スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&哲学的肯定の意味

2017-12-06 19:23:57 | 将棋
 一昨日と昨日に指宿温泉で指された第30期竜王戦七番勝負第五局。
 羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。後手の渡辺明竜王がバランス型の布陣を敷いたのに対して先手が銀をぶつけていくという,今まで見ることがなかった仕掛け。そこまでの駒組がよくなかったという感想が残っていますが,僕には封じ手の段階では先手が有利になっていたとは思えないです。ただ,仕掛けて悪くなったということはまるでなく,成立するとはいいきれないまでも,あり得る仕掛けであったのは間違いないところでしょう。2日目は進んでいくうちに先手の有利が拡大し,最後は大差になるという,僕にはまったくもって不思議な将棋でした。
                                       
 先手が角を打った局面。ここで☖4九龍と逃げましたが,逃げ場所としてはあまりよくなかったのかもしれません。
 ☗1二歩☖同香☗1三歩は先手が角を打ったときからの狙いの攻め筋。後手は☖同香☗同桂成☖同桂☗同角成と清算して☖2二金打と受けました。
 先手は馬を逃げずに☗1五香と走って一歩を入手。後手が☖1三金と馬を取ったところですぐに取り返さずに☗6七角と打ちました。これは龍が4九に逃げたために生じた一手です。
 後手は☖1九龍と回って1筋に利かせ,先手は☗1三香成と金を取りました。
                                       
 第2図で後手は成香を取らずに☖4一王と早逃げしました。しかしこれには1筋で入手した歩を☗4四歩と打つ手があり,後手は☖9四桂と反撃に回ったものの☗2三成香☖同金☗4三歩成でと金を作られることに。
                                       
 先手玉が詰めろになっていないので,第2図からの早逃げはあまり手が伸びてなく,一手パスに近くなってしまい,ここで決定的な差がつきました。第2図はたぶん後手が不利ですが,☖1三同龍と取る方がましだったでしょうし,早逃げするなら第1図から2図に進む間のどこかだったのではないかと思います。
                                         
 4勝1敗で羽生棋聖が竜王を奪取。第2期,5期,7期,8期,14期,15期に続く15年ぶり7期目の竜王位。同時に永世竜王の称号も獲得しました。すでに永世名人,永世王位,名誉王座,永世棋王,永世王将,永世棋聖の称号は獲得済みで,今期よりタイトル戦となった叡王戦以外のすべてのタイトル戦の永世・名誉称号を獲得するという快挙が達成されました。シリーズを通して羽生新竜王が積極性で圧倒したという印象です。

 第一部定理一一第三の証明は,Deusが絶対に無限absolute infinitumであることに依拠して,絶対に無限なものは最高の実在性realitasを有するから,それが実在するかさもなければ何も実在しないかのどちらかでなければならず,しかし何も実在しないというのはそれ自体で不条理なので神は実在するという主旨の論証Demonstratioです。神が絶対に無限な実体substantiaであることは第一部定義六が示していることであり,仮にこれを無視しても,絶対に無限な実体は存在しなければならないということは理解できます。
 これに類比的にいうなら,絶対に無限な実体は最高の肯定を意味するのであって,したがってそれが肯定されるか,そうでないなら肯定されるものは存在しないかのどちらかでなければならないのです。なぜこうした類比が成立するのかといえば,第一部定義六説明にあるように,絶対に無限な実体の本性essentiaに属するのは一切の否定negatioを含まないあらゆるものであるからです。そして絶対に無限な実体は存在しなければならないのですから,そこには一切の否定を含まないあらゆるものが属し,よって絶対に無限な実体すなわち神の本性から必然的にnecessario生起するあらゆるものは否定を含んでいない,すなわち肯定されているということになります。これが僕のいう哲学的肯定の意味です。
 スピノザが第二部定義六で,ものの実在性にものの完全性perfectioを等置するのは,こうした哲学的肯定と関連しているという見方が可能と僕は考えています。というのは,第一部定理一五にあるように,存在するものはすべて神のうちにあるのであって,また第一部定理一六により,それは神の本性の必然性を原因とします。すでにみたように,第一部定理三四によってその神の本性は神のpotentiaと同一です。一方,第一部定理一一第三の第三の証明がいうように,存在し得るということは力で存在し得ないということは無能impotentiaです。実在性というのはそれが実在する力という意味ですから,事物の実在性の原因が神である以上,その力は神の力の分有です。あるいは実在するものは神の力を部分的に表現します。よって実在するものはどんなものであれ完全であり,つまりものの完全性というのはそのものの実在性であるということになるのです。
コメント
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