,山崎八段だけは電王戦で敗北を喫した後の短いインタビューも収録されています。これでみれば分かるように,コンピュータがはっきりとした形で棋士を上回っていく段階でのインタビュー集です。この書籍の価値が高いのは,そうした時期に実施されたインタビューの中で,棋士,それもトップ棋士が,どういう考えの下にどのような仕方でコンピュータの将棋と向き合っていたのかということが,明白になっているという点です。後世に残る歴史的資料としての価値も高いと僕は考えています。
棋士といえどもそれぞれで,コンピュータに対する考え方の相違は,僕が思っていたよりはずっと大きかったです。とくに山崎八段が,コンピュータを将棋の研究に使う際に,どのようなソフトを入手することができるのかという点で棋士の間に差異が出ていて,それは不平等であるという主旨の発言をしているのですが,こうした考え方というのは僕が想像することすら難しいものでした。
一応,大川自身が棋士の態度を分類して章分けしています。第1章は最強棋士として羽生善治と渡辺明。第2章がコンピュータ先駆者として勝又清和,西尾明,千田翔太。第3章がコンピュータに敗れた棋士として山崎隆之と村山慈明。第4章がコンピュータとの対決を望む者として森内俊之と糸谷哲郎。第5章がソフトに背を向ける者として佐藤康光と行方尚史。あとがきの中に再び山崎へのインタビューがあります。
章分けは便宜的なものと僕は感じました。手許に残し,もっと時間が経過した後にまた読んでみたい1冊です。
地獄への不安 metusあるいは恐怖metusに関しては,アルベルト Albert Burghは植え付けられてしまったのであり,この意味では被害者です。書簡七十六 でスピノザはアルベルトに厳しいことばも述べていますが,そのことは理解していたと思います。ただ,植え付けられた不安あるいは恐怖がアルベルトにとってはあまりに強大なものであったがゆえに,それはすべての人間に共有されるべき感情affectusとみなされました。第四部定理六三備考 で,この場合でいえば不安あるいは恐怖を植え付けた側の迷信家が,ほかの人びとをも不幸にしようとしているといわれているのには,このような意味も含まれていると解しておくのがいいでしょう。この結果,アルベルトは書簡六十七 をスピノザに送り付け,スピノザに対する排他的感情および排他的思想を露にしたのです。
アルベルトは家族に対しても似たような態度をとったと思われますが,スピノザの場合についていえば,これは一対一の関係です。そしてその根源となった感情である不安ないしは恐怖が,地獄に対するものであったということは,実はあまり関係ありません。備考Scholiumは迷信家ということで,宗教的なものを匂わせているといえますが,不安あるいは恐怖を煽ることによって人びとを悪malumから逃れさせようとするのは,すべからく迷信家の態度であるといっていいでしょう。実際にこの種の感情を植え付けることによって高額の商品を買わせるとか,老後の金銭面での不安に乗じて投資をさせるといった詐欺行為は現実的に存在します。この場合は詐欺を行う者はそれが詐欺だと理解した上で行うわけですから,迷信家と名付けるのには語弊があるでしょう。しかしそうした行為が人びとを不幸に陥れているというのは明白であると思います。備考で迷信家が行っているとされている行為は,こうした詐欺行為に類するとスピノザはいっているのです。
したがって,こうした行為は単に宗教的指導者がなすものと限定されるわけではありません。たとえばある国家の指導者が仮想の敵を立て,その敵に対する不安あるいは恐怖を国民に煽るなら,その指導者は国民を不幸に陥れている迷信家ないしは詐欺を働く者と何ら変わるところはないのです。
3月31日に2016年度の将棋大賞 が発表されました。
最優秀棋士賞は佐藤天彦名人。名人奪取,叡王戦優勝 。最優秀棋士賞は初めての受賞です。
優秀棋士賞に羽生善治三冠。棋聖防衛 ,王位防衛 ,王座防衛 。羽生三冠は最優秀棋士賞の常連で,優秀棋士賞は2006年度 ,2012年度 ,2013年度 に続き3年ぶり4度目になります。
敢闘賞は久保利明王将。王将挑戦,奪取 ,A級へ再昇級。2000年度と2008年度 に受賞があり,8年ぶり3度目の受賞。
新人賞は矢代弥六段。朝日杯将棋オープン優勝 。将棋大賞初受賞です。
最多対局賞は千田翔太六段と佐々木勇気五段で65局。
最多勝利賞は千田翔太六段で48勝。
勝率1位賞は斎藤慎太郎七段と青嶋未来五段が.750で分け合いました。斎藤七段はこの部門で2015年度 に続く連続受賞です。
連勝賞は豊島将之八段と青嶋未来五段の12連勝。青嶋五段は12連勝を2度達成しています。
最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位防衛 ,女流王座挑戦 ,奪取 ,女流王将防衛 ,倉敷藤花防衛 ,女流名人防衛 。2009年度 ,2010年度 ,2011年度 ,2012年度,2013年度,2015年度に続き2年連続7回目の受賞。
女流棋士賞は上田初美女流三段。女流名人挑戦,マイナビ女子オープン挑戦 。2012年度以来4年ぶり2度目の受賞。
女流最多対局賞は室谷由紀女流二段の40局。2年連続2度目の受賞。
升田幸三賞は千田翔太六段。
名局賞はA級順位戦8回戦の佐藤康光九段と深浦康市九段の一戦。AbemaTVの将棋チャンネル開局当日に生中継されたA級順位戦一斉対局4局のうち一局。僕も観戦していましたがあまりにも面白くて終局の1時17分まで視聴してしまいました。深浦九段は2007年度 と2010年度に受賞していて3度目,佐藤九段は2009年度に受賞があり2度目の受賞となります。
