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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不利な状況&設問の主旨

2021-09-04 19:01:50 | 将棋トピック
 三浦九段に不自然な離席があったということについては,僕は当時も今も同じように考えています。そしてこの点について,三浦九段に非があったと考えている点でも,当時と今とで僕の考えは変わりません。ただそうした不自然な離席に対して合理的な説明というものがそもそもあり得たのかという観点は,当時の僕には欠落していました。他面からいえば,僕は文字通りに三浦九段は身体を休めるために離席をしたのだと理解していましたし,それが離席の理由であれば,合理的な説明にはなっていないと調査した棋士たち,つまり将棋連盟の当時の執行部の棋士たちは判断したというように理解していたのです。吟味は当時の状況に沿って行われるものなので,とりあえずここでは当時の僕のその判断に沿った形で説明します。
 不自然な離席があったということと,それに対して納得させ得る説明をできなかったということは,三浦九段にとって不利な状況であると当時の僕は考えていました。さらにもう一点,その理由が何であれ,実際に処分が下されたということも,僕が当時の状況ですべてを判断するためには,三浦九段にとって不利な状況でした。なぜなら,処分を下すのであれば処分を下すだけの材料というものがなければならないので,実際に処分が下されたということになると,将棋連盟の執行部の側には何らかの証拠があるというように思われたからです。
 三浦九段にとって不利とみられる事柄は,僕にとっては以上の2点だけでした。しかし僕は,三浦九段がコンピューターによる援助を受けているということを否定するという考え方は変えませんでした。いい換えればこれらの2点は三浦九段にとって不利な材料ではあるけれども,僕が直観的に判断したこと,つまり三浦九段がそういうことをするのがきわめて非合理的なことをなすということである上に,それとは別の事情によって三浦九段が非合理的なことをするという蓋然性がそもそも低いので,実際に三浦九段は指し手の援助をコンピューターから受けていないという考え方を変更するには至らなかったのです。なぜこれらの材料が,僕の考え方を変更させることはなかったのかということを,これから詳細に説明していくことにします。

 僕は近藤の学習方法を,第二種の認識cognitio secundi generisを蓄積していくことによって,第三種の認識cognitio tertii generisが働くagereようになるという観点から重点的に説明しました。近藤がなした作業は,問題を読んだらすぐに答えを見て,その説明からいかにして答えが導かれるのかという解説を読んで理解するということでした。この作業の中で,第二種の認識の蓄積のために役立つのは,解説を読んで理解するという点にあります。というか,その点こそすべてであるといっても過言ではないでしょう。だから近藤の学習方法のうち,最も重要なのがその点にあるというのは間違いありません。しかしそれがすべてであるかといえば,僕はそうではないと考えます。それが僕の指摘しておきたい点です。僕の考えでは,問題を読むということも,重要なのです。ここでいう読むというのは,解説を読むというのと同じように,その意味を理解するということです。つまり僕は,問題を読んで理解すること,いい換えれば設問の主旨を理解するということも,第三種の認識でその設問を解答するために,重要な要素を構成する,少なくとも構成する場合があると考えているのです。近藤はそのことを意識していたかもしれませんが,それについては自覚的ではなかったかもしれません。なので僕からこれを指摘しておきたいのです。
                                        
 なぜ問題の意味を理解するということが,第三種の認識で設問に解答するために重要である場合があるのかといえば,たとえそれが数学の問題であったとしても,僕たちはその問題の意味を正しく理解するというだけで,とくに考えずとも直観的に答えることができる,つまり第二種の認識に頼らずとも第三種の認識で答えることができるという場合があると僕は考えているからです。そのために,ここではそういう実例をひとつあげることにしましょう。ただしこの実例にはふたつの条件が必要です。
 まず,設問それ自体は数学の問題でなければなりません。これは数学の問題の場合を実例とするのですから当然です。もうひとつは,第三種の認識は第二種の認識の蓄積によって生じるのですが.このときに蓄積される第二種の認識が,数学に関連するような知識であると意味がありません。
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合理的な説明&効果

2021-08-27 19:12:46 | 将棋トピック
 僕は三浦九段が対局相手に疑義を与えるような不自然な離席をしたということは事実だと判断していました。このことは実際に告発が行われたことから明白だと判断したからです。また,その離席について三浦九段が,告発した棋士や調査した棋士を納得させるような合理的な説明をできなかったということも事実だったと判断していました。これも,その理由はともあれ,実際に処分が下されたということから明らかだと判断したからです。しかし,三浦九段に合理的な説明があり得たのかということについてはあまり考えませんでした。不自然な離席と合理的な説明について言及する場合,このケースに妥当する場合についても考えるべきなのであって,それについて考えなかったのは明らかに僕の落ち度であったと今は考えています。
 僕は三浦九段が対局相手に疑義を与えたというだけで,三浦九段自身に非があったといいましたし,現在でもそう考えています。しかし一方で,三浦九段がルールを犯したとは判断していませんでしたし,これについても現在でも同様の判断です。このとき,ルールに違反していないような離席について,合理的に説明することは,最初から無理であったという可能性を考えておかなければなりません。
 離席することが棋士の自由に委ねられている以上,棋士は何か特別な理由がなくても離席するという場合がある筈です。そのことについて後に離席の理由を尋ねられたとしても,曖昧にしか答えられないのは当然です。つまり,離席の理由を問われた場合の答えとしては,実際に三浦九段がそうしたように,身体を休めるためとか,あるいは気分をリフレッシュするためといったような,茫洋とした答えしかあり得ないとも考えられるのです。
 僕は三浦九段の解答,すなわち身体を休めるためという理由を,それが事実であると前提してすべてを判断していました。ですが実際にはそうではなく,離席の理由を問われた三浦九段は,そこに明確な理由があったわけではないので,とりあえず理由になりそうなことを答えたのにすぎなかったのかもしれません。もちろんこれもそうであったと断定できるものではありませんが,離席の理由に対する三浦九段の解答を,そのまま真に受けるのは実は危険かもしれないということは,その時点で考えておくべき事柄でした。

 近藤の学習方法が特別なもの,あるいは独自のものであったのは間違いありません。しかしこの学習方法を繰り返しているうちに,近藤は問題を一瞥しただけで答えを導き出すことができるようになったのですから,効果は覿面であったといえます。実際に新しい単元なり分野なりに入ったばかりの時点で行われるテストは,近藤には敵わない相手,再び近藤の表現を借りれば頭のキレる子がいたのですが,その分野や単元が終了した時点で行われるテストでは,近藤はだれにも負けませんでした。つまり近藤はこの独自の学習方法を継続することによって,だれよりも数学,もう少し限定的にいえば,数学のある分野なり単元なりについて,それをこなすことができるようになったのです。
                                        
 このときに近藤の知性intellectusのうちに生じた現象について,スピノザの哲学の文脈から僕が説明します。
 近藤の学習方法は,問題を読んだらすぐに答えを見て,その答えがいかに導かれるかという解説を読むということを繰り返すものでした。このとき,読むというのは,文字通りにその文章を読むということを意味しているわけではなく,それを理解するということを意味しています。近藤は単に解説を読むとしか記述していませんが,実際に近藤がなしていたことは,それを理解するということだったと断定してよいと思われます。
 数学の問題からある答えがいかにして導かれるかという解説は,合論理的に書かれている筈です。これは数学というのが合論理的な学問であるということから明白でしょう。よってそれはスピノザの哲学でいえば,第二種の認識cognitio secundi generisに基づいて書かれているということになります。スピノザの哲学でいう第二種の認識は,共通概念notiones communesに基づく理性ratioによる認識のことですが,合論理的な認識というのはすべてそれに該当します。あるいは,数学というのが合論理的な学問であるという点に注意するなら,数学というのがそもそも第二種の認識に基づいた学問であるということができます。なのでその解説が第二種の認識に基づいて書かれているというのは,スピノザの哲学の文脈からは,きわめて当然であるとか,あるいはそれ自体で明らかであるといえることなのです。
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不自然な離席&生命保険

2021-08-21 19:08:57 | 将棋トピック
 約束しておいた通り,吟味を先に進める前に,不自然な離席と合理的な説明という記事で書いたことの意味を,詳しく説明しておきます。
 まず,最初に書いてあるのはその記事が書かれた時点での判断材料です。繰り返しになりますが,こうした判断材料だけが,後に吟味を進めていく上でも役に立ちます。
 第三段落と第四段落,すなわち非合理的な離席について述べているのは,一般論です。したがって,三浦九段がこの要件に該当すれば三浦九段の離席は非合理的な離席になるといいたいのではありません。だれであれこの要件を満たす離席をする棋士がいれば,その棋士の離席は非合理的な離席とみなされるということを意味しています。同様に,三浦九段の離席がこの要件を満たしていなければ,三浦九段の説明は合理的であるということをいいたいのではなく,一般にこの要件を満たさないような離席については,非合理的な離席であるとは認めないということを意味しています。この点は現時点でも同じ考えです。
 第五段落で,三浦九段に非があるといっている点も,僕は現在でも同様に考えています。ただしこの点はこの記事でもいわれている通り,職業観に由来するものですから,争うことはしません。たとえそのような離席をしていたとしても,三浦九段には非はないという見解もあり得るということには同意します。その後に処分について述べている部分については,どのような処分が妥当であるかということについては判断しないといっていますが,実際には厳重注意のような処分はあるべきだといっていることから容易に類推できるように,もしも実際の処分,すなわち2016年中の対局を不戦敗にするという処分が,離席に対するものであったとすれば,重すぎると僕は考えていました。このことは将棋連盟の対応に対する疑問とリンクしています。つまり挑戦者決定戦第三局を秘密裏に監視するくらいなら,事前に注意という処分を与えておくべきだったと僕は考えていたのです。
 一方,処分の理由は三浦九段が休場届を提出しなかったことに対するものだとも考えられましたので,残りの部分ではそれについても言及しました。この内容についてはとくに説明する必要はないでしょう。また最後の部分で処分の内容について判断しないといっていますが,僕はこれが処分の理由であれば処分は不当であるという考えに傾いていますので,処分が正当である場合についていっていることに何か大きな意味があるわけではありません。

 4月17日,土曜日。妹の新しい受給者証が送付されてきました。これは4月1日に報酬の改定というのが実施されたことに伴うものです。したがって妹の受けるサービスに何か変更があったというわけではありません。福祉サービスを受けている横浜市民のすべての方が,この時期に新しい受給者証を受け取ったということだと思われます。
 4月19日,月曜日。妹を通所施設に送りました。僕は受給者証はグループホームに預けてありますので,17日に送付された新しいものについてはこの日に持参しました。合わせて,それまでのものについては廃棄してもらうように依頼しました。
 4月21日,水曜日。午前10時半に新任のファイナンシャルプランナーの来訪を受けました。この日は挨拶をした後,ちょっとした商品の説明があっただけです。面会時間も10分ほどでした。
 神奈川県は緊急事態宣言は解除され,蔓延防止措置に移行することになりました。これに伴い,この措置が適用された後の通所施設およびグループホームの方針についての説明が,この日に郵送されてきました。
 4月22日,木曜日。前日に来訪したファイナンシャルプランナーから電話がありました。実は僕の方からひとつ相談したことがりまして,その解答でした。
 僕が相談したのは生命保険のことです。の死後,僕は適切な受取人がいなくなったため,生命保険を解約していました。ですが結局のところ,妹に成年後見人を立てて,その人を受取人に指定する以外に方法はないということでした。これも前にいいましたが,現状は不要なので僕は成年後見人を妹には立てていません。身元引受人という立場で,僕がすべての責任をもっています。責任をもっているというのは,たとえば妹の必要な書類にサインするときの立場がそれであるというほどの意味で,ほかに深い意味はありません。成年後見人を立てると,そうした書類に成年後見人のサインも必要になります。ですからもし成年後見人を立てることが必要になるなら,僕が成年後見人になるのが現状はベストです。しかし僕が僕の生命保険の受取人にはなれません。よって僕は生命保険に新たに加入することはできませんでした。
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吟味&三者面談

