スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&合論理性と合理性

2019-06-08 18:58:11 | 将棋
 6日に指された第60期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は羽生善治九段が32勝,木村一基九段が16勝。持将棋と千日手が1局ずつあります。
 振駒で羽生九段の先手となり,木村九段の横歩取り。途中から先手の攻めが心細くなり,後手が受けきりを狙える展開だったのですが,ひとつの受け間違いが出たためにまた混戦になりました。
                                        
 先手が桂馬を打って自玉を安全にした局面。ここで☖6七角成という手が指されたのですが,これは僕には意味が分からない難解な一手でした。
 角がいなくなったので先手は☗6一と☖同玉と捨ててから☗2七歩と手を戻し,☖同歩成☗同銀としました。先手の玉が詰むことは当分はなさそうですから,あとは先手の攻めが続くのか後手が受けきるのかが勝負の分岐になります。後手は☖7三金と打ちました。
                                        
 ここから☗6三歩と打つとすぐに攻めが切れてしまうことはなく,接戦が続いたようです。実戦は☗7二歩と垂らしたのですが,☖5二玉と早逃げされ,☗7一歩成のときに☖5七馬☗2八金とした後で☖8三金打で飛車を捕獲され,攻めが続かなくなりました。
 木村九段が挑戦者に第57期以来3期ぶり4度目の王位挑戦。第一局は来月3日と4日です。

 スピノザの哲学には原因の十全性と観念の十全性の間に一定の関係があります。すなわち,ある人間の精神mens humanaが十全な原因causa adaequataとなることによってその人間の精神のうちに何らかの観念ideaが発生するなら,その観念は十全な観念idea adaequataです。しかしある人間の精神が部分的原因causa partialisとなってその人間の精神のうちに何らかの観念が発生すれば,その観念は混乱した観念idea inadaequataです。したがって,Xに関してその真理veritasを知るということが,Xの十全な観念を有するということであるなら,それを有するためには十全な原因とならなければなりません。しかるに,人間の精神が十全な原因となるということを,スピノザはその人間の能動actioというのです。いい換えれば人間は精神の能動actio Mentisによって事物の十全な観念を有することになるのです。このゆえに僕は,人間が合論理的であるということは,その人間の能動であると解するのです。
 ここまでの説明から分かるように,精神の能動とはそれによって事物の観念を十全に認識するcognoscereことを意味します。スピノザの哲学では認識cognitioは三種類に分類されますが,そのうち第一種の認識cognitio primi generisは事物を混乱して認識するあり方なので,精神の能動ではありません。これに対して第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisは事物を十全に認識するあり方です。ですからこれらは精神の能動に該当します。
 ただし,第三種の認識は,神Deusの属性attributumの形相的本性essentia formalisの十全な認識から事物の本性の十全な認識に至る認識です。ですからこの認識は数学のすべてにそのまま使うことはできません。数学的命題を解くために,神の属性の形相的本性の十全な認識が絶対に必要とされるわけではないからです。もっともこのことは,第三種の認識が直観知scientia intuitivaといわれ,第二種の認識が理性ratioといわれることからも明らかだといえるでしょう。スピノザは直観知の例を比例の法則で説明しているので,直観知によって数学の問題を解くこともできるのですが,同じ例を第二種の認識でも説明しているように,数学は直観により真理を獲得するものであるというより,理性による推論を用いて真理を獲得する学問であるというのが,説明として適切であるといえるでしょう。よって合論理的と合理的というのは,ほぼ同じ意味です。
コメント
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