名局賞の特別賞は女流名人戦第五局。
近いうちに現役引退となるであろう加藤一二三九段が特別賞と升田幸三賞の特別賞をダブル受賞しています。
第二部定理四九証明 の内容から,ふたつのことが理解できます。
ひとつは,観念ideaが存在するとき,その観念の内容を肯定したり否定したりする思惟作用が同時に存在するのですが,そうした思惟作用をスピノザは意志作用 volitioというということです。つまりスピノザの哲学でいう意志voluntasとは,精神mensをして何かを希求させたり忌避させたりするような決意のことをいうのではありません。観念が観念である限りにおいて必然的に含んでいなければならないような,何事かを肯定しまた否定する力potentiaのことが意志といわれるのです。
このような思惟の様態cogitandi modiのことを意志というのは不自然と思われるかもしれませんが,僕は必ずしもそうは思わないです。たとえば本を読むという観念を肯定することと本を読むことを希求することは同じことですし,逆に本を読むという観念を否定することと本を読むことを忌避するということは同じことだと考えるからです。ただ一般にはそうした決意が行動の原因であると思われているのに対して,スピノザはそうした決意は観念そのものを異なった観点から把握したものであり,したがって決意と行動の間には因果関係は存在しないといっているだけなのです。つまり意志という思惟の様態を,それ以外の事柄との因果関係を捨象してそれだけでみるなら,その様態が有している力というのは,一般的にそうみられている力と何ら変わるところはないといえます。
もうひとつ,個々の観念と個々の意志作用が同一の思惟の様態を異なった観点から把握しただけにすぎないのであれば,一般的に知性 intellectusと意志 もまた同一であるいうことが帰結します。よってスピノザは第二部定理四九系 としてこのことを示しているのです。これはその証明 Demonstratioにもあるように,知性というのが個々の観念の集積であり,意志というのが個々の意志作用の集積であるということから明白だといえるでしょう。したがって,人間の精神mens humanaが自動機械 automa spiritualeであるということと,知性と意志が同一であるということは,個別の事柄を示しているようでいながら,何ら関係を有していないというわけではないことになります。
この証明のうちにはもう少し検証を要することも含まれます。
久しぶりに将棋関係の書籍を紹介します。5冊目は羽生善治の『決断力』です。
著者が羽生善治という本は数多く,僕にとっては玉石混淆なのですが,最も推奨できるのが現在のところではこの『決断力』です。
帯を読むと正しい決定を下すための指南書のようになっているのですが,この本はそれを直接的に教えるものではありません。むしろ本の題名にあるように決断を下すことを人間の力と把握し,その力の源泉がどこにあるのかを多角的に検討した内容です。
将棋は先行きが見通せなくても手番であれば何か指さなくてはならないルールになっています。先行きが見通せないのは人間の知性が有限であるからであり,また時間の制約があるからです。そういう場合でも次の一手を決定しなければならず,その決定こそが決断であって,それを下す力が決断力です。したがって,それを下せばどういう結果が出るか分かっているような決定は決断ではありません。いい換えれば決定を下すときに,それが正しい決定なのか正しくない決定であるかが判然としていない場合の決定が決断なのであり,決断力というのはそういう場合に決定を下す力のことです。
ここから理解できるように,決断力というのは将棋の指し手を決定するときに限定して要請されるような力ではありません。僕たちの日常生活の中でも,その決定を下すことによってどういう結果が待ち受けているのかは判然としていないという場面は往々にして存在するからです。そしてそのときに,それを決定する力の源泉がどういったところにあるのかを多方面から検討することによって,よりよい決断,すなわちよい結果を得られやすい決断を下すことが,より多く可能になるでしょう。ですから,この本はどのようにすれば正しく決断できるのか,正確にいえば正しく決断する可能性を高めることができるのかということを,それ自体で直接的に指南するものではありませんが,間接的には有益であるといえると思います。
スぺイク はおそらく日々の生活に追われ,スピノザの哲学的思想を詳しく知ろうとする欲求をもつ余裕がありませんでした。そしてスピノザは自身の哲学的見解を多くの人びとに伝えようとすることについて禁欲的であったと思われます。よっておそらくスピノザが自身の思想をスぺイクに対して詳しく語ることはしなかったと推定されます。そもそもスピノザはフェルトホイゼン Lambert van Velthuysenに対する反論の中で,自分の生活態度をみれば無神論者 でないことをフェルトホイゼンは理解するだろうといっています。スぺイクは実際にそれを見る立場にあったのですから,自分が無神論者ではないということをスぺイクは分かっているとスピノザは思っていたでしょう。そして実際にスぺイクはスピノザのことをそのように認識し,それによってスピノザを敬愛し尊敬もしたのだと僕は解します。要するに自分の思想が無神論に至るものではないということをスピノザはその思想を詳しく語らずとも,態度によってスぺイクに対して示すことができたのであり,スピノザにとってはそれで十分であったのだろうと僕は思います。