2021-08-15 19:22:16 | 将棋トピック
 三浦九段がきわめて非合理的なこと,すなわち対局においてコンピューターから指し手の援助を受けるということは,それ自体として蓋然性が低いということは分かりました。とはいえ蓋然性が低いということはそれがゼロであって,絶対にそれをしないということとは異なります。よって蓋然性が低いということを前提とする必要はありますが,吟味をする必要はなお残るのです。ですからここからはその吟味をしていくのですが,これについては次のことに注意しておいてください。この吟味は,処分が発表された後で僕が吟味したことを意味するのであって,現時点で改めて吟味をするというわけではありません。というか現時点では三浦九段がコンピュータの援助を受けていなかったということは明らかになっているのですから,吟味をし直す必要はありません。したがって,これから書いていくことは当時の僕の吟味についてですから,当然ながらその時点で僕が知り得ていた情報だけを用いて吟味することになります。他面からいえば,現時点で明らかになっている事柄のすべてがこの吟味のための材料として有効であるというわけではありません。この点にくれぐれも注意しておいてください。
 まず,三浦九段にとって不利になるような状況をいくつか吟味しておきます。第一の点として,三浦九段が対局中に,相手に不自然である,具体的にいえばコンピューターの援助を受けているのではないかと思われるくらいの頻度で離席していたことは事実です。また処分が発表される前の聞き取り調査に対して,この点について合理的といえる説明ができなかったということも事実です。これについて詳しくは,不自然な離席と合理的な説明とは何かということを僕はこのときの竜王戦のことを書いた直後に記していますので,それを参考にしてください。
 ところで,これは余談になるかもしれませんが,僕の推測では,抗議の根拠となっているのはこの記事です。というのも,この記事というのは確かに三浦九段にとって不利であると読めるような内容になっているからです。そしてそのように読むことができる記事というのはこれだけだと僕には思えるからです。
 この記事が三浦九段に対して不利になるように読めること自体は僕も認めます。なので次回は吟味を進める前に,この記事の意図を説明することにします。

 2月25日,木曜日。午前10時45分に施工業者から電話がありました。24日に振り込んだ代金の入金が確認されたという内容でした。これで今回の工事は全面的に終了ということになりました。
 2月26日,金曜日。妹を迎えに行きました。この日は待機日に該当していましたので,グループホームに迎えに行きました。
 3月1日,月曜日。妹を送りました。この日は出勤日ですから通所施設への送りになりました。
 3月4日,木曜日。三者面談の報告書が郵送されました。通所施設のものとグループホームのものの2通の書類です。通所施設の担当者,グループホームの担当者がそれぞれ妹と面談して決定された内容です。
 3月5日,金曜日。前日に郵送された書類は,僕のサインが必要なものです。この日のうちにサインを入れて郵送しました。これで2020年度の後期の三者面談は終了です。ですから三者面談となっていますが,実際には二者面談が行われ,その報告書に保護者が同意するという形式で,実際に三人での面談が行われるわけではありません。すべての利用者の三者面談がこのような方式で行われたということになります。これは2020年度の前期の三者面談も同様でしたし,まだ先のことになりますが,今年度の前期の三者面談もこれと同様の方式で実施されました。
 3月11日,木曜日。お寺の奥さんからの郵便物が届きました。これはこの後に行われることになっていた彼岸会の案内でした。
 午前10時40分に,グループホームの妹の担当者のSさんから電話がありました。これは緊急事態宣言の延長に伴っての,この週と翌週の迎えと送りについての連絡事項でした。
 午前11時30分にお寺の奥さんから電話がありました。これは彼岸会の確認です。彼岸会では塔婆を出してもらいますので,その依頼はこの電話でしました。
 さらに午後4時55分に,証券会社のファイナンシャルプランナーから電話がありました。以前に個人年金を依頼した方です。これはこの方が退職することになったという報告でした。
 3月12日,金曜日。妹を迎えに行きました。この日もグループホームへの迎えでした。
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蓋然性&家屋の基礎部分

2021-08-08 19:01:04 | 将棋トピック
 人間は著しく非合理的なことはしない,とか,人間はきわめて非合理的であると知っている事柄はなさない,といった言明は,真verumではなく偽falsitasです。ただし,この言明が偽である蓋然性というのは事象によって異なります。ですから個別の事案に関してこうしたテーゼとの関連を吟味する場合には,一律にこういった命題が真ではないということだけを援用することは無意味であって,それが偽になり得る蓋然性の大きさがどの程度であるのかということを見極めなければなりません。三浦九段にとって,対局にあたってコンピューターに指し手の援助を受けることは著しくリスクが高い行為であるということについて吟味する場合にも,まずはこのことを考えておく必要があります。
 たとえば,三浦九段が自身の棋力の衰退を強く感じていたなら,上述の命題が偽となる蓋然性はそれだけ高くなります。逆に,三浦九段がそうしたことについて何も不安metusを感じていなかったら,これらの命題が偽となる蓋然性はきわめて低くなるでしょう。もっともこうしたことは三浦九段本人でなければ分からないことですから,僕が処分に関して第三種の認識cognitio tertii generisで認識した事柄を吟味するにあたって,役立つような情報ではありません。ただ,三浦九段がリスクの高いきわめて非合理的な行動をする場合があり得るということについて,それはあり得るといっても,あり得る度合いには差異があるということは重要ですから,ここではこの観点についても言及しておきました。
 さらにこの事案の場合には,別の要素が作用します。そもそも三浦九段が自身の棋力について不安を感じているか感じていないかに関わらず,さらにいえば,そうした行為がリスクの高い行為であるか否かということとも関係なく,自身の棋力,あるいは棋力に限らず広く自身の力potentiaといってもいいですが,自身の力以外の力を用いることによって一局の将棋を指すということは,それ自体が卑怯であるとか,それ自体が倫理にもとるというような思惟作用が三浦九段の知性intellectusのうちに生じ得るからです。こうした思惟作用が強く生じる場合は,そもそもコンピューターから援助を受けようという発想すら発生し得ないという場合があるのであって,こうした事象も勘案するなら,この事案に関しては,三浦九段がきわめて非合理的なことでもそれをなすという蓋然性も,きわめて低下することになるのです。
 よってこの事案について吟味するためには,元来から三浦九段がそれをなす蓋然性が低いということを,まず前提しておかなければならないでしょう。

