スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&超越的意志

2019-09-28 19:03:43 | 将棋
 25日と26日に平河町で指された第60期王位戦七番勝負第七局。
 振駒で豊島将之王位の先手となり角換り相腰掛銀。木村一基九段の仕掛けに対して先手が大胆に応じましたが,そのあたりは均衡が保たれていたようです。
                                        
 後手が歩を取り込んで王手を掛けた局面。ここで☗6八王と引いたのですが,後の手順から察すると☗6七王の方が優っていたと思われます。
 後手は☖7二金と逃げ,☗7三銀成☖5二飛と受けました。これは☗8二桂成があるだけにやや意外な受け方で,実際に☗8二桂成と指しておけば,先手に有望な変化も多かったようです。
 実戦は☗2四歩☖同歩と突き捨てました。
                                        
 ここで☗6二歩と打ちましたが,☖7七銀と王手に打たれて後手の攻め合い勝ちの順に進んでいます。☗6二歩は確実な手ですがこの局面では遅く,☗6二桂成から攻め合って勝てないと,すでに先手が悪くなっているのではないでしょうか。
 木村九段が勝って4勝3敗とし,王位を奪取。初めてのタイトル獲得になりました。

 意志作用volitioが観念ideaを超越することはないということを考えておかなければならない理由は,ここでは僕の妹の意志作用あるいは能力potentiaといったように,意志作用というのがある人間の精神mens humanaのうちにあるとみられる場合について語っているからです。他面からいえば,意志作用や観念がある現実的に存在する人間の精神mens humanaの一部を構成するとみられる場合には,意志作用が観念を超越するか否かということは,問題となり得るのです。
 第二部定理七系の意味から分かるように,神Deusのうちにある観念はそのすべてが十全な観念idea adaequataです。よって,観念は必ず意志作用という力potentiaを含んで,あるいは意志作用という力そのものとして実在するのですから,神のうちにある観念があるとみられる限りにおいては,意志作用が観念を超越するということはありません。ある意志作用は必ず何らかの十全な観念を肯定する意志作用であるからです。ところが,ある観念が人間の精神のうちにあるという場合はこれとは異なります。人間の精神のうちには十全な観念だけがあるというわけではなく,混乱した観念idea inadaequataもあるからです。より正確性を期していうなら,人間は必ず事物を十全に認識するcognoscereというわけではなく,事物を混乱して認識する場合があるからです。
 このとき,もしも意志作用というのが,真verumなるものを真として肯定する力である,あるいは同じことですが十全adaequatumなるものを十全であると肯定する力であると仮定するなら,意志作用は観念を超越するといわなければならないでしょう。なぜなら混乱した観念が含むような意志作用は,少なくとも真なるものを真として,十全なものを十全と肯定するような意志作用ではあり得ないからです。むしろこのいい方に則していうなら,混乱した観念が含む意志作用は,誤ったものを真として,混乱したものを十全なものとして肯定するような意志作用であるといわなければなりません。
 したがって,もしも一切の意志作用は観念を超越しないと主張する場合には,混乱した観念は意志作用すなわち力を含まないというか,意志作用とは真なるものを真と,十全なものを十全と肯定する力だけではないというかのどちらかでなければならないことになります。
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