したがって,スぺイクがスピノザを称えようとする場合に,それをスピノザの思想と絡めて説明することはできなかっただろうと僕は解します。なのでスぺイクはそれを,スピノザの日々の生活態度とだけ関連させて説明したのだと思います。そしてこのことはリュカス Jean Maximilien Lucasの伝記の場合にも同様なのですが,リュカスがスピノザの生活態度がキリスト教の教えと相容れるものであったということについてはほとんど説明していないのに対して,スぺイクがそのような説明もしている理由は,取材者がコレルス Johannes Colerusであったということに起因しているのではないかと僕は思うのです。リュカスが自身の手による伝記の読者をどのような人と推定していたのかは分かりませんが,少なくともルター派の説教師であったコレルスのような,宗教色あるいはキリスト教色の強い人間だけを想定していなかったということだけは確かだと思えます。対してスぺイクは,自身で伝記を書いたのではなく,コレルスの取材に対して証言したのです。つまりスぺイクはコレルスだけを念頭に話しているのです。
竜王戦 の挑戦者変更の一件に関して,僕が何をどう判断し,また何を判断しないかについて明らかにしておきます。
僕が判断材料にするのは三点だけです。第一に,三浦九段が対局中に不自然な離席をするという指摘が複数の棋士からあったということです。第二に,三浦九段は離席は身体を休める目的だったと説明していることです。第三に,聴取ではその弁明が非合理的と認定されたことです。
僕は弁明が非合理的な離席についてはふたつのケースを想定します。ひとつはある手を指したら離席し,次の手を指したらまた離席するという行為が継続的に行われる場合です。身体を休めるなら一度に多くの時間を使用する方が合理的です。もうひとつは相手が指すまでは着席し,自分の手番になると離席するという行為が恒常的に行われる場合です。身体を休めるなら自分の持ち時間だけでなく相手の持ち時間も使用する方が合理的です。
もしふたつのケースのどちらも行われていなかったなら,弁明が合理的ではないと僕は判断しません。その場合には処分したこと自体が不当であると判断します。
逆にふたつのうちのどちらか,あるいは両方が行われたのだとすれば,僕はコンピュータによる援助の有無と無関係に三浦九段には非があると判断します。なのでこのケースでは処分することは正当であると判断します。ただしそれは棋士という職業に対する僕の職業観に由来します。援助がなければいつどのように離席してもよいというのはひとつの考え方として成立し得ると僕は認めます。また,正当な疑惑を抱かせたというだけでは内部的に処分するのも不当であるという考え方が成立することも認めます。しかしその相違は職業観の相違に由来しますので,その点については僕は争いませんし判断も変更しません。
ただし,上述の処分することが正当であるというのは,年内の出場停止が妥当であるという意味ではありません。最も軽い,たとえば厳重注意のような処分は少なくともされるべきだという意味です。このケースでどのような処分が妥当かは僕は判断しません。同様に三浦九段が援助を受けていたか否かも判断しません。
休場届の不提出が処分理由なら,その処分は不当だと僕は判断します。これは将棋界に限らず,休場届は提出されて初めて受理するべきものであるからです。いくら休場するという意志を表明していても,届けを提出する前に出場することに気持ちを変えたからといって,その変心を咎めるのは不当です。
僕は三浦九段が休場の意志を表明したという点は判断材料とはしませんでした。それは聴取した側がそう受け止めただけで,三浦九段はそんな意志を表明したつもりはないというケースもあり得ると判断したからです。
三浦九段が休場の意志を表明したというならなら,その場で休場届を提出させるべきであったというのが僕の判断です。なのでもしもその要求をしなかったなら,聴取した側に不手際があったと僕は判断します。
実際に三浦九段に休場の意志があり,その場での休場届の提出要求もあり,三浦九段がその場での提出を拒んだ場合にのみこの判断は変わり得ます。翌日午後3時までの期限を設けて提出を求め,かつそれが提出されなければ処分するということを合わせて伝達したのなら,不提出による処分も正当であると判断できます。ただしそのすべての条件のうちどれかひとつでも欠けていたなら,これによる処分は不当であるという判断は変わりません。また,正当である場合でも,処分内容が妥当であるかを判断しないのは,離席のケースと同様です。
プラド Juan de PradoはアムステルダムAmsterdamのシナゴーグから慈善金を受け取っていました。これはプラドが経済的に困窮していたことの証といえます。一方,スピノザは,年によって金額の上下がありますが,税金を納めています。正確にいえばある時点まではスピノザの父親が納めていて,父親の死後は貿易商を継いだスピノザが支払うようになったというべきかもしれません。裕福であったとまでは確定できないまでも,暮らしていくために余裕がなかったということはあり得ないとみることができます。
プラドは1655年にアムステルダムのシナゴーグの一員となりました。最初の破門宣告が1656年だったとすれば,ユダヤ人以外のオランダ人の知り合いはあまりいなかったであろうと推測できます。プラドは医師であったようなのですが,それまでの経歴からオランダ語が達者だったとは思えないので,オランダ語しか話せないであろうアムステルダム在住のオランダ人を治療することはままならなかったように思います。それはプラドの困窮の一因になっていたかもしれません。