 午後8時前に,ピアノの先生に電話をしました。翌週にピアノのレッスンが予定されていたのですが,それを中止にしてもらう要請です。緊急事態宣言が発出され,妹の移動についてはなるべく控えてほしいと求められていました。この週は眼科の通院がありましたから迎えに行ったので,翌週の迎えについては控えることに決定していたのです。妹が帰宅できなければ当然ながらレッスンはすることができません。よって1月のレッスンは中止ということになりました。最初の緊急事態宣言が発出されたときにも,同じような事情からレッスンが中止になったケースがありましたので,詳しい事情については先生に話すまでもありませんでした。
 1月18日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 1月20日,水曜日。歯科検診でした。午前10時の予約。この日もクリーニングをしただけです。大抵の場合,クリーニングは歯科技師が行います。ですがこの日は医師の手によるものでした。おそらく緊急事態宣言が発出されていたので,出勤する歯科技師の人数も減っていたためだと思われます。
 帰宅後,正午過ぎにお寺の奥さんから電話がありました。これはお寺の維持費に関連するものです。11月の電話で奥さんが退院してすぐであったということは伝えられていましたが,その後は連絡がなかったので,今年の維持費に関してはまだ渡していませんでした。緊急事態宣言が発出されたこともあり,僕の家に来るのは難しそうなので,2020年の収支の報告書と,2021年分の振込用紙を送付するとのことでした。このうち,報告書はすぐに送られてきたのですが,その郵便物に振込用紙は入っていなかったので,今年分の支払いはまだ先のことになりました。
 1月21日,木曜日。2月からの妹の受給者証が役所から送付されてきました。
 1月22日,金曜日。14日に電話があった建築会社のハウスドクターに外壁の点検をしてもらいました。外壁の塗装に関しては現時点でも問題はないとのことでしたが,家屋の基礎部分が全体的に弱化して,ひびが入っている部分もあるので,補強した方がよいのではないかという指摘を受けました。
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非合理的なこと&通院の間隔

2021-08-03 19:13:38 | 将棋トピック
 三浦九段が対局においてコンピューターから指し手の援助を受けることは,きわめてリスクの高い行為であって,実際にそれをするとしたら著しく不条理なこと,あるいは同じことですがきわめて非合理的なことをしていることになるということを,僕は第三種の認識cognitio tertii generisとして認識しました。ただしこのことを現実的にあった疑惑に対して適用する際には,注意しなければならないことがあります。
 第三種の認識は直観scientia intuitivaといわれるものですが,それ自体が論証Demonstratioを含んでいるので真の認識です。だから僕が認識した事柄が十全な観念idea adaequataであったことは間違いありません。同様に理性ratioによる認識,すなわち第二種の認識cognitio secundi generisもまた真の認識です。だから再構成という方法であるとはいえ,第三種の認識で認識した事柄について,それを第二種の認識に基づいて説明するということが,一般的に可能になるのです。そしてこの方法によって説明すれば,僕が第三種の認識で認識したことが真verumであるということ,あるいは十全adaequatumであるということは,だれにでも理解してもらうことができるのです。いい換えれば,僕が処分の発表を知ったときに,第三種の認識によって認識したことが,十全な認識であったということは,すべての人に理解してもらえたでしょう。
 ただし,僕が認識したのは,三浦九段あるいは三浦九段と同じ程度の実績と棋力をもつ棋士が,コンピューターの援助を得て対局を行うということは,きわめて非合理的で不条理だということなのであって,三浦九段がそれをしなかったということではないのです。もしこのふたつの事柄が同じ意味をもつのなら,三浦九段はきわめて非合理的で不条理なことをしないということが前提されなければなりませんが,この前提が真であるか偽falsitasであるかといわれれば,それは偽なのです。このことは一般論から帰結します。つまり,現実的に存在する人間はきわめて非合理的なことをなさないとか,現実的に存在する人間はきわめて非合理的であると確知している事柄をなさないといった言明は,いずれも偽なのです。他面からいえば,それがどんな非合理的なこと,あるいはそれはきわめて非合理的であるということを知っている事柄であったとしても,人間はそれをなす場合があるのです。
 よって,現実的なある事象について,このことを適用して何かを考えるのなら,与えられた条件についてさらに吟味する必要があります。よって僕がどのように吟味したのかも説明しておく必要があるでしょう。

 12月16日,水曜日。新しく設置することにした換気扇の見積もりの日がこの日でした。どのタイプのものを設置するのかを決定し,施工の日時もこの日に決定しました。支払いの方法についても尋ねましたが,これは口座振替にしてほしいとのことでした。口座振替にすると手数料が必要になりますので,僕は現金での支払いの方がよかったのですが,口座振替のみでしたので,これは仕方がありません。
 12月17日,木曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
 12月18日,金曜日。妹の本牧脳神経外科への通院でした。この通院がありましたので,この週は木曜に妹を迎えに行ったのです。この日は診察をして,処方箋を出してもらっただけでした。
 12月21日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 午後は内分泌科の通院でした。
 内分泌科の通院は,現在は概ね1ヶ月に1度の頻度になっています。11月の通院は30日でした。僕の通院は,必ず月曜日です。1度だけ木曜日に通院したことがありましたが,これは月曜日に患者の数が多くなってしまい,やむなく木曜日に振り分けられたものであって,例外です。12月は28日が最後の月曜日で,みなと赤十字病院はこの日までは平常の診察を行っていましたので,11月の通院からの間隔だけでいえば,28日になるのが自然でした。実際に次の通院の日は,診察の最後に主治医と相談して決定するのですが,11月のときにはまず28日を打診されました。しかし28日は,妹の冬休みの開始の前日だったので,冬休みを家で過ごさせるために妹を迎えに行くことになっていました。なので僕の方から1週早めるように依頼し,この日の通院ということになりました。
 月曜日は,それが平日,つまりみなと赤十字病院で通常の診察が行われる日で,妹が家にいる場合は,午前中は妹を通所施設に送ることになります。僕は妹の送迎にはバスを使っていますが,通院の日は帰りは電車を使います。電車を使った方が少し早く帰ってくることができるからです。
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リスク&小型化

