スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&最高の徳

2019-07-09 19:50:31 | 将棋
 岩室温泉で指された第90期棋聖戦五番勝負第四局。
 豊島将之棋聖の先手で渡辺明二冠の角換り拒否からの雁木。先手が左美濃から攻めていく将棋に。途中の後手の反撃を受けなかったので攻め合いに移行しました。
                                        
 後手が7七の角を飛び出した局面。ここから後手がうまく指しました。
 まず☖6八歩☗同金☖同銀不成☗同王と清算。そこで☖7九金と打ったのがうまい寄せ方でした。☗7八銀打☖6九金☗同銀で同じような局面ですがそこで☖4九馬と取れば,先手の持駒が銀から金に代わっているので☗7八銀打の受けがありません。
 ☗8八金と引いたのは勝負手ですが☖7九銀と打ち☗5七王☖8八龍☗同龍☖同銀成で先手の龍を外し,後手玉が安全にして大勢を決しました。
                                        
 第2図以下も先手が懸命に粘りましたが,後手がしっかりと寄せ切りました。
                                        
 渡辺二冠が勝って3勝1敗で棋聖を奪取。棋聖は初獲得。棋王,王将と合わせて三冠です。

 第三種の認識cognitio tertii generisをスピノザが学知scientiaとして認めるということは,そもそもスピノザがいう第三種の認識である直観scientia intuitivaが,直観知すなわち知といわれていることからも明白なのですが,そのような語句としての観点から説明するより,こちらの方がスピノザが目指していた認識であったということからより明らかだといわなければなりません。すなわち,あの個物res singularisまたはこの個物と峻別できるような個別的な事物を認識するcognoscereことを目指していたスピノザにとって,もしもそういう認識ではない理性ratioによる第二種の認識cognitio secundi generisが学知であるなら,第三種の認識も当然ながら同じように学知といわれなければならないであろうからです。逆にいえば,もし第三種の認識を学知ということができないのであれば,第二種の認識についてそれを学知いうことは,スピノザにはできないであろうからです。
 このような理由から,僕は第三種の認識はスピノザにとって学知であった,学知でなければならなかったと考えます。ただし,それが学知であったか否かということ自体については,争うことはしません。スピノザが目指していたのは第二種の認識よりは第三種の認識であったのであり,よってスピノザは第二種の認識と第三種の認識を比較するなら,いい換えれば理性による認識と直観による認識を比較するなら,後者の認識の方を高く評価するだろうということに同意してもらえるなら十分です。
 こうしたことはたとえば第五部定理二五から説明することができます。第四部定義八から分かるように,人間にとっての徳virtusは,人間が十全な原因causa adaequataとして働く力agendi potentiaのことをいいます。いい換えれば人間の能動actioのことをスピノザは人間の徳というのです。しかるに人間が事物を十全に認識するとき,その人間は必然的にnecessario能動という状態にあります。よって第二種の認識ですなわち理性によって人間が何事かを認識するとき,人間はその何事かを十全に認識しているのですから,これは人間の徳であることになります。第五部定理二五がいっているのは,それは確かに人間の徳ではあるけれども,最高の徳ではないということなのです。最高の徳は第二種の認識としての徳ではなく,第三種の認識としての徳なのです。
コメント
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