スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&コレルス

2017-02-10 19:17:17 | 将棋
 5日に焼津で指された第42期棋王戦五番勝負第一局。公式戦初対局。
 振駒で先手になった千田翔太六段は初手に☗7八金。渡辺明棋王が☖8四歩と応じたので角換りに進みました。中盤以降端からの攻めが厳しく,後手が優位に立ちました。一時的には勝勢に近いところまでいっていたかもしれません。
                                     
 先手が8五の金で銀を取った局面。これは詰めろではないので後手は攻めることができます。まず☖7七とと取って☗同桂に☖8六角と打ちました。
 この手は最善ではなく☖4三角と受ける方が優ったようです。ただ先手玉だけでなく先手の攻め駒をも攻める手なので,このように打つのも理解できます。
 先手が☗6一銀と打ったときに☖5一王と逃げたのは悪手で,☖6三王と上に逃げなければいけませんでした。☗7二銀不成☖5二王のときに☗6一銀不成とするのは連続王手の千日手に至るので先手は手を変える必要がありますが,変わって攻める手はなかったようです。
 5一に逃げたので先手は☗7二銀成としました。これには☖5二王の一手で☗6一成桂と追撃。ここも☖4三金の一手ですが☗6二成桂☖5三王☗4一龍と進んで受け難くなりました。それで☖7八成香☗5八玉。
                                     
 後手はさらに☖6八成香と追って先手の勝ちになりました。僕がウェブ上でみたコンピュータソフトの解析ではそこで☖8五角が指摘されていて,それは勝負手としてあったかもしれません。☗同金なら☖同桂と上に逃げ出そうという意図。それを避けて☗7四歩と受けるなら☖6七角成☗同玉☖6八金☗5七玉のときに☖7五角と王手で金を取り☗4六玉に☖4五歩の王手で反対側に逃げ道を作り,その後の先手の応手次第で最もよいときに☖4八角成とするという意図ではないでしょうか。それでも先手が勝ちかもしれませんし,ソフトであるがゆえに発見できた手ともいえそうですが,もしこの勝負手で難解なら,先手は☖7七角成と王手で取られる変な手ですが第2図のところで☗5九玉と逃げておいた方がよかったという結論にはなるでしょう。
 千田六段が先勝。第二局は18日です。

 もうひとつの伝記を書いたコレルスJohannes Colerusについては,最初からある程度の素性が知られていました。
 コレルスはデュッセルドルフの産まれですからドイツ人であったと思われます。神学を研究し,まず同じドイツのミュールハイムで説教師になりました。ドイツもオランダと同様にプロテスタントが多いところでしたが,オランダで王党派と結び付いていたカルヴァン派ではなく,ルター派です。マイエルLodewijk Meyerはルター派のプロテスタントで,理性ratioによって聖書を解釈するべきという主旨の『聖書解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』を書いていることから,ルター派はカルヴァン派より自由思想に寛容であったと判断してよいと思います。
 1678年にルター派の説教師としてオランダのウェースプに招聘されました。スピノザが死んだのは1677年2月ですから,スピノザと直接に会う機会はもたなかったことになります。そして同年の9月にはアムステルダムAmsterdamに移り,さらに1693年にハーグに招聘されました。このときに住んだ住居が,スピノザがハーグで最初に住んだファン・デル・ウェルフェという未亡人の屋敷の三階部分の屋根裏でした。ただし,そのときにはウェルフェは死んでいたので,コレルスはウェルフェからスピノザの話を聞くことはできませんでした。
 コレルスがハーグで説教師として活動したとき,その説教を聞きに来ていた信者の中に,ファン・デル・スぺイクHendrik van der Spyckがいました。スピノザはウェルフェの家からスぺイクの家の一階部分に移住し,そこで死んだのでした。コレルスがスピノザに関心を抱いたのは,かつてスピノザが住んでいたところに自身も住むようになったからであったと思いますが,スぺイクから直接的にスピノザのことを聞くことができたので,伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaを書くという動機の最大の原因となったのは,むしろスぺイクとの出会いの方であったというべきかもしれません。
 ルター派はカルヴァン派より自由思想に寛大で,だからコレルスもスピノザの伝記を書いてもよいと思えたのでしょう。しかしスピノザは信仰心はありませんでしたから,その点は伝記の中で厳しく批判されています。つまりコレルスは反スピノザの立場に近かったのです。
コメント
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