スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ファン・デン・エンデン&属性と直接無限様態

2014-06-07 18:58:04 | 哲学
 スピノザと演劇の項で触れたように,スピノザはファン・デン・エンデンの学校でラテン語を習得しました。ナドラーは,スピノザをファン・デン・エンデンに導いたのは,かつての商人仲間であったという推測をしています。ファン・デン・エンデンというのは,当時としては過激なくらいの民主主義者であり,宗教的側面でも,信仰は個人的信条なので組織や権威によって統制されてはならないという考え方の自由主義者。この宗教的意見は,コレギアント派の見解と一致します。なのでナドラーは,仮にスピノザがコレギアント派の集会に参加していたとしても,それは驚くには値しないと述べています。
                         
 スピノザがラテン語を習っていた当時のオランダは,ヨハン・デ・ウィットが実権を握る共和制の時代。ファン・デン・エンデンは,オランダを共和制から民主制へと移行させる手段を議論していたとのこと。スピノザは民主主義者でしたので,政治的信条としては,スピノザとデ・ウィットより,スピノザとエンデンの方が近かったといえるでしょう。
 ただ,エンデンもまたこの思想のために,反動的なカルヴィニストから敵意に満ちた反発を受けることになりました。1671年にはパリに移住しています。デ・ウィットが虐殺される1年前のこと。ただこれはオランダを追い出されたというより,ルイ14世の相談役を務めるためであったようです。
 ファン・デン・エンデンは,パリでも上流サロン向けのラテン語学校を開設。さらに未亡人と結婚し,自宅を知的サロンとして解放しました。そしてここにはライプニッツも通ったとナドラーは書いています。
 スピノザとライプニッツを最も接近させたのは,チルンハウスでしょう。ただ,ライプニッツがチルンハウスと知り合ったのは1675年。ライプニッツは1671年にはスピノザに手紙を出していて,ファン・デン・エンデンのパリのサロンは,ナドラーの書き方からすると,1672年には開かれていたと思われます。ライプニッツとファン・デン・エンデンの間でスピノザの話が出なかったとは考えにくいように思われます。

 第一部定理二一が示しているのは,もしもある属性Xが,神の本性を構成するのであれば,そのXの属性の直接無限様態も必然的に存在するということです。ですから単に各々の実在ということだけに着眼点を合わせれば,Xの属性が実在するということは直ちにX属性の直接無限様態が実在するということを意味します。逆に,X属性の直接無限様態が実在するということが,X属性が実在するということ,いい換えればX属性が神の本性を構成するということを意味することになるのはいうまでもありません。ただ,本性の上ではX属性がX属性の直接無限様態に「先立つ」という相違があるだけです。もちろんこの相違自体は非常に重要ですが,各々の実在にだけ注目するのであれば,属性だけが実在するということはあり得ませんし,また直接無限様態だけが実在するということもあり得ません。また,各々の認識のあり方に目を向ければ,属性は第一部定理一〇によりそれ自身によって概念され,直接無限様態は様態ですから第二部定理六によりそれが様態となっている属性によって概念されるという相違があり,これもまた非常に重要な相違ではありますが,属性が認識されればそこからはその属性の直接無限様態が必然的に実在するということが帰結するのですから,直接無限様態の実在の認識については,直接無限様態自体が観念対象ideatumとなっていようと,属性がideatumとなっていようと,どちらでも同じ結論になるといっていいと思います。
 したがって,個物res singularisの形相的本性がそのres singularisが様態となっている属性に包容されて実在するということと,そのres singularisが様態となっている属性の直接無限様態のうちに実在するということの間に,何か重大な相違が発生するというようには僕には考えられません。同様に,あるres singularisの観念が,思惟の属性の直接無限様態である神の無限知性がある限りで存在するといわれる場合と,思惟の属性に包容されてあるといわれる場合との間にも,決定的とみなすべき差異があるとは僕は考えません。よってこのことは説明の様式の差異に還元できるのであり,第二部定理八でスピノザは,ある平行論について語っていると解釈することが可能であると判断します。
コメント
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