スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&意志と能力

2019-09-26 19:07:51 | 将棋
 24日の第27期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は伊藤沙恵女流三段が1勝,加藤結李愛女流初段が0勝。
 振駒で加藤初段の先手となり,伊藤三段のうそ矢倉。先手の仕掛けがやや中途半端で,戦いになったあたりですでに後手の方が指しやすくなっているように僕には思えました。
                                        
 後手が5三の銀を上がって攻めに厚みを加えた局面。ここで先手は☗2四歩☖同歩と指しました。
 ☗同飛が普通ですが先手は☗2二歩と打ちました。☖同金なら先手の得ですが後手は☖3三桂と逃げました。こうされれば☗2一歩成は仕方ないところ。ただ,先手のと金と後手の桂馬は,後手の桂馬の方が働く展開になったので,このやり取りは明らかに先手の損でした。
 後手は☖4六銀☗同歩と銀を交換して☖4五桂。これが☖5七桂不成をみた厳しい手。先手はそれを避けて☗7九玉と寄りましたが☖7七歩と打たれて痺れてしまいました。
                                        
 ☗同桂や☗同金は☖5七歩成が厳しすぎるので☗同角と取りましたが,☖4六角の王手飛車が決まり,大差となってしまいました。
 伊藤三段が挑戦者に第25期以来2年ぶり2度目の三番勝負出場。第一局は11月10日です。

 ある事柄について意志voluntasがない,より正確にいうなら意志作用volitioがないということは,スピノザの哲学ではふたつの観点からいうことができるわけです。しかし,一般的にいうなら,前者の場合,すなわちある事柄についてそれを肯定する意志作用がない,他面からいえばある事柄についてそれを否定する意志作用があるという場合に,僕たちは意志があるとかないとかいうのであって,後者の場合,すなわちある事柄についてその観念ideaがないという場合には,意志がないとはいいません。僕たちは一般的にはこういう場合のことは,能力potentiaがない,とりわけ思惟的能力がない,あるいは欠如しているというように解します。
 このことは僕が妹には保険金を請求する意志がないといった場合について考えれば分かりやすいでしょう。一般的にいうなら,妹には保険金を請求する意志がないというよりは,保険金を請求する能力がないのです。ですから僕は保険会社の社員と電話で話したときには,実際には妹には保険金を請求する意志がないというよりも,そういう能力がないといういい方をしました。そしてそのような場合,つまりそのような能力がないという場合にも,その人を生命保険の受取人として指定することはできないという回答を得ています。
 スピノザの哲学における意志がないということのふたつの意味のうち,後者についてはそれを意志はないといわずに能力がないということは,実はスピノザの哲学における意志についての考え方としてさほど間違ったものではありません。というのは,ある事柄についてそれを肯定したり否定したりするのは,精神mensの力potentiaの一種であるとみなすことができるからです。すでに示したように,ある事柄について精神のうちにその観念があるのであれば,意志作用もまたあります。したがってその事柄についての観念がない場合に意志作用もないというふたつめの意味が出てくるのですが,意志作用をひとつの力であるとみる限り,意志作用があれば観念もあるのですから,観念があること自体がひとつの力だといえます。よってある事柄について観念がないというのは,それを肯定あるいは否定する力,すなわち能力がないという意味なのです。
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