スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&内在の原理

2020-03-19 19:12:54 | 将棋
 17日に東郷神社で指された第45期棋王戦五番勝負第四局。
 本田奎五段の先手で先手の矢倉,後手の渡辺明棋王雁木という戦型。先手が角の動きで一歩を得した後,後手が角と飛車の交換に持ち込むという展開。
                                        
 後手が端歩を突いた局面。悠長な手にも思えますが,これは狙いを秘めた一着でした。
 先手は☗4六歩☖同歩☗3五歩と後手の桂馬を狙いにいきました。後手は☖4七歩成☗同馬と一時的に凌いでおいて☖9五歩。先手は再び☗5六馬と戻って当初の攻めの継続を図りました。
                                        
 実は第2図の☗5六馬は悪手で,☗3六銀としておくのがよかったようです。なぜ悪手だったかはその後の展開から判明します。
 後手は☖9六歩☗同歩☖同香と一直線に端を攻めました。これを☗同香は☖9八飛なので☗9八歩と受けるのは仕方ありません。そうしておいて☖6五歩と打って☗4八角とどかし,☖9四飛と回るのが後手の構想。☗7四歩にも構わず☖9八香成と攻め合います。
                                        
 部分的にいうと☗9五歩☖同飛☗9六歩☖同飛☗9七歩で受かるのですが,その途端に☖5六飛と取れば後手必勝。つまり5六の馬にヒモがついていないのが先手の泣き所で,このために☗5六馬は悪手だったのです。ただ先手がミスをしたというより,後手が上手に咎めたという印象の方が僕には強かったです。
                                        
 3勝1敗で渡辺棋王が防衛第38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期に続く八連覇で通算8期目の棋王位です。

 第一部定理一五は,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estといっています。あるもの,すなわち存在するものはすべて神のうちに存在するのであって,神の外部に存在するものはありません。つまり存在するものはすべて神に内在し,神を超越して存在するものはないことになります。このゆえにスピノザの哲学は,万物が神に内在する哲学であり,神を超越する存在existentiaを認めない,他面からいえば神の外部が存在しないという意味で,内在の哲学であることになります。このうち,神の外部が存在することを認めないということは重要です。そのために内在の哲学が徹底されることになるからです。
 神は万物の原因causa,第一部定理一五に倣っていうなら,あるものすべての原因でなければなりません。第一部定理一五は,あるもののすべてが神のうちにあるということと同時に,神なしには何もあることはできず,また概念することができないnihil sine Deo esse, neque concipi potestということもいっているからです。このとき,神なしに存在し得ないすべてのもの,神なしに考えることができないすべてのものは,神のうちに存在します。したがって神は原因として,その結果effectusを自身の内部に産出するproducereのであり,自身の外部に産出することはありません。これはスピノザが第一部定理一八証明の中でいっていることです。よって第一部定理一八にある通り,神は万物に対して内在的原因causa immanensであって,超越的原因causa transiensではないということになるのです。要するに,神が内在的原因であることと,あるもののすべてが神のうちにあるということは,ふたつでセットなのであり,このふたつの事柄が,スピノザの内在の哲学の原理,徹底的な内在の哲学の原理を構成することになります。
 しかしこれだけでは,なぜこのことが「人新世」を克服するための条件になるかはまったく分からないでしょう。そこでここでは,スピノザが神といっているものを,第四部序言を参照することによって,自然Naturaと等置してみましょう。もしもこのように神と自然を等置することができるのなら,第一部定理一五は,存在するもののすべては自然のうちにあるということになりますし,第一部定理一八は,自然は万物の内在的原因であるということになります。
コメント
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