スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&永遠

2018-02-05 18:59:51 | 将棋
 関根名人記念館で指された昨日の第44期女流名人戦五番勝負第三局。
 伊藤沙恵女流二段の先手で後手の里見香奈女流名人の三間飛車,先手の向飛車という相振飛車に。互いに飛車先の歩を切った後,後手から飛車交換を挑み,応じた先手がすぐに自陣に飛車を打ち,この飛車を軸に攻めていく将棋に進みました。
                                     
 後手が4五に進出していた銀を逃げた局面。ここでは☗9四歩が最も自然と感じられる手で,それが最善であったようですが☗7三歩成と強く踏み込みました。☖同金と形を乱してから☗9四歩と取り込む意図です。ただ後手も金が前に出たため☖8四銀が成立することに。
 ここで☗2五飛☖3四銀なら実戦とは違った将棋。先手にとってはそちらが有力だったようですが☗6五桂と打っていきました。後手は☖同銀。
 これは☗同飛もあった筈ですが☗同歩。こうなれば☖7七角成☗同桂までは必然。後手は☖6二王と受けました。先手は飛車を逃げずに☗6四歩。
                                     
 一連の手順から分かるように先手はかなり強気です。ただこの強気がこの将棋ではマイナスに働き,第2図から☖8五銀と飛車を取られた局面ではすでに悪くなっていました。したがって第2図では飛車を逃げておかなければならなかったことになります。
 とはいえ☗同桂は金取りで☖6四金に☗7三銀が王手金取り。☖5二王☗6四銀成☖同歩☗7三桂成と進んだ局面は,☗6一角の狙いもあって攻めが続きそうではあります。ですがここからの後手の指し回しが巧みでした。
 まず☖6五角と打って☖4六桂をみせます。☗5六歩と受けたところで☖8七角成が金取り。☗7八歩の受けに☖7六馬と引いて☖5七銀をみせます。これも☗6七歩の中合いで受かりますがそこで☖8九飛。ここで☗5八金上は☖7九飛打で先手は駒を使わなければなりません。なのでここで☗7九金打でしたが,ここに金を使ってもらえば後手は怖いところがなく悠々と☖9九飛成。
                                     
 第3図となっては先手は駒が足りなくなりました。ここは後手が勝勢に近いくらいの局面でしょう。
 3連勝で里見名人の防衛第36期,37期,38期,39期,40期,41期,42期,43期に続く九連覇で9期目の女流名人位です。

 善bonumや正義justitiaより真verumに重きを置く理由は別の角度からも説明できます。
 真理veritasが万人に共通であるのは,それを人間が認識するかしないかと関係なく,永遠aeterunusで不変なものであるからです。平面上に描かれた三角形の内角の和が二直角であることは,たとえ人間が認識しなくとも真理であり,そのゆえにだれが真に認識しようと共通に認識されるのです。これに対して善や正義は永遠不変ではなく,時間的なものです。同一の人間でさえ善と認識していたものを悪malumと認識し直すことがあり得るのですから,善や正義が永遠なものではなく時間的なあるいは持続的なものであることは明白です。そしてこうしたことは単一の人間にとって妥当するだけでなく,集団的にも妥当します。かつては多くの人びとに正義とみなされていたことが,時代の変化とともに不正injustitiaとみなされるようになるということはあり得るのです。
 たとえば地動説として主張されている事柄は,人間がそれを発見しようとしまいと,あるいは正しいと認めようと認めまいと,真理ではあるのであって,それが真理であるということは人間の認識cognitioにあたっての態度とは無関係です。しかし人類史において地動説が不正とされていた時代は確かにあったのであって,そのゆえにブルーノは火炙りに処されたのですし,ガリレイは宗教裁判においては,表面的にではあっても自説を撤回したのです。
 つまり真理が永遠に属するものであるのに対して善や正義は持続duratioに属するものであり,そのゆえに僕は真理を善や正義より重くみるのです。そしてこう価値規準を決定することは,理性ratioに従う自由の人homo liberであろうと欲する限り,自然なことと僕には思えます。なぜなら第二部定理四四系二にあるように,ものを永遠の相aeternitatis specieの下に認識することが理性の本性natura Rationisに属するからです。よって永遠の相の下にある真理を認識することは,持続的である正義や善を認識することより理性の本性に適合しているからです。かつ第四部定理二四により,それが徳virtusだからです。つまり善や正義を認識することは必ずしも徳ではありませんが,真理を認識することは必然的にnecessario徳だからです。そして第五部定理四二により,それが至福beatitudoでもあるからです。
コメント
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