スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&知性改善論との関係

2019-05-13 18:55:37 | 将棋
 11日に安芸の宮島で指された第4期叡王戦七番勝負第四局。
 高見泰地叡王の先手で永瀬拓矢七段の横歩取り☖8四飛。後手はすぐに銀を2三に上がって玉を盤面の左側へ。早い段階で飛車角の総交換になる華々しい戦いに。進んでいくうちに後手が指しやすくなっているように僕には思えました。途中の先手の攻め方が重かったのかもしれませんし,受けなくていいところを受けてしまったためだったのかもしれません。
                                        
 後手が飛車を打った局面。これは☗5三香成と馬筋を止める詰めろが掛かるので危ないのではないかと思ったのですが,実はそうではありませんでした。☖6一香と打ってしまうのがいい手。これはさすがに☗同とと取るほかないですが☖同金と取れば5三の成香取りになっています。これを取られては先手には勝ち目がありませんから☗6三成香も仕方がないでしょう。しかしこの手は詰めろではないので☖6八銀☗7六王☖8四桂☗8六王まで追ってから☖4九飛成と金を取る手が回って後手の勝ちが決定的となりました。
                                        
 ☖6一香が実質的な決め手。こういう手が決め手になるのは永瀬七段らしさを感じます。
 4連勝で永瀬七段が叡王を奪取。プロ入りから約9年半で初タイトル獲得です。

 共通概念notiones communesをスピノザがどのくらいの時期に発見するに至っていたのかということは,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』に関する探究と少し関係する部分があります。たとえばドゥルーズの見解では,『知性改善論』は共通概念が未発見であったためにトートロジーに陥ってしまい,そのために未完に終わったというようになっているからです。
 シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesから送られた書簡八に対する返答が書簡九で,これは1663年3月に出されています。書簡十二マイエルLodewijk Meyerに送られたのが翌月で,この直後にスピノザはレインスブルフRijnsburgからフォールブルフVoorburgに移住しました。ですから8月にマイエルに出された書簡十五はフォールブルフからの書簡です。僕の見解では,書簡八で現在の第一部定理一〇の備考Scholiumに触れられていることから,第一部定理八はすでに完成していたとみるべきで,その時点でこの定理Propositioにも備考はあり,現在のものは後に書き足されたとみますが,共通概念と公理Axiomaを等置した部分はそのときからあったと思います。たぶん僕のこの見解には一定の合理性はある筈ですから,そうであれば少なくともスピノザはレインスブルフにいるうちには共通概念の発想に至っていたとしておかしくありません。となるとドゥルーズの見解では,『知性改善論』はスピノザの哲学者としての人生としてはかなり早い段階に書き始められ,中途で終ってしまい,放置されたことになるでしょう。
 これは前にもいいましたが,僕は『知性改善論』が未完になった理由は,ドゥルーズGille Deleuzeが想定しているのとは違っていると考えています。ドゥルーズの見解を肯定すると,スピノザはそこで課題となる事柄についての結論について,何らの見込みがないままに『知性改善論』を書き始めたと仮定しなければならず,その仮定自体が著しく不自然であると思えるからです。
 ただ,『知性改善論』がトートロジーに陥ったまま未完になっているのは事実であり,ドゥルーズがいっていることにもまったく合理性がないというわけではありません。そしてそちらの説を採用するなら,共通概念はわりと早い段階で発見されていたとみるべきで,よって『知性改善論』は本当に初期の段階の著作であったことになるでしょう。
コメント
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