スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大阪王将杯王将戦&哲学と政治

2020-03-27 19:01:19 | 将棋
 一昨日と昨日,佐渡で指された第69期王将戦七番勝負第七局。
 佐渡市長による振駒渡辺明王将の先手。相矢倉から後手の広瀬章人八段は右四間飛車に。先手から大駒をすべて切る強襲に出る将棋となりました。
                                        
 3六の歩を2五の銀で払った局面。ここから後手は攻め合いに出ます。それが☖6三角☗2五銀☖2七角成という手順。
 先手は☗2二歩と反撃。☖1三桂に☗1四銀と出て☖3六歩☗2三銀成☖3七歩成☗3二成銀☖同玉☗2一飛☖4二銀まで進めて☗5七銀と逃げました。さらに後手が☖3六馬と追撃してきたところで☗7九王の早逃げ。
                                        
 この早逃げが効果的で,後手はここから有効な攻め手を欠き,ほぼ防戦一方になってしまいました。おそらく第2図は先手がよい局面で,後手は第1図からは攻め合わずにもう少し受ける必要があったのではないかと思います。
                                         
 4勝3敗で渡辺王将が防衛第62期,63期,68期に続く連覇で通算4期目の王将位。通算で25期目のタイトル獲得となりました。

 カヴァイエスJean Cavaillèsがレジスタンス運動に参加したことが,カヴァイエス自身のスピノザ主義によるものであったということは,僕の想定なのであって,断定的にいうことができるわけではありません。ただ僕の想定が正しいのだとすれば,たとえそれで銃殺されることになったのだとしても,カヴァイエスにとっては必然であった,他面からいえばそうせずにはいられなかったのだと僕は解します。これは政治的であるということの意味としてはかなり極端な例なのであって,人はスピノザ主義者であればだれであってもカヴァイエスと同じように行動するというものではありません。それこそ近藤が「人新世」のプロセスを創出するシステムのひとつといっている議会制民主主義の下で,投票行動としてのみ自身のスピノザ主義を表明するだけであるという場合もあり得ると思います。ただいずれにしてもスピノザ主義は実践と切り離すことができないような思想なので,何らかの意味で実践をせざるを得ないのがスピノザ主義者であると僕は考えます。そして実践のうちには政治的実践が必ず含まれることになるので,スピノザ主義者は何らかの政治的実践を行うことになるのです。この意味において,スピノザの哲学は政治的なものと切断することができない哲学であると僕は考えます。他面からいえば,僕は政治的ということを,このようなスピノザの哲学と切り離すことができないある種の行動とみなしているのです。
 こうしたことは,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』とか『国家論Tractatus Politicus』を読んでみても理解できるでしょう。前者における聖書の解釈の部分を除けば,これらの著作はきわめて政治的な著作であるといえます。これは政治的ということを,僕のように特殊な意味に解するのでなくてもそうであるとしかいいようがないと思います。そしてそれについてスピノザがどのように語るのかといえば,哲学を基礎として論述するのです。これは端的にいって,哲学が政治論と直結しているということを示しているといえるでしょう。つまりこのような意味においても,スピノザの哲学は政治的なものと切り離すことができません。つまり実践としてではなく,論理的な面からも切断できないのです。
コメント
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