昨日の第9期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は室谷由紀女流二段が1勝,西山朋佳奨励会三段が0勝。
振駒で室谷二段の先手。相三間飛車で先手が美濃囲い,後手が金無双になりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/5f/b430d8115f8b16c72113fe2e6d4f972c.png)
8六の飛車が浮いた局面。どうみるか難しいですが,後手が囲いに手数をかけなかったのが一応は生きているように思えます。作戦勝ちとまではいえないかもしれませんが,先手が狙っている▲7四歩~▲3五飛を受けておくのが無難で,少なくともそれで悪くなることはなかったように思います。
実戦は△1五歩といきなり仕掛けました。そこまでしなくてよかったと思いますが機敏ではあったようです。
▲同歩△1六歩まではこう進むところ。これは取ると香車が受からなくなりますので狙いの▲7四歩を決行しました。後手は仕掛けた以上は無視して△3六歩と突き捨てておくべきだったようです。ですが△7四同歩とすぐに挨拶したため▲3五飛を許すことに。そこで△4四角と打ったのは後手の読み筋だったようですが▲3六飛と引いて逃げられ困ったようです。
△1五香▲1八歩は後手としては気持ちのいい手順ですがそれ以上の攻めを継続できないため△3四歩と受けることに。手番を得た先手は▲1三角△1四飛▲2二角成で馬を作ることに成功。これは△2五桂▲4四馬△同歩で一時的に消せるものの▲2三角で消えることのない馬を作られることになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/b2/070e585b53c8f44096817eb6cb237397.png)
1筋は後手が一方的に得をしているかもしれませんがすぐに攻められるわけでなく,ここで先手が優位に立ったようです。
室谷二段が勝って挑戦者に。タイトル戦は初出場。第一局は来月12日です。
スピノザは第二部定理四四系二を証明するときに第一部定理一六を援用しています。これは第五部定理二二を証明するときに援用しているのと同じ定理です。そのときの証明で僕が説明したように,第一部定理一六を援用するということは,第一部定理二八や第二部定理九を援用する場合とは異なり,観念が永遠であること,この定理の場合でいえば,現実的に存在するある人間の本性を表現する観念が,持続する観念としてではなく,永遠の相の下に認識される観念でなければならないということを意味するのです。厳密にいえば,第一部定理一六だけでなく,第二部定理三もこのためには必要であるといえますが,第一部定理一六を援用するということの意図がこの点にあるということは間違いないといっていいでしょう。
だとすると,同じ定理が援用されている以上,第五部定理二二でいわれている現実的に存在する人間の身体の本性を表現するといわれる観念と,第二部定理四四系二でいわれている理性による認識によって生じる観念は,同じように永遠の相の下に認識されているのであり,このゆえにそれは同じ意味において永遠といわれる観念でなければならないと解することもできるでしょう。実際にそう解することができるという点については僕もそれを認めます。しかし各々の証明での第一部定理一六の位置付けは,異なっていると解釈する余地もあると僕は考えます。
第五部定理二二の論証で第一部定理一六が用いられているとき,これは明らかにある観念についてそれが永遠であることを示す意図が認められます。ですが第二部定理四四系二の論証での援用は必ずしもそうでなく,事物を永遠の相の下に認識するという思惟作用はいかなるものでなければならないかを説明する意図があるように僕には思えます。つまり第五部定理二二の論証で第一部定理一六は観念に対して援用されているのに対して,第二部定理四四系の方では第一部定理一六は永遠性に対して援用されていると解釈できるのです。いい換えれば現実的に存在する人間の精神も事物を永遠の相の下に認識することが可能であるということを示すために,援用されているように思えるのです。
振駒で室谷二段の先手。相三間飛車で先手が美濃囲い,後手が金無双になりました。
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8六の飛車が浮いた局面。どうみるか難しいですが,後手が囲いに手数をかけなかったのが一応は生きているように思えます。作戦勝ちとまではいえないかもしれませんが,先手が狙っている▲7四歩~▲3五飛を受けておくのが無難で,少なくともそれで悪くなることはなかったように思います。
実戦は△1五歩といきなり仕掛けました。そこまでしなくてよかったと思いますが機敏ではあったようです。
▲同歩△1六歩まではこう進むところ。これは取ると香車が受からなくなりますので狙いの▲7四歩を決行しました。後手は仕掛けた以上は無視して△3六歩と突き捨てておくべきだったようです。ですが△7四同歩とすぐに挨拶したため▲3五飛を許すことに。そこで△4四角と打ったのは後手の読み筋だったようですが▲3六飛と引いて逃げられ困ったようです。
△1五香▲1八歩は後手としては気持ちのいい手順ですがそれ以上の攻めを継続できないため△3四歩と受けることに。手番を得た先手は▲1三角△1四飛▲2二角成で馬を作ることに成功。これは△2五桂▲4四馬△同歩で一時的に消せるものの▲2三角で消えることのない馬を作られることになりました。
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1筋は後手が一方的に得をしているかもしれませんがすぐに攻められるわけでなく,ここで先手が優位に立ったようです。
室谷二段が勝って挑戦者に。タイトル戦は初出場。第一局は来月12日です。
スピノザは第二部定理四四系二を証明するときに第一部定理一六を援用しています。これは第五部定理二二を証明するときに援用しているのと同じ定理です。そのときの証明で僕が説明したように,第一部定理一六を援用するということは,第一部定理二八や第二部定理九を援用する場合とは異なり,観念が永遠であること,この定理の場合でいえば,現実的に存在するある人間の本性を表現する観念が,持続する観念としてではなく,永遠の相の下に認識される観念でなければならないということを意味するのです。厳密にいえば,第一部定理一六だけでなく,第二部定理三もこのためには必要であるといえますが,第一部定理一六を援用するということの意図がこの点にあるということは間違いないといっていいでしょう。
だとすると,同じ定理が援用されている以上,第五部定理二二でいわれている現実的に存在する人間の身体の本性を表現するといわれる観念と,第二部定理四四系二でいわれている理性による認識によって生じる観念は,同じように永遠の相の下に認識されているのであり,このゆえにそれは同じ意味において永遠といわれる観念でなければならないと解することもできるでしょう。実際にそう解することができるという点については僕もそれを認めます。しかし各々の証明での第一部定理一六の位置付けは,異なっていると解釈する余地もあると僕は考えます。
第五部定理二二の論証で第一部定理一六が用いられているとき,これは明らかにある観念についてそれが永遠であることを示す意図が認められます。ですが第二部定理四四系二の論証での援用は必ずしもそうでなく,事物を永遠の相の下に認識するという思惟作用はいかなるものでなければならないかを説明する意図があるように僕には思えます。つまり第五部定理二二の論証で第一部定理一六は観念に対して援用されているのに対して,第二部定理四四系の方では第一部定理一六は永遠性に対して援用されていると解釈できるのです。いい換えれば現実的に存在する人間の精神も事物を永遠の相の下に認識することが可能であるということを示すために,援用されているように思えるのです。