2021-07-29 19:11:22 | 将棋トピック
 それでは処分が発表されたとき,疑惑そのものについて僕が判断した理由を説明していきます。あくまでもこれは再構成であるといいう点には,くれぐれも留意しておいてください。
 三浦九段は棋戦に優勝したこともありますし,タイトルを獲得したこともあります。つまり棋士として大きな実績を残しています。またこの当時,三浦九段は順位戦ではA級に在籍していました。つまり一定の棋力は明らかに保持していたのです。
 そこで,一般にこうした棋士が,一局の将棋に関してコンピューターから指し手の援助を受けると仮定しましょう。この場合,その将棋に勝利するということに関しての利益は確かに得られると思います。ただ,三浦九段の棋力からすれば,そうした援助を受けずとも,一定の成績は残すことができると予想されますから,すべての将棋に関してその利益が得られるというものではありません。一方,そうした援助を受けているということが発覚した場合には,現在の地位も過去の実績もすべてを失うことになるだろうということが,容易に予見されます。したがって,そのことによって得られるであろう利益と,そのことによって失われるであろう損失の大きさを比べれば,後者の方が圧倒的に大きくなります。つまり,三浦九段に限らず,三浦九段と同等の棋士が,一局の将棋を勝つためにコンピューターの指し手の援助を受けるということは,あまりにリスクが高すぎる行為なのであって,もしそれを実行するなら著しく不条理な行為をなしているということになるのです。
 もちろんこのことは,指し手の援助を受けるということが発覚しないということについて,何らかの確信をもつことができる場合には成立しません。しかしそのような確信をもつことができる根拠は何もないでしょう。
 僕は基本的に,上述したようなことを第三種の認識cognitio tertii generisによって認識したということになります。気を付けてほしいのは,第三種の認識というのは論証Demonstratioそのものなのですから,具体的にこの論理的思考が僕の知性intellectusのうちで働いたというわけではありません。この点には注意しておいてください。
 ただしこれは論理的な事柄なのであって,現実的に妥当するというわけではないことも確かです。

 11月28日,土曜日。気掛かりだった妹の生理はこの日から始まりました。
 11月30日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 午後は内分泌科の通院でした。
 この日も予約は午後2時半だったのですが,病院に到着したのは2時25分でした。中央検査室では待機している患者はいなかったのですが,おそらく採血をする技師の都合ですぐには呼ばれませんでした。なのでまず注射針の処理を済ませてから採血をしました。採尿はトイレに行く必要があり,その場を離れなければならないので,後回しにしました。
                                   
 もうこの時点で診察の予約時間は過ぎていましたので,すぐに内分泌科の受付に向いました。そこで,血糖値測定器が新しいものになると告げられました。その測定器は,サマリーを受け取るのと同時に受付で受け取りました。変更になったのは測定器と測定するためのセンサーで,血液を抽出するための注射器と針は従来のものと同じです。大きさでいうと測定器は大きくなり,センサーは小さくなりました。小さくなると,抽出する血液がこれまでより少なくて済むことになります。ではいいことばかりかというとそうでもありません。一般的に物というのは小型化すると,使い勝手は悪くなるからです。たとえばセンサーというのは元から小さなものであって,それがさらに小さくなるのですから,1枚のセンサーを出すためにその分だけ手間取ることになってしまうのです。こうしたことは器用な人には問題にならないことでしょうが,僕にとってはそんなに小さなことではありませんでした。これもまた一般的にいうと,年齢を重ねていけばいくほど,物が小型化するということは必ずしもいいことばかりではない場合が増えていくのではないかと思います。
 なお,血糖値測定器というのは,買い取っているものではなく,借り受けているものです。ですからこの日まで使用していた測定器は,このときに受付に返却しました。正確にいうと,測定器はサマリーを出すために受付に提出します。この日もそのようにしましたので,サマリーを受け取るときに新しい測定器の方を受け取り,古いものはそのまま僕に返されなかったという形になります。
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再構成&精神の機能

2021-07-14 19:16:07 | 将棋トピック
 処分の発表があった時点で,僕はふたつのことを思いました。ひとつはこの処分に至るまでの将棋連盟の対応に関してです。そしてもうひとつがこれから説明する,疑惑そのものへの合理性です。
 ここで疑惑というのは,三浦九段が指し手に関してコンピュータから援助を受けているということを指します。僕はこのことについては,そのようなことはあり得ないとか,それが事実であるとは考えにくいというように思いました。ただこれは,直観的にそのように思ったということです。その理由のひとつは,連盟の対応がそもそも疑問であり,また処分の理由が,疑惑そのものに対してではなかったということにあります。しかしこれは副次的なものであって,僕がそのように思った最大の理由とは異なります。ですがその理由を述べる前に,気を付けておいてほしいことがあります。
 スピノザの哲学では,直観scientia intuitivaとは第三種の認識cognitio tertii generisのことを意味します。まさに僕はこのとき,第三種の認識として,疑惑が真実であるとは考えられない,いい換えれば,三浦九段はコンピュータの援助を受けて対局していないと思ったのです。このとき,第三種の認識というのは,第五部定理二三備考にあるように,証明demonstrationesそれ自体であるので,何らかの論理的な思考が僕の知性のうちに発生したというわけではありません。しかしそれでは理解が得られないでしょうから,僕の精神の眼Mentis enimがなぜ僕にそのように教えたのかということを記述していきます。いい換えればこのときの第三種の認識を,第二種の認識cognitio secundi generisに基づいて記述していきます。
 ですがこの記述は,ここまでの説明から明らかなように,現時点での再構成ということになります。これは一般的にいえることなのですが,あるときにある人間が第三種の認識によって認識した事柄を,一定の時間の経過の後に第二種の認識によって説明すると,それは必ず再構成になるのです。つまり第三種の認識がなされた時点で,実際に後に説明されるような第二種の認識が発生していたというわけではないのです。なのでこのことについては,その点に必ず留意しておいてください。