一方,スピノザはまだ父親が生きていた頃から貿易業に携わっていました。そのために非ユダヤ人とも知り合う契機が多かったろうと思えます。実際に,イエレス Jarig Jellesとかシモン・ド・フリース Simon Josten de Vriesとは,スピノザが破門される以前から友人であったと思われます。また,これはオランダ人とはいえませんが,ファン・デン・エンデン Franciscus Affinius van den Endenとも同様です。そしてファン・ローン Joanis van Loonもまた,親しく交際していたとはいえないまでも,間違いなく知り合いでした。
これらの事情を総合するなら,プラドはシナゴーグを離脱すればそれだけで生きていくのが難しいと考えられるのに対し,スピノザはたとえシナゴーグを離脱したとしても,生きていくことが可能であったと考えられるのです。よってシナゴーグの指導者たちが,プラドに対しては破門を宣告すること自体がシナゴーグからの離脱の防止に有益であっても,スピノザに対してはそうではないと判断する合理的な理由があったことになります。だからスピノザには別の手段,年金という賄賂が用いられても,プラドにはそういう配慮がなされなかったのだと僕は解します。
第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負 は三浦弘行九段が丸山忠久九段を2勝1敗で降しました。しかし三浦九段は今年の7月以降の対局で終盤での離席が目立ち,指し手の決定にコンピュータの援助を受けているのではないかという疑惑が浮上。今月11日に日本将棋連盟常務会による聴取が行われました。三浦九段は援助を否定したものの,常務会は納得いく説明が得られなかったと結論。三浦九段は疑惑を受けては将棋を指せないので休場を申し出,連盟側は翌12日午後3時までに休場届の提出を要求。しかしそれが提出されなかったため,連盟は12月31日まで三浦九段に出場停止の処分を科しました。それが援助によるものなのか,離席すなわち援助を疑わせる行為によるものなのか,それとも休場届の不提出によるものなのかは判然としません。再調査は行わないそうですから,三浦九段の出方にもよりますが,処分はとりあえず最終的なものと理解しておいてよいでしょう。
三浦九段が対応を考慮する時間があまりに短かったと思いますが,竜王戦は第一局が今日から指されることになっていたので急いで結論を出す必要があったためでしょう。第七局の2日目が12月22日なので,12月31日までの処分となったものと推測します。
連盟の理事は現役棋士が多数を占めます。おそらく聴取に参加した筈ですし渡辺竜王も同席していた模様。つまり三浦九段は他棋士を納得させる説明ができなかったことになります。また,こうした処分を下せば三浦九段個人だけでなく連盟にも打撃は及びます。それでいて処分を決定したのですから,援助について何らかの裏付けがあるとみるのが合理的な判断です。ただしこうした合理的判断が日本将棋連盟という組織に適用可能であるという確信は僕にはありません。
棋士同士の対戦で援助を排除するという方向性,またそれを棋士の倫理観に委ねないという方向性を現在の連盟ないしは理事会が強く有しているのは昨今の事情から確実で,その方向性に関しては僕は支持できます。ただ組織的に有される確固たる信念は,疑わしい存在を疑わしいという理由だけで排除する要因となり得ることもまた一面の真理であるといわなければならないでしょう。
規定では決定戦で敗れた丸山九段が挑戦者になるそうです。丸山九段はこの決定には個人的に賛成しかねるとコメントしています。これは援助を受けていない者を処分することに反対とも,援助を受けた者に対する処分が軽すぎるので反対とも,両極端な解釈が可能です。あるいは援助の有無がうやむやなままの処分に反対とか,短時間での急な決定に反対,また決定戦で負けた自分が挑戦することに反対など,それ以外にも様ざまな解釈できるので,真意は不明です。ただし七番勝負に出場するということは受け入れるとのことで,正式に挑戦者に決定しています。丸山九段の竜王戦七番勝負出場は第25期 以来4年ぶりです。
スピノザはシモン・ド・フリース Simon Josten de Vriesからの資金援助を辞退しています。また,フリースの死後,フリースが遺言で命じておいたスピノザに対する年金は受け取りましたが,フリースが命じた額より減額しています。また,ハイデルベルク大学教授 への就任を打診されたとき,いわれるままに哲学正教授 の座に就いていたなら,名誉だけでなくそれなりの収入も約束された筈ですが,それも断っています。ですからスピノザは金銭に対する欲望cupiditasはさほど大きくなかったとみることができます。
もちろんこうした欲望というのは,第三部諸感情の定義一 にみられるように,受動状態における人間の現実的本性 actualis essentiaです。ですから第三部定理五一 により,それはそのときどきに応じて変化するものであるということは考慮に入れておかなければなりません。しかしスピノザの姿勢が一貫したものであったとみる限りにおいては,年金を送るというシナゴーグサイドからの和解案にスピノザが応じなかったというのはひどく不合理な話ではないといえます。そしてそれは史実であったと僕は判断します。
