スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&スぺイク

2017-02-14 19:34:58 | 将棋
 備中屋長衛門で指された第66期王将戦七番勝負第四局。
 久保利明九段の先手で5筋位取り中飛車ごきげん中飛車を先手で指して,郷田真隆王将が①-Bの変化に進めたような形の将棋でした。通常の形と比較すると先手は☗1六歩が突けていて,これは美濃囲いにとって大きな手なので,①-Bの変化では少し得をしているかもしれません。
                                    
 後手が3一の銀を上がった局面。先手はここで☗5四歩☖同歩と仕掛け☗2二角成☖同王と手損で角を交換した上で☗5四飛と走りました。後手が☖5五歩と打ったのは飛車を捕獲する狙いだったと思うのですが☗7七桂と跳ねられたところで長考に沈み,そのまま封じ手となりました。
 封じ手は☖3三銀でこの手は意図を把握しかねます。小鬢が開いていてはどうしてもまずい変化があったのだと推測するほかありません。先手は☗7一角と打って☖7二飛に☗2六角成と馬を作りました。これは大きな戦果ですが代償に0手で飛車を寄らせたようなもので☖7五歩から反撃を受けることに。
 ここからびっくりするような一直線の攻め合いに突入します。☗6六歩☖7六歩☗6五歩☖7七歩成☗6四歩☖7八と☗6一銀☖6九と☗7二銀不成がその手順。
                                    
 今日の昼過ぎにこの手順をみたとき,これは後手に分があるのではないかと思えました。この後の手順からどうもその直観が正しかったようです。先手にとって仕方のない一直線であったのなら,仕掛け方に拙いところがあったということになるのではないでしょうか。
 郷田王将が勝って1勝3敗。第五局は来月1日と2日です。

 スピノザが死んだときの宿主であったヘンドリック・ファン・デル・スぺイクは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では画家の親方であったと記されています。親方というのが何を意味するかは僕は分かりません。主に室内装飾画を集中的に描き,肖像画を手掛けることもあったそうです。『人と思想 スピノザ』には,この時代のオランダでは部屋を飾るための一枚画は大いに必要で,そうした需要は中流所得の商人や農家にも及んでいたと書かれていますので,おそらくそういう絵を描いて生計を立てていたと思われます。ただ,スぺイクにとってはそれだけでは十分ではなく,ほかに家賃収入があり,さらに軍隊に奉仕する事務弁護士も務めていたようです。
 妻はイダ・マルガレータ・ケッテルリンフ。あるエピソードとして紹介した夫人はこのケッテルリンフです。スピノザが住むようになったとき,ふたりの間に3人の子どもがありました。そしてスピノザが死ぬまでの5年半の間に,さらに4人の子どもが産まれています。おそらく一家全員,といっても幼い子どもをそこに含めていいかは微妙ですが,ルター派のプロテスタントであったものと推定されます。
 スぺイクが死後のスピノザのために果たした役割は,かつて書いたように甚大です。スピノザはスぺイクに対し,もし自分が死んだときには,書簡も含む原稿の類のすべてを入れてある執筆用の机を,リューウェルツJan Rieuwertszに送るように依頼していました。スぺイクはその指示を忠実に守りました。このために『エチカ』も含む未発表,といっても何人かは知っていたでしょうが,公にはされることがなかった遺稿をリューウェルツは入手することができ,遺稿集Opera Posthumaを編纂し発刊することも可能になったのです。もしこのときスぺイクがスピノザの指示を無視していたなら,僕たちがスピノザが書いたものを今のような形で読むことは不可能だったのかもしれないのです。
 ただ,スピノザはこの時代のオランダにおいては,激しく論難される存在でした。ルター派の説教師だったコレルスJohannes Colerusも,思想面では伝記の中でスピノザを厳しく批判しています。なぜスぺイクは指示を無視し,机を廃棄したりしなかったのでしょうか。
コメント
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