 ここまでみてきたことから分かるように,スピノザが精神mensを解するときにつけている留保条件は,たとえば人間の精神mens humanaと馬の精神の間にある機能の差異より,能動的な精神と受動的な精神の間にある差異に主眼が置かれています。したがって,能動的な馬の精神と受動的な人間の精神を比較するという仮定をすれば,より有能な精神は,人間の精神よりも馬の精神であるということになります。もちろんこの仮定が,現実的に何らかの意味をもつのかといえば疑問符をつけざるを得ないのですが,論理的な観点から結論するなら,このようなことになると僕は考えます。
                                             
 したがって,第三部定理五七備考でスピノザが情欲libidoや感情affectus,満足や楽しみついて語っていることが,社会的結合にも妥当すると僕は考えます。ここではそうした満足や楽しみを感じているのは精神であるといわれていて,精神というのは構造主義的な観点から,すべてのものが有するからです。よって,人間が人間らしい情欲に駆られるように,人間は人間らしく社会的に結合するし,馬が馬らしい情欲に駆られるように,馬は馬らしく社会的に結合するのです。同様に,三角形は三角形らしい情欲に駆られ,三角形らしく社会的に結合するというべきでしょう。もちろん三角形が情欲に駆られるとか,三角形が社会的に結合するということは,現実的に何らかの意味を有するわけではないでしょう。しかし第四部定理三五が人間が社会的結合をするということの基礎となるというのであれば,これはこれで社会的結合のモデルについて語っているのですから,馬についても三角形についても同じことが該当します。いい換えれば,もし現実的に存在するすべての馬が馬の理性ratioに従う限りにおいては,すべての馬の本性naturaは一致するでしょう。よってそれを基礎として,現実的に存在する馬は社会的に結合することになるでしょう。同様に,もしも現実的に存在するすべての三角形が三角形の理性に従うのであれば,それらすべての三角形の本性は一致することになり,このことを基礎として三角形は三角形らしい社会を組織することになるのです。ゆえに,この場面では人間中心主義より,本性中心主義を僕は重視します。
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告発&備考の意図

2021-07-08 18:55:07 | 将棋トピック
 今回の連載では,抗議に対して解答することが主目的ではありますが,それよりも幅広く,このときのことに関連した出来事について記述していきます。処分および対応について書いたときに,疑惑についての告発があったことを指摘してありますので,今回はそのことについて書きます。というのも,三浦九段の疑惑が晴れた後に,告発をした棋士に対して非難が浴びせられるということがあったからです。
 僕はこのような非難はまったくお門違いのものだと考えます。僕は告発した棋士たちが,後に僕が述べるような仕方で考えれば,告発には至らなかった可能性はあると思います。ただ,対局相手からみて三浦九段が不自然に離席をしていると感じる事実はあったのですから,このことについて告発するというのは,その棋士にとって自然権の一部である表現の自由を行使したにすぎないと僕は考えるからです。とくに僕は,人間的自由には受動的自由も含まれると考えていますので,この場合の表現の自由は,そうした受動的自由の一部として守られなければならないと考えるのです。他面からいえばこうした行動を非難するのは,単に他者の自然権の侵害であると僕は考えます。責任はもっぱら告発を受けた側の対応にあるのであって,告発した側にあるのではありません。
 もちろん表現の自由を隠れ蓑にして,悪意をもって他者を陥れたり傷つけたりする行為は,むしろ表現の自由を危機に陥れる行為であって,そうした行為が非難を受けるのは止むを得ない面もあると僕は考えます。ですがこの場合は,確かに事実として不自然と感じられる離席はあって,この離席の表象像がコンピューターによる指し手の援助の表象像と連結しても不自然ではありません。そして告発者はそれを外部に漏らしたのではなく,内部に告発して対応を求めたのですから,自然権の行使をまったく逸脱していないのです。もしこのような行為を禁じれば,むしろその組織は腐敗していくだけでしょう。
 したがってこの件について,誤った結論を出して三浦九段を処分した人たちが批判されるのは当然としても,告発した人たちを批判するのはお門違いであると僕は考えます。

 僕は第三部定理五七備考でいわれていることは,非理性的動物だけに妥当するわけではなく,動物ではないすべての物体corpusに対しても成立すると考えます。これは,たとえスピノザがそのようなことをこの備考Scholiumにおいて意図していなくても,成立すると考えるということです。動物ではない物体について,それが感情affectusをもつとか,その本性naturaに満足して生きそれを楽しんでいるというのは,それ自体では不条理であるということは僕は認めます。他面からいえば,ある種の物体が感情をもたないということ,いい換えれば感情をもたない物体が現実的に存在するということは僕は認めます。ですが論理上は,すべての物体が感情を有し,各々の本性に基づく満足を得てそれを楽しんでいると解する方が,スピノザの哲学を正しく理解するためにはよい方法だと僕は考えているのです。
                                   
 このことはスピノザがこの備考の中で,非理性的動物が満足している生と楽しみを,その非理性的動物の観念ideaすなわちその非理性的動物の精神mensと等置していることを根拠とします。前に簡単にいっておいたように,スピノザの哲学では精神というのは,何らかの機能を意味するものではありません。いい換えれば機能主義的な意味からスピノザの哲学の精神の何たるかを判断することはできません。むしろ精神とはある構造を意味するので,構造主義的な観点から解する必要があるのです。そしてそれは,原理的には次のような構造を有します。
 第二部定理七系により,ある事物が形相的にformaliterすなわち知性intellectusの外に存在するなら,その形相的有esse formaleの観念というのが存在します。ここではすべての形相的有について考える必要はありませんから,ある物体が現実的に存在するなら,その物体の観念もまた現実的に存在するということだけを理解するだけで十分です。このとき,現実的に存在する物体をAとすれば,AとAの観念の秩序ordoと連結connexioは一致します。第二部定理七が意味しているのは,観念と観念対象ideatumの秩序と連結は一致するということであり,Aの観念の観念対象はAにほかならないからです。
 このときに,AとAの観念は同一個体であるといわれます。一般に観念と観念対象は同一個体であるからです。
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対応&優劣