これでみれば分かるように,シナゴーグとスピノザとの間に解決しなければならない対立が生じたときに,和解することに躍起になったのはシナゴーグの側であって,スピノザの方にはそんな気はまったくなかったというような解釈が生じても不思議ではありません。破門の前後の経緯をこのように解釈している典型がドゥルーズGille Deleuzeです。『スピノザ 実践の哲学 Spinoza : philosophie pratique 』では,ラビたちは和解の成立を望んでいたらしいけれども,スピノザは悔悛することを拒絶し,自身の側からシナゴーグとの訣別を求めたのだとされています。
ただし,シナゴーグの構成員の中に思想的な問題が生じたとき,何らかの解決策を探るということは,スピノザの場合に特有のことではなかったようです。そのことはドゥルーズも承知の上で書いていますし,『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』では,ユダヤ人共同体の指導者たちが,スピノザをシナゴーグに踏みとどまらせるために粘り強い説得をしなかったということは高い確率で考えられないとされています。年金はそういう手段のひとつであったと考えておくべきでしょう。
1日に2015年度の将棋大賞 が発表されました。
最優秀棋士賞は羽生善治名人。名人防衛,棋聖防衛 ,王位防衛 ,王座防衛 ,王将挑戦,朝日杯将棋オープン優勝 。タイトル数を増やすことこそできなかったものの,保持していたものは完全防衛で当然の受賞。1988年度,1989年度,1992年度,1993年度,1994年度,1995年度,1996年度,1998年度,1999年度,2000年度,2001年度,2002年度,2004年度,2005年度 ,2007年度 ,2008年度 ,2009年度 ,2010年度 ,2011年度 ,2014年度 に続き2年連続21回目の最優秀棋士賞。
優秀棋士賞は渡辺明竜王 。竜王挑戦 ,奪取 ,棋王防衛 。実力からすると物足りない気がしないでもないのですが,羽生名人に次ぐ活躍だったのは間違いないと思います。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度に続き4年ぶり5度目の優秀棋士賞。
敢闘賞は佐藤天彦八段。王座挑戦 ,棋王挑戦 ,名人挑戦。記録部門の最多対局賞,最多勝利賞,連勝賞を獲得。王座か棋王を獲得できていれば,優秀棋士賞の可能性もあったかと思います。記録部門を除くと2009年度の新人賞以来2度目の将棋大賞受賞。
新人賞は斎藤慎太郎六段。順位戦C級1組で昇級を決めた以外,棋戦での目立った活躍はありませんでしたが,勝率1位賞を獲得して佐藤八段の記録部門独占を阻止しました。記録部門も含めて将棋大賞初受賞。
最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位挑戦 ,奪取 ,女流王将挑戦 ,奪取 ,倉敷藤花挑戦 ,奪取 ,女流名人防衛 。休場からの復帰で復活の年になりました。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度 ,2013年度 に続き2年ぶり6度目の最優秀女流棋士賞。
女流棋士賞は室谷由紀女流二段。マイナビ女子オープン挑戦 を決め,女流最多対局賞も受賞しました。将棋大賞初受賞。
升田幸三賞は富岡英作八段。これは2009年か2010年に指された角換り腰掛銀の富岡流によるもので,この戦型の戦後同型があまり指されなくなったことに大きく影響しています。
名局賞は渡辺棋王が防衛を決めた棋王戦の第四局。名局特別賞に棋王戦挑戦者決定トーナメントの羽生名人と阿部健治郎六段の一戦。角換り相腰掛銀から後手の阿部六段が3三に銀を上がらず桂馬を跳ねて攻めに使い,勝った将棋です。
推論によって論証された神の存在を実感するとき,僕は単に第二種の認識 cognitio secundi generisによって神が存在することを知ったというだけでなく,第三種の認識によって神が存在すると認識したのではないかと思えます。すなわちスピノザが第五部定理二三備考 で,知性によって理解する事柄を想起する事柄と同等に感じるといっていることの意味は,第二種の認識によって認識した事柄を,第三種の認識によっても認識するということではないかと思うのです。
スピノザは第三種の認識がどういう認識であるかを説明するために,比例数を例示しています。具体的にどんなものか示しませんが,スピノザが例として数学を使用しているのは,もしかしたら意味があるかもしれないと僕には思えます。というのは数学というのは実在的有を対象としているのでなく,理性の有を対象としているといえる面があるからです。いい換えれば純粋に認識のみを扱っているといえる面があるからです。そして数学的な論証においても,僕は神の実在と同じような実感を抱くことがあるのです。
(a+b)²=a²+2ab+b²という公式が数学にはあります。この公式が正しいという論証方法はいくつかあると思いますが,僕にその正しさの確信を抱かせるのは,一辺がa+bという長さの正方形が平面上にあるとき,この正方形の面積は,同様に平面上にある一辺がaの正方形ひとつ,縦がaで横がbの長方形ふたつ,一辺がbの正方形ひとつの面積を足したものと等しいという論証です。この論証によって僕は(a+b)²=a²+2ab+b²という公式が正しいということを確信します。a+bなどという長さが実在するわけはありませんから,このことは僕の精神のうちでのみ生じているといっていいでしょう。そしてこの確信を抱くことによって,僕はもはや先述の論証なしで,(a+b)²=a²+2ab+b²は正しいと知ることができるのです。他面からいえば,(a+b)²という式が何を意味しているかを知るのです。スピノザが提出している例と異なりますが,スピノザがそれで示そうとしている第二種の認識と第三種の認識の相違から,これは第三種の認識だと僕には思えます。
