スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&地獄への不安

2016-01-04 19:10:26 | 将棋
 12月28日に指された第41期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第二局。
 振駒で佐藤康光九段の先手。3手目の▲6六歩に佐藤天彦八段が△3二飛と指して相振飛車に。先手が美濃囲い,後手が穴熊に進展。向飛車の先手が棒銀で攻めていくことになりました。
                                    
 ここで▲8四歩△同歩と合わせてから▲7五銀と進出。後手は△5五銀で飛車の横利きを通しました。先手は▲6四歩△同歩の手筋でそれを消してから▲8四銀。
 ここでは△8三歩と打つのが最も自然な手です。双方の見解が分かれていて,先手はそれで難解とみていたようですが後手は自信なしということで△6六銀と角取りに出ました。
 ▲8三歩と打てたのは読み筋からして先手としては望外だったのではないでしょうか。ただ△7一銀と引かれて難しかったそうです。でも▲9三銀成は最善手。
 △同香でも△同桂でも▲9五歩と伸ばして先手の攻めが成功しているとのこと。そこで△8五歩と受けました。
                                    
 実戦はここで▲6三歩と叩き△同金直に▲8二歩成から清算してしまったので失敗に終わりました。ですが初志貫徹で▲9五歩と突いておけば,後手は成銀を処置できない状況は同じなので△7七銀成とするほかなく,駒損でも銀を入手できる先手の攻めが繋がっていたようです。将棋は後手が勝ったわけですが,この棒銀が成立しているということであれば,後手は第1図のように組んではまずいのかもしれません。
 連勝で佐藤天彦八段が挑戦者に。棋王戦は初の出場。第一局は来月11日です。

 敬虔であることを肯定する意志作用を含んでいる観念を,ここではXの観念と仮定しておきます。つまりその観念対象ideatumが何であるのかということまでは考察しないということです。
 Xの観念が十全である場合,なぜそれを通して人が敬虔になるのかということは,あまり具体的に考える必要はありません。というのはXの十全な観念というのは,どんな人間の知性のうちにあったとしても,同一の形相であり同一の本性であるからです。他面からいえばそれは第二部定理七系の意味により,神のうちにあるXの観念と本性の上でも形相の上でも一致するからです。なのでXの観念によって人が敬虔になるという様式は,どんな人が敬虔になるのであっても一致するでしょう。ここでは形而上学的に分析できれば十分ですから,これ以上は考えません。
 一方,Xの混乱した観念によって敬虔になるという場合は,少し具体的に考えておく必要があります。Xの混乱した観念というのは,それを認識する知性によって異なるので,一般的には説明することができないからです。なのでどのような混乱した観念が敬虔であることを肯定する意志作用を含み得るのかという観点から説明します。この考察は,人間が受動によって敬虔であり得るということの,具体的な説明にもなり得るでしょう。
 スピノザがその返信で見抜いたように,アルベルトがカトリックに改宗した動機は地獄への不安metusでした。不安は第三部諸感情の定義一三により悲しみです。したがって第三部定理五九により受動であり,第三部定理一によりその観念は混乱した観念であることになります。書簡六十七の内容からして,アルベルトが敬虔な人物であったと規定するのは無理があるかもしれません。ですがアルベルトと同じような理由でローマカトリックに入信して,その結果として敬虔になったという人間が実在したと仮定しても,これは無理な仮定であるとはいえないでしょう。つまりこの場合には地獄という混乱した観念,あるいはそれに対する不安の感情が,結果としてその人間を敬虔にさせるに至ったということになります。これがひとつの具体例といえるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする