27日に東京将棋会館で指された第28期女流王位戦五番勝負第五局。
振駒で伊藤沙恵女流二段の先手。里見香奈女流王位の三間飛車に先手は向飛車にしての相振飛車。先手が金を5六に繰り出して押さえ込みを狙いにいくという斬新な作戦に。ただ僕は35手目に☗3七歩と打った局面では作戦があまりうまくいっていないという印象を受けました。その後は攻め合いに。
先手が桂馬を打ったところ。後手は☖5五桂と打ちました。これは先手玉の逃げ道を狭める攻めの手であると同時に先手の角筋を遮る受けの手にもなっています。
先手は☗4八玉と早逃げしました。この局面では最善手であったと思います。手番を得た後手は☖6九角と打ち込みました。玉頭を受けなければならないので☗5五金☖同歩☗同角と桂馬を外しました。
ここで後手は☖3六銀と打ち,また受けが必要な先手は☗5八桂と打っています。
これは角道を止めることによって3六の銀取りになっているのですが構わず☖6七とと寄られ☗3六飛と銀は取れたものの☖5八角成で後手の勝ち筋に入りました。後手はほかにも攻め筋があり,これが最もよいとみて☖3六銀と打ったのだと思われますが,☗5五同角のところの解説にあるように,第2図では5八でなく☗5九桂と受ける手があり,そちらの方が有力だったかもしれません。僕には分からないだけでいい寄せ方があるのかもしれませんが,先手が最善の粘りを書いた可能性もあったのではないかと思います。
3勝2敗で里見王位が防衛。第23期,26期,27期に続いての3連覇で通算4期目の女流王位です。
denominatio intrinsecaを本来的特徴と訳出するのであれば,denominatio extrinsecaを外的特徴と訳出するのは具合が悪いことになります。内的特徴に対して外的特徴というのは自然ですが,本来的特徴に対して外的特徴というのでは,ふたつの特徴として対応しているということが分かりにくくなるからです。よって『スピノザ哲学論攷』ではdenominatio extrinsecaには外来的特徴という訳語が与えられています。本来的特徴という訳出が僕が知る限りでは河井に特有のものであるように,外来的特徴という訳語も河井だけのものです。ですが僕は本来的特徴というのが優れた訳語であると判断しますので,denominatio extrinsecaについても河井に倣ってこれからは外来的特徴ということにします。
ただ,単に対応関係から河井がdenominatio extrinsecaを外来的特徴と訳したとは僕は考えていません。第一部公理六から分かるように,外来的特徴というのは,観念ideaの特徴として,観念それ自体から規定される特徴ではなく,観念されたものideatumという,文字通りにその観念の外にあるものから来るような特徴であるからです。
本来的特徴も外来的特徴も,スピノザの哲学では観念に限っていわれる特徴です。しかしこれを考慮の外に置き,一般にXについてXの本来的特徴とXの外来的特徴というものがあるとした場合に,どちらがXにとって重要な特徴であるかといえば,Xの本来的特徴の方であると,日本語が理解できる人なら直観的に判断するのではないかと思います。僕がこれらの訳出が優れていると考える理由の最大のポイントはそこにあります。つまり観念を本来的特徴と外来的特徴に区分することによって,スピノザの哲学では本来的特徴が重要であるという直観を与えるという点に,これらの訳の優秀性を見出すのです。
それが真の観念idea veraであるかそれとも誤った観念であるかということは,スピノザの哲学においては二次的な区分です。むしろそれが十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかということが最重要な区分なのです。
振駒で伊藤沙恵女流二段の先手。里見香奈女流王位の三間飛車に先手は向飛車にしての相振飛車。先手が金を5六に繰り出して押さえ込みを狙いにいくという斬新な作戦に。ただ僕は35手目に☗3七歩と打った局面では作戦があまりうまくいっていないという印象を受けました。その後は攻め合いに。
先手が桂馬を打ったところ。後手は☖5五桂と打ちました。これは先手玉の逃げ道を狭める攻めの手であると同時に先手の角筋を遮る受けの手にもなっています。
先手は☗4八玉と早逃げしました。この局面では最善手であったと思います。手番を得た後手は☖6九角と打ち込みました。玉頭を受けなければならないので☗5五金☖同歩☗同角と桂馬を外しました。
ここで後手は☖3六銀と打ち,また受けが必要な先手は☗5八桂と打っています。
これは角道を止めることによって3六の銀取りになっているのですが構わず☖6七とと寄られ☗3六飛と銀は取れたものの☖5八角成で後手の勝ち筋に入りました。後手はほかにも攻め筋があり,これが最もよいとみて☖3六銀と打ったのだと思われますが,☗5五同角のところの解説にあるように,第2図では5八でなく☗5九桂と受ける手があり,そちらの方が有力だったかもしれません。僕には分からないだけでいい寄せ方があるのかもしれませんが,先手が最善の粘りを書いた可能性もあったのではないかと思います。
3勝2敗で里見王位が防衛。第23期,26期,27期に続いての3連覇で通算4期目の女流王位です。
denominatio intrinsecaを本来的特徴と訳出するのであれば,denominatio extrinsecaを外的特徴と訳出するのは具合が悪いことになります。内的特徴に対して外的特徴というのは自然ですが,本来的特徴に対して外的特徴というのでは,ふたつの特徴として対応しているということが分かりにくくなるからです。よって『スピノザ哲学論攷』ではdenominatio extrinsecaには外来的特徴という訳語が与えられています。本来的特徴という訳出が僕が知る限りでは河井に特有のものであるように,外来的特徴という訳語も河井だけのものです。ですが僕は本来的特徴というのが優れた訳語であると判断しますので,denominatio extrinsecaについても河井に倣ってこれからは外来的特徴ということにします。
ただ,単に対応関係から河井がdenominatio extrinsecaを外来的特徴と訳したとは僕は考えていません。第一部公理六から分かるように,外来的特徴というのは,観念ideaの特徴として,観念それ自体から規定される特徴ではなく,観念されたものideatumという,文字通りにその観念の外にあるものから来るような特徴であるからです。
本来的特徴も外来的特徴も,スピノザの哲学では観念に限っていわれる特徴です。しかしこれを考慮の外に置き,一般にXについてXの本来的特徴とXの外来的特徴というものがあるとした場合に,どちらがXにとって重要な特徴であるかといえば,Xの本来的特徴の方であると,日本語が理解できる人なら直観的に判断するのではないかと思います。僕がこれらの訳出が優れていると考える理由の最大のポイントはそこにあります。つまり観念を本来的特徴と外来的特徴に区分することによって,スピノザの哲学では本来的特徴が重要であるという直観を与えるという点に,これらの訳の優秀性を見出すのです。
それが真の観念idea veraであるかそれとも誤った観念であるかということは,スピノザの哲学においては二次的な区分です。むしろそれが十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかということが最重要な区分なのです。