1日に第42回将棋大賞 が発表されました。
最優秀棋士賞は羽生善治名人。名人奪取,棋聖防衛 ,王位防衛 ,王座防衛 ,棋王挑戦 。朝日杯将棋オープン優勝 。2014年度の実績は断然で,当然の選出でしょう。現行制度になった第33回以降では,33回 ,35回 ,36回 ,37回 ,38回 ,39回 に続き3年ぶり7度目,それ以前も含めると20度目の最優秀棋士賞獲得です。
優秀棋士賞には糸谷哲郎竜王。竜王挑戦 ,奪取 。棋界最高峰のタイトルを獲得したのですから,これも順当といえるでしょう。優秀棋士賞は初受賞。
敢闘賞は郷田真隆王将。王将挑戦,奪取 。新たにタイトルを獲得したのが羽生名人と糸谷竜王のほかには郷田王将だけということを考えれば,これも妥当でしょうか。現行制度下では第39回以来3年ぶり2度目,通算では5度目の敢闘賞。
新人賞は千田翔太五段。王位リーグ紅組優勝 ,順位戦昇級,昇段。棋戦優勝はなかったのですが,受賞しておかしくない戦績であるとはいえると思います。
記録部門は最多対局賞が豊島将之七段。最多勝利賞と勝率1位賞が菅井竜也六段,連勝賞が横山泰明六段でいずれも初受賞となっています。
最優秀女流棋士賞は甲斐智美女流二冠。女流王位防衛 ,倉敷藤花防衛 。一般棋戦でも2勝しています。女流棋士の中から選出されるということであれば,当然でしょう。初受賞。
女流棋士賞は香川愛生女流王将。女流王将防衛 。一般棋戦では3勝。こちらも女流棋士の枠内での選出なら当然。ただいずれ問題化するのではないかと懸念されます。初受賞。
女流最多対局賞は清水市代女流六段で第38回,39回に続く3年ぶり3度目の受賞。
升田幸三賞は数々の新機軸を編み出している菅井竜也六段。塚田スペシャルの塚田泰明九段が升田幸三賞特別賞を受賞。共に初受賞。
名局賞は王座戦第五局。羽生善治王座はこの賞ができた第34回 ,35回,36回,40回 ,41回 に続き3年連続6度目,豊島将之七段は初。名局賞特別賞に新人王戦の2回戦。343手という超長手数の将棋でした。
喜びの半減 という例は,ただ論理的に説明をするという目的だけのための仮定です。現実的にそうしたことが生じることはないでしょう。ただ,この論理的帰結として,現実的に存在する人間は,喜びをそして悲しみを感じるそのたびごとに,現実的本性 を変化させているということを明瞭に示していることは間違いありません。喜びや悲しみの量的変化 が起こるということは経験的事実であり,その量的変化が生じる原因は,喜びおよび悲しみを感じることによって,質的変化が生じているからだとしか説明できないからです。
ある喜びを感じることが,次に喜びを感じるときの量的変化の原因となっています。これはつまり喜びを感じた時点で,現実的本性に質的変化が生じていることの証明です。これはどんな小さな喜びでも,すなわち他人からは表象され得ない喜びの場合にも成立します。つまり程度問題です。いい換えれば,現実的本性の変化が大きいか小さいかの問題に還元できます。そしてこれと同じことが,喜びだけでなく,悲しみの場合にも成立します。ですから「人が変わる 」という慣用表現が実際に,つまり真理として意味している暗黙の前提 というのは,現実的に存在する人間が,喜びを感じ悲しみを感じるごとに,その人間の精神の現実的本性 が変化するということなのだといえるのです。いい換えれば,ある喜びを感じる以前の人間と,その喜びを感じた後の人間は,たとえ同一人物であると措定できるとしても,現実的存在としては様態的に区別することが可能な別の人間であるということなのです。これが喜びを感じまた悲しみを感じるたびごとに生じるのですから,最終的な結論として導き出せるのは,様態的区別が可能な無数の同一人物が存在するということになります。
これで,人間のある行為の原因に関わるスピノザの説明 を考察していく際に,放置しておいた事柄の探求は完了しました。そこでここからは,ライプニッツの世界観において,人間の行為がどのように説明され得るのかということを考えていくことにします。これを考えることによって,真偽不明というライプニッツの規定の具体的な意味も明らかにすることができます。
四冊目は加藤一二三の『羽生善治論』。2013年4月10日に角川書店より発行。僕が持っているのものには同年4月25日再販とあります。これは重版とは違って,何らかのミスを手直ししたものと思われます。
副題に“「天才」とは何か”とあります。つまり本書の意図は,羽生の「天才」について多角的に分析しようというもの。分析自体が成功しているか否かは各々の読者が判断するところでしょう。多角的であることは間違いありません。
加藤の著書を読んだり,映像を見たりした経験がある方にはお分かりでしょうが,加藤は基本的に自分自身について語ることを好みます。本書も羽生論ですが,随所で加藤自身のことも語られています。また,映像から判断する限り,加藤は常に躁状態にあるのではないかと感じられる人物です。それは文章になっても同様。たとえば自戦記のようなものでも加藤の文章はハイテンションで,早口でまくしたているという趣があり,それもこの本でも同様です。