2021-07-03 18:59:21 | 将棋トピック
 処分が発表されたときに僕が考えたことを詳しく説明していきます。まずはこの間の,日本将棋連盟,とくに執行部の対応に関してです。
 この発表からは,竜王戦の挑戦者決定戦が行われる以前に,三浦九段に対する疑惑が,執行部には伝えられていた筈だと思えました。これは後に判明したことですが,第三局では三浦九段の行動が秘密裏に監視されていたのですから,少なくとも第三局の前に執行部が疑惑を把握していたことは確実で,僕が推測したことは,完全ではなかったかもしれませんが,的外れではなかったことになります。
 僕がこれに関して思ったのは,それならなぜ挑戦者決定戦の前に,三浦九段に聴取をするなり行動に対する注意をするなりしなかったのかということでした。さらに,第三局が指されてから1ヶ月も経過した後に聴取をして,その聴取だけでいきなり処分を下すということも疑問に感じられました。僕はこのことを合理的に説明できるとすれば,竜王戦の第一局が迫っていたからだとしか考えられませんでしたので,竜王戦の処分に関する記事の中では,そのような主旨のことを記述したのです。
 この推測については誤りであったということが後に判明しています。執行部がこの時期に処分するに至ったのは,この疑惑についての報道が週刊誌に掲載されるということが明らかになり,そのことを心配した棋士が執行部にその事実を伝えたからでした。処分に関する記事の中で,僕は当時の渡辺竜王が聴取に参加したようだと記述していますが,この報道に対する対応のために中心になって行動した棋士が渡辺竜王であったのは間違いのない事実だということも,後に明らかになっています。渡辺竜王は竜王戦の当事者ですから,このような心配をしたのは当然のことであって,執行部に対して何らかの対応を求めたのは当然のことでしょう。
 時間的な余裕がなかったため,執行部は三浦九段に挑戦の辞退という無理な要求をし,その要求が受け入れられなかったために強引に処分したというのが,このときの真相ではなかったかと僕は今では考えています。週刊誌は竜王戦の開幕に合わせて記事にすることを狙っていた筈で,それが不幸な結果を招く要因になったともいえるでしょう。

 どのような事物にもその事物に固有の本性essentiaがあり,その本性は完全性perfectioを意味するということから帰結するのは,スピノザの哲学においては,完全であるか不完全であるか,いい換えれば存在するか存在しないか,あるいは存在し得るか存在し得ないかという点で差異をつけることが可能ですが,存在するものあるいは存在し得るものについては,より完全であるかより不完全であるかという差異をつけることは不可能だということです。なぜなら,仮にAとBという本性が異なるふたつの事物が存在する場合に,AはAの本性において完全で,またBもBの本性において完全ですから,どちらも完全であるということはできますが,Aの方がBより完全であるということはできませんし,Bの方がAより完全であるということもできません。Aの本性とBの本性が異なる分だけAの完全性とBの完全性は異なるのですが,Aの本性とBの本性との間で優劣をつけることができないので,Aの完全性とBの完全性の間に優劣をつけることもできないのです。
                                   
 これはAとBというふたつの事物の間での説明ですが,この説明は普遍的なものであって,事物がいくら存在したとしても成立します。したがってあらゆる事物の間で,すなわちすべての様態modusの間に,完全性の差異はないのです。このことが,様態の間で優越性があるということを認めないということに直結します。つまり,あるものが別のものに対して完全であるということができないのであれば,あるものが他のものに対して優越的であるということもできないということになるのです。よってほかのものに対して何らかの意味で優越的にeminenter存在する事物というのは存在しません。人間は馬よりも完全であるとはいえないがゆえに,人間は馬よりも優越的な存在ではあり得ません。同様に,人間の本性と三角形の本性の間に完全性の差異はないために,人間は三角形よりも優越的に存在するということはないのです。もちろんこのことは逆もまた真verumなのであり,馬が人間よりも優越的に存在するわけではありませんし,三角形が人間よりも優越的に存在するというわけではないのです。
 このことをスピノザのテクストで確認します。
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処分&好意と反撥

2021-06-25 20:11:20 | 将棋トピック
 挑戦者の交替の発表があった後に,三浦九段に3ヶ月の出場停止という処分が与えられるという発表がありました。正確な日時は覚えていませんし,調べれば分るでしょうが,抗議の解答に必要ではありませんので,正確な期日は調べません。ただ僕はこのことを2016年10月15日に記事にしていますので,処分の発表があったのはこの少し前,早くても12日のことだった筈です。9月8日に挑戦者決定戦の第三局が指され,10月に入ってから挑戦者の交替の発表があり,10月12日から14日の間に処分が発表されたという流れだったということだけ押さえておいてください。
 僕はこの発表で,三浦九段に対して,コンピューターの援助を受けているという疑惑があったということを知りました。このことは後に週刊誌に掲載されましたが,掲載されるということは,この時点ですでに判明していたそうです。ただしこのことを僕が知ったのはもっと後になってからです。
 疑惑に関しては,どう考えても三浦九段と対戦した棋士が告発したとしか思えない内容でした。そしてその告発は,挑戦者決定戦の以前には連盟の役員に伝えられていたとしか考えられませんでした。実際に第三局では三浦九段の行動が監視されていたのですから,これはその通りだったのでしょう。発表によれば,三浦九段に対する聴取は10月11日に行われました。その場で三浦九段の方から休場を申し入れ,連盟の常務会は休場届の提出を要求したけれども,それが出されなかったために,3ヶ月の出場停止処分とするという内容です。ただ,三浦九段の方から休場を申し出る理由として,疑惑がある中では対局できないというのは弱すぎますので,これは連盟の常務会が都合よく解釈したものなのだろうと思います。もっともこのことは,僕がそのときに思ったことではありません。僕がこの発表に対して思ったのはふたつです。ひとつは処分に至るまでの合理性に関するものであり,もうひとつは疑惑そのものに対する合理性に関することです。こちらは抗議に対する解答として重要なので,次回からそれぞれを詳しく説明していきます。

 この一般的な例を新型コロナウイルスに関連する政策に具体的に照合させれば,旅行や外食を奨励するなど,新型コロナウイルスを蔓延させる危険性の高い政策を実行しておいて,やはり新型コロナウイルスが蔓延したので,緊急事態宣言を出して外出を控えるように要請されているようにみえるのです。みえるというのは,そのように表象されるということです。このために,危険性が高い政策を実行したことに対する反省の表象imaginatioが間に挟まれない限り,緊急事態宣言の方は好意的に受け止める人よりもそれに反撥aversioを感じる人の方が多くなってしまうのです。2度目以降の緊急事態宣が,最初の緊急事態宣言のときほどの効果を齎すことができなかったことの原因causaを,人間の感情affectusに求める場合は,これが最大のものになると想定されます。
                                   
 ひとつだけ注意しておけば,ここで好意favorとか反撥といっているのは,感情にほかなりませんが,『エチカ』でスピノザが定義している好意あるいは反撥という感情とは異なります。スピノザは『エチカ』において,これらふたつの感情を,一般的な使用法とは異なった仕方で定義したという主旨のことをいっていますが,それに倣っていうなら,ここではむしろ一般的に使用されるのに近い意味において,僕は好意また反撥といっているというように解してください。
 僕自身についていえば,2度目の緊急事態宣言に関しては,発出するのが遅すぎたとは思っていますが,出さないよりは出した方がよいと思いましたので,そのこと自体については好意をもって受け止めました。この点に関しては,新型コロナウイルスの蔓延を防ぐということが最優先の政治課題とされるべきであると考える人にとっては,程度の差はあるでしょうが,概ね一致した見解opinioになるだろうと思われます。緊急事態宣言を出した方が,出さないよりも新型コロナウイルスの蔓延を防止することに対しては効果的であるのは間違いないからです。しかしそのことが真verumであったとしても,だから必ずしも好意的な評価が受けられるというものではないのです。第四部定理一にあるように,真なるものが含む好意は,反撥がもっている積極性を排除できないからです。
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交替&喜びによる抑制

2021-06-21 19:18:11 | 将棋トピック
 あったらしい抗議に答えるために,まず必要な事項を並べておきます。
 第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負は,2016年9月8日に第三局が行われ,丸山忠久九段を破った三浦弘行九段が挑戦権を獲得しました。後に明らかになったところによると,この対局では立会人が三浦九段の行動を監視していたそうです。つまりこの時点では三浦九段に対してあらぬ疑いがかけられていたということになります。もちろん三浦九段の行動には何の問題もありませんでした。
 竜王戦の第一局は10月15日と16日に指される予定となっていました。ところがこの後,挑戦者が変更になったという報知がありました。僕はこれを日本将棋連盟のホームページで最初に見たと記憶しています。ただしそこには,単に挑戦者が三浦九段から丸山九段に変更になったということがあっただけで,理由は書かれていませんでした。なのでこの報知があった時点では,僕はまだ三浦九段に疑いが掛けられているということも知りませんでした。挑戦者の変更というのは不審に思いましたが,たとえば三浦九段が大病を罹患したというようなケースも考えられますので,僕もすぐには何も書かず,推移を見守りました。
 挑戦者の交替は,将棋連盟の一存では決められないと思われ,主催者の意向にも配慮しなければならないと思われます。報知があった正確な日時は分かりませんが,その時点で将棋連盟と主催者である読売新聞社との間では合意ができていた筈です。ただ,読売新聞社の方から挑戦者の変更を依頼することは考えられませんので,将棋連盟から読売新聞社に何らかの理由と共に要請をして,それを読売新聞社で了承したということだったろうと僕は思っています。
 このことに関して,三浦九段の同意があったという主旨の説明ないしは報道があったように記憶していますが,それはあり得ないです。現実は,将棋連盟は疑いがあり,かつその疑いがあるということが報道されると判明していた三浦九段の挑戦を避けたかったために.三浦九段に休場を強要したけれども,当然ながら三浦九段が拒否したので,日程の都合で処分することを決断したということだったと思われます。その処分内容と理由は後の発表となりました。

 それが公平であるかどうかは関係ありませんので,これくらいにしておきましょう。
 この給付金が支給されるときに,それならば外出を控えて家にいようと思った人がいたと仮定します。この人は現金が支給されるという喜びlaetitiaによって,外出する,すなわち新型コロナウイルスを蔓延させてしまうような行為に対する欲望cupiditasを抑制していることになります。これは仮定そのものから明らかだといえるでしょう。つまり第四部定理七でいわれていることが,喜びという感情affectusによって生じていることになるのです。そしてそれは,喜びという感情が欲望という感情を抑制しているということになるのですが,この欲望は何らかの喜びから生じています。これも仮定から明らかなのであって,この場合は,外出することで何らかの喜びが生じるからそれを欲望しているからです。他面からいえば,この外出へと向かう欲望というのは,悲しみtristitiaを忌避するために生じている欲望ではありません。
                                   
 このように考えれば,このことは善悪が比較上の概念notioであるということからも説明できることになります。第四部定理八により,善bonumとは喜びの認識cognitioだからです。すなわち,外出して得ることができる喜びと,給付金が支給される喜びとを比較したときに,後者の喜びの方が大であると認識されると,前者はそれを妨げる善とみなされることになります。いい換えればそれは悪malumと認識されることになるのです。つまりこの場合は,より大なる善がより小なる善を抑制しているとみることができ,善が喜びの認識であるということを踏まえれば,大きな喜びが小さな喜びを抑制しているということができるのです。
 実際には,外出することと,支給される給付金を受け取るということは両立することが可能なのであって,一方を得るためにもう一方を断念しなければならないというものではありませんでした。ですからそれは,必要性という観点からいうなら,比較されなければならないようなふたつの善ではありません。しかし実際にはそのような比較をすることが人間にはあるのであって,実際に給付金が支給されるのであれば外出を控えてもよいと思った人がいたことを否定することはできません。
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抗議&知名度

2021-06-12 19:11:19 | 将棋トピック
 もう2ヶ月か3ヶ月前のことになるのですが