昨日の第30期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
振駒で松尾歩八段の先手。羽生善治二冠の横歩取り。先手の青野流でしたが,後手が中原囲いを目指して8五歩型に戻りました。終盤の攻め合いで先手に一失あり,それが勝敗を分ける将棋でした。
飛車金両取りを掛けていた後手が2七の角で飛車を取った局面。先手は☗4四桂と打ちました。
これは厳しい手で☖同馬☗同馬と進めるほかありません。そこで後手は☖6七香成と突撃して☗同玉に☖6九飛と打ちました。
ここが一失あった局面で正着は☗5八玉。ただ実戦の☗6八銀にも利点はあって,不運であったという気もします。
後手は☖4九飛成と金を取りました。☗6八銀のデメリットはこのように金を取られるという点にあります。ただ☗3三桂☖4二王☗1六角と王手飛車を掛けられるのはひとつめの利点。ここから☖4三歩☗4九角☖4四歩までは一本道。先手は龍は取れましたが攻めの拠点のひとつだった馬は外されることに。
☗1六角と再び使うのは当然。後手は☖3四歩☗同角と手筋で近付けて☖4三金。ここで☗2五角と逃げなければならないのが先手の泣き所で☖6九角が先手で入りました。
第2図以降,先手玉は上部に逃げていくことになります。一般的には上部脱出も利点なのですが,この将棋は後手の駒も厚く,玉を引いて金を守っておくよりメリットが少なかったようです。
2勝1敗で羽生二冠が挑戦者に。竜王戦七番勝負は第23期以来の出場。第一局は来月20日と21日です。
同じ感情affectusであると思われるのにスピノザが自己満足acquiescentia in se ipsoといったり自己愛philautiaといったりするのは,第四部定理五二と関係しているのではないかと僕は推測しています。すなわちそこでは,理性的な自己満足が存在する最高の満足であるとされています。これはある意味において,理性ratioから生じる自己満足が,人間が感じることができる最高の感情affectusであるといっているのだと解せるでしょう。これに対して高慢superbiaというのは,おおよそスピノザが人間が抱く感情として最悪のものとみているということができます。よって,最悪の感情である高慢が最高の感情であり得る自己満足の一種であるということに,スピノザには躊躇いがあったのではないでしょうか。そこで,理性的ではない自己満足についてはそれを自己愛と別の名称で示し,高慢はこの自己愛の一種であるといったのではなかろうかと思うのです。
そこで僕は,自己愛と自己満足を完全に同じ感情であると解さずに,理性的でない場合の自己満足についてはそれが自己愛といわれるというように解することにします。これはちょうど,混乱した観念idea inadaequataを内部の原因として有する名誉gloria,すなわち理性は十全な観念idea adaequataですから,これは理性的ではない名誉というのと同じことですが,それが虚名vana gloriaといわれているということと同じ関係です。ですがここでは少しいい方を変えます。第三部定理三から分かるように,理性もそのひとつである精神の能動Mentis actionesは十全な観念から生じ,受動passionesは混乱した観念に依存します。したがって,自己満足という感情および名誉という感情は,精神の能動からも生じ得ますし,受動からも同じように生じ得ます。このとき,受動から生じる自己満足についてはそれをとくに自己愛といいます。他面からいえば,自己愛とは受動的な自己満足です。高慢はこの意味において自己愛の一種です。同じように,受動的な名誉についてはそれをとくに虚名といいます。そしてこの虚名をとくに好む人間は,必然的に高慢という感情に支配されるようになります。また,高慢という感情は自己愛の一種ではありますが,虚名の一種でもあり得ます。他面からいえば,高慢という感情と虚名という感情は,重複する部分を有し得ます。
振駒で松尾歩八段の先手。羽生善治二冠の横歩取り。先手の青野流でしたが,後手が中原囲いを目指して8五歩型に戻りました。終盤の攻め合いで先手に一失あり,それが勝敗を分ける将棋でした。
飛車金両取りを掛けていた後手が2七の角で飛車を取った局面。先手は☗4四桂と打ちました。
これは厳しい手で☖同馬☗同馬と進めるほかありません。そこで後手は☖6七香成と突撃して☗同玉に☖6九飛と打ちました。
ここが一失あった局面で正着は☗5八玉。ただ実戦の☗6八銀にも利点はあって,不運であったという気もします。
後手は☖4九飛成と金を取りました。☗6八銀のデメリットはこのように金を取られるという点にあります。ただ☗3三桂☖4二王☗1六角と王手飛車を掛けられるのはひとつめの利点。ここから☖4三歩☗4九角☖4四歩までは一本道。先手は龍は取れましたが攻めの拠点のひとつだった馬は外されることに。
☗1六角と再び使うのは当然。後手は☖3四歩☗同角と手筋で近付けて☖4三金。ここで☗2五角と逃げなければならないのが先手の泣き所で☖6九角が先手で入りました。
第2図以降,先手玉は上部に逃げていくことになります。一般的には上部脱出も利点なのですが,この将棋は後手の駒も厚く,玉を引いて金を守っておくよりメリットが少なかったようです。
2勝1敗で羽生二冠が挑戦者に。竜王戦七番勝負は第23期以来の出場。第一局は来月20日と21日です。
同じ感情affectusであると思われるのにスピノザが自己満足acquiescentia in se ipsoといったり自己愛philautiaといったりするのは,第四部定理五二と関係しているのではないかと僕は推測しています。すなわちそこでは,理性的な自己満足が存在する最高の満足であるとされています。これはある意味において,理性ratioから生じる自己満足が,人間が感じることができる最高の感情affectusであるといっているのだと解せるでしょう。これに対して高慢superbiaというのは,おおよそスピノザが人間が抱く感情として最悪のものとみているということができます。よって,最悪の感情である高慢が最高の感情であり得る自己満足の一種であるということに,スピノザには躊躇いがあったのではないでしょうか。そこで,理性的ではない自己満足についてはそれを自己愛と別の名称で示し,高慢はこの自己愛の一種であるといったのではなかろうかと思うのです。
そこで僕は,自己愛と自己満足を完全に同じ感情であると解さずに,理性的でない場合の自己満足についてはそれが自己愛といわれるというように解することにします。これはちょうど,混乱した観念idea inadaequataを内部の原因として有する名誉gloria,すなわち理性は十全な観念idea adaequataですから,これは理性的ではない名誉というのと同じことですが,それが虚名vana gloriaといわれているということと同じ関係です。ですがここでは少しいい方を変えます。第三部定理三から分かるように,理性もそのひとつである精神の能動Mentis actionesは十全な観念から生じ,受動passionesは混乱した観念に依存します。したがって,自己満足という感情および名誉という感情は,精神の能動からも生じ得ますし,受動からも同じように生じ得ます。このとき,受動から生じる自己満足についてはそれをとくに自己愛といいます。他面からいえば,自己愛とは受動的な自己満足です。高慢はこの意味において自己愛の一種です。同じように,受動的な名誉についてはそれをとくに虚名といいます。そしてこの虚名をとくに好む人間は,必然的に高慢という感情に支配されるようになります。また,高慢という感情は自己愛の一種ではありますが,虚名の一種でもあり得ます。他面からいえば,高慢という感情と虚名という感情は,重複する部分を有し得ます。