本の意図は,単なる羽生論ではなく,羽生の「天才」論です。こういう場合に,だれが「天才」について論述する資格があるのかということが問題となるでしょう。この本が優れているのは,確かにそのような問題があるということに加藤自身も気付いていて,具体的な「天才」論に入る前に,加藤自身がその資格を有しているということを論証している点にあります。結論からいえば,それは加藤自身もまた「天才」であるということ。つまり「天才」は「天才」を語る資格があるという前提からの論述です。よってこれは「天才」による「天才」論です。このように断言して構わないのは,「天才」とは何であるのかということを,加藤がきちんと定義づけているからです。
これでみれば明らかなように,これは羽生論といより加藤による「天才」論であるという側面の方が大きくなっています。つまり加藤がどういう事柄を「天才」と解し,加藤が解する「天才」がどう羽生に表出されているかが示されているといえるでしょう。
個々の属性attributumに関連する第一部定義六の名目性 については,そのように把握しておけば安全であるという以上の意味はありません。別にそれが実在的にもこの定義Definitioに含まれているのだと考えたとしても,そんなに大きな過ちを犯していることにはならない筈だからです。というのも,絶対に無限な実体substantiaというのが必然的にnecessario存在しなければならないのであれば,無限に多くのinfinita属性もまた必然的に存在するのであって,個々の属性というのはこの無限に多くの属性の中からだけ抽出され得るのであり,それ以外に何らかの属性が存在するということはあり得ないからです。このこと自体は第一部定義六説明 から明白だといわなければなりません。神Deusに比重を置くならば,このゆえに神は自己の類において無限 といわれるのではなく,絶対に無限 absolute infinitumといわれなければならないのです。よって,個々の属性の第一部定義六における名目性と実在性realitasについて,僕は争うことはしません。ただ,少なくとも名目的には,無限に多くの属性が存在するということが前提されているということだけ示すことができれば,これから後の考察にとっては十分です。そしてこの点について異論が出るということはないでしょう。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの規定のスピノザの形而上学への置き換えの可能性 は,この点に着目するのでない限り,不可能ではないかと僕は考えています。つまりライプニッツが無限に多くのモナドMonadeの実在を主張している点と,スピノザが無限に多くの属性の存在を主張している点に着目し,これを一致させるような形で,ライプニッツの形而上学をスピノザの形而上学に当て嵌めるのです。
スピノザの形而上学では,無限に多くの属性が神という実体の本性essentiaを構成します。ライプニッツはモナドについては形而上学的には実体であるという意味のことをいっていて,たぶん属性をどのように規定するのかはスピノザとは異なっているものと思われるのですが,スピノザの哲学では実体と属性の区別distinguereが理性的区別 であると考える限り,無限に多くの実体が神という「唯一 」の実体の本性を構成すると考えて,表現上は変であっても,矛盾を来すとまではいえないと考えて構わないと僕は思います。
三冊目は島朗の『島研ノート 心の鍛え方』。2013年3月28日,講談社より刊行。僕が持っているのは翌月発行の第二刷。売れ行きが好調だったので,早々の増刷となったものでしょう。わりと早い段階で入手していたことになりますが,この本に関しては読もうか読むまいか逡巡がありました。高橋和女流三段 が強く推薦されていたのに後押しされて購入したものです。
島研は将棋界では有名な研究会。メンバーは島九段のほかに,羽生名人,森内竜王,佐藤九段。中心はこの3人についてですが,他の棋士も部分的に登場します。
中心を貫いているのはふたつの点。ひとつは心が将棋を指すということ。つまり指し手には精神のありようが反映されるということ。これはひとりの人間としての精神を意味します。冒頭で東日本大震災に触れられていますが,当時の棋士の指し手に乱れが生じても,それを責めるのは酷であるという主旨のことが書かれています。他面からいえば,だからよい将棋を指して勝つためには,だれよりも強い精神に鍛えていくことが必須です。題名が意図しているところはこのことだといえるでしょう。
もう一点は,将棋には王道というものがあるということ。将棋界は,限られた人数で長期間にわたって戦い続け,トータルで勝者を決めます。その勝者になるためには,この王道を踏み外してはならないというのが島の考え方。当初から道に迷っているようではトップに到達するべくもありません。また,途中で道を踏み外すとすれば,それはトップに立つこと,トータルの戦いで勝者の側に立つことを放棄することに等しいのです。
中心になっている3人についてですが,島との関係が三様にあるというように描かれています。羽生,森内,佐藤のそれぞれの描写に異なる筆致があるように僕は感じました。それはおそらく,島の3人に対する関係性が表出しているものだと推測します。
ジャンルを問わない著作としてもこれは名著だと思います。将棋関係の著作と限定するなら,屈指の名著のひとつでしょう。将棋ファンを問わず,できるだけ多くの人に読んでもらいたい本です。
6月16日,月曜日。こども医療センターへの通院。予約は午後2時半。僕はこの日も長者町。午後4時過ぎには戻っていたのですが,母と妹はなかなか帰って来ず,18時過ぎにようやくの帰宅となりました。ここ最近よりは予約時間が遅くなっていましたから,帰りも遅れること自体は想定していましたが,これほどとは思っていませんでした。母によれば,診察の開始が遅れに遅れ,午後4時頃になってしまったとのこと。しかもその後で採血の指示をされたそうです。この採血は貧血の状況を確認するため。結果はすぐには出ませんから,朝に1錠の処方はこれまでと同じように継続されることに。話を聞くだけでも,何だか無駄に時間を掛けさせられたという感が残りました。
6月17日,火曜日。妹がショートステイへ。南区内の施設で,1泊でした。先月は2泊の空きがなかったのでショートステイに行かなかったのに,この月は1泊なのに利用したというのは不自然ですが,これには理由があります。作業所で予約してくれたショートステイは2泊で,それが16日から。しかし16日は通院があるので,こちらから断ったものです。つまり本来なら2泊のものを,こちらの都合で短縮したものでした。前日は作業所を休ませましたので,事前に荷物 を預けておくことができなかったため,当日の朝に迎えの支援を要請しました。翌日の帰宅時にも,送りの支援を利用しました。
6月21日,土曜日。ガイドヘルパーを利用。この日はカラオケではなく,新杉田でのボーリングでした。
7月4日,金曜日。作業所のレクリエーションで,午前中がボーリングでした。これも杉田 ですので,母がボーリング場の方へ送りました。
7月5日,土曜日。土曜出勤。ワールドカップの開催期間中で,フランスとドイツの試合の模様をビデオで観戦したそうです。妹はサッカーなどを観戦しても何も分からないでしょうから,それほど面白くはないと推測します。ただこのときは,利用者を二組に分け,一方がドイツを,他方がフランスを応援するという趣向にしたようです。妹はドイツを応援して,勝ったことも理解していました。
将棋関係の書籍の紹介の第二弾は渡辺明の『頭脳勝負』。2007年11月10日、ちくま新書として発刊。僕が所有しているのは第一刷なので、発行直後に購入したものです。
選手と同様の身体能力を有さない人間がプロスポーツを観戦するのと同様の仕方で、棋士と同様の知的能力を有さない人間が将棋を観戦してもよいというコンセプトを前提に、そこにどのような楽しみ方があるのかを、観戦されるプロの立場から解説するという内容。おおよそプロ棋士の著作としては異色の内容で、意欲作といえると思います。
僕が圧巻に感じたのは、自身の実戦の観点から解説した第四章。
第19期竜王戦七番勝負第三局 は、最終盤で絶妙手を指して勝った将棋。その手を指す前後の自身の精神の動きが克明に記されています。また、相手のおそらくは無意識の呟きを、どのように解したのかも説明されています。
第78期棋聖戦五番勝負第四局 は、偉大なる悪手 が指された将棋。その手が指されたときの驚きの様子、▲7五角という応手を選んだ理由、それに対する相手の雰囲気が、昼食休憩を挟んで明らかに変化したのを感じたこと、休憩後の3手目に考えていなかった手を指され、その変化の理由を理解したことなどが赤裸々に語られています。
これらから理解できるのは、著者である渡辺二冠の将棋観は、盤上の駒の戦いであると同時に、駒を動かす人間同士の戦いであるという点を重視していること。あるいは少なくとも、この当時はそうであったということです。最近の渡辺二冠は、僕にも分かりやすく新しいスタイルの確立に取り組んでいます。ことによると将棋観にも変化が出るかもしれません。若き日の渡辺二冠の将棋観を示す著作としての記録的価値も、この本には含まれていると思います。
外見 を気にしないのが昔からであったかというと,そうではありません。僕は歯並びが悪いのです。いわゆる出っ歯というやつ。僕にとってこれはコンプレックスのひとつでした。少なくとも高校に入学した頃はそうでしたから,その当時は外見を気に掛けていたことになります。コンプレックスという意味ではこの当時が一番ひどく,たとえば電車の中で笑い声がしたりすると,自分の容姿が笑いの対象になっているのではないかと疑ってしまうほどでした。今から考えればそれこそ僕自身が笑ってしまうような被害妄想ですが,僕にも確かにそういう時代というのはあったのです。
いつからかは分かりませんが,学生生活を送るようになった頃には,それはコンプレックスではなくなっていました。なので僕が外見に気を使わなくなり始めたのも,その頃だったといえそうです。面白いもので自分で気にしなくなりますと,相手も気にならなくなるようでした。当時のアルバイト先の同僚からは,歯並びが良いと言われたことがあったくらいです。どこをどう見ているのかと言いたくなりますが,当人が思っているほど他人は当人のことを見ているわけではないということは,一般的に妥当するのかもしれません。
2月28日、金曜日。妹が卒業した養護学校の保護者の会というのがありました。これは書くのは初めてかもしれませんが,概ね3ヶ月に1度ほど開催されているもの。といっても正式な会合ではなく,保護者の同窓会のようなもので,単なる昼食会です。都合がつけば母は参加していて,この日も出掛けて行きました。
3月4日,火曜日。妹が2泊3日のショートステイ へ。南区内の施設を利用。この月のショートステイの利用が,定例よりも早まったのは,この後,母と妹の渡米が予定されていたためでした。
6日に妹は帰り、翌7日の金曜日に,施設で賛美礼拝という行事が開催されました。これは母も参加しています。午前中は利用者による演劇。50年前から現代までの歴史劇だったということです。妹は東洋の魔女を演じたとのこと。ただ,イエスの生誕劇 と同様で、事前に説明があったからそう理解できたようです。