スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&カセアリウスへの指導

2019-11-30 19:01:51 | 将棋
 24日に倉敷市芸文館で指された第27期倉敷藤花戦三番勝負第三局。
 倉敷市長による振駒で伊藤沙恵女流三段の先手。里見香奈倉敷藤花が先に三間飛車に振ってから先手が向飛車にしての相振飛車。先手の金無双に後手の美濃囲いという戦型になりました。
                                        
 後手が歩を打った局面。☗同香なら☖6七銀と打っていくつもりだったと思います。
 先手はここから☗8四歩☖同銀☗7六飛☖同角☗同香と攻め合いにいったのですが,これは拙速で,☗3九銀と引いて自玉を広くしておくべきでした。
 後手はすぐに☖6七銀と打つのも有力そうですが,☖7七飛と打ちました。これはスピードは遅くなりますが,と金を作って確実性を高めにいった手。これに対して☗6五角と打ったのもおそらく疑問で,ここはと金作りを防ぐだけですが☗6八歩と打つ方がよかったと思います。
 後手は当初の予定通りに☖6七歩成。☗4三角成にも☖5八とと取り仕方のない☗同金に☖6四飛と回りました。
                                        
 飛車の成り込みは簡単に防げるものの,と金と金の交換になったのが大き過ぎ,ここでは後手が大きくリードしています。
 2勝1敗で里見倉敷藤花が防衛。第16期,17期,18期,19期,20期,23期,24期,25期,26期に続く五連覇で通算10期目の倉敷藤花です。

 スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第二部からカセアリウスJohannes Caseariusに指導を始め,第三部に入ってすぐに指導を終えています。『デカルトの哲学原理』が中途半端なところで終了しているのはこのためです。これはおそらくそれまでのようにスピノザとカセアリウスが会えなくなったからと思われます。スピノザは1663年4月20日付のマイエルLodewijk Meyerに宛てた書簡十二の末尾に,移転はもうすぐと書いています。そしてスピノザはレインスブルフRijnsburgからフォールブルフVoorburgに移りました。もしかしたらこれが,カセアリウスへの指導を終える理由であったかもしれません。あるいはそれより前に,カセアリウスの方に何らかの事情があった可能性もないとはいえないでしょう。
 スピノザはカセアリウスに自身の哲学ではなくデカルトRené Descartesの哲学を教授しました。これはカセアリウスの要望であった可能性が皆無であるとはいえませんが,スピノザにもそうする理由があったのは間違いありません。シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九には,カセアリウスは真理veritasよりも新奇を求めている,用心しなければならない人物であるという主旨のことが書かれています。このために,スピノザ自身の思想についてはカセアリウスには教えないようにしてほしいという依頼をしています。つまりスピノザにとってこの時点でのカセアリウスは,すでに講読会を行っていたシモン・ド・フリースたちとは異なり,自分の思想についてはまだ教えるには早いと思える人物だったのです。ですから自身の哲学を教えるかわりにデカルトの哲学を教えたというのが,スピノザの側からの事情になります。
 ただ,だからスピノザがカセアリウスに自身の思想をまったく伝えなかったといいきれない面はあると僕は思います。というのは書簡九のこの部分は,書簡八でいつでもスピノザと会って話をすることができるカセアリウスのことを羨んでいたシモン・ド・フリースをスピノザが慰撫するために書いたのだと受け取れなくもないからです。ですからスピノザがカセアリウスに自身の思想を少しも話さなかったとは僕は断定しません。ですが,カセアリウスがスピノザにとって用心すべき存在であったのは事実だと思います。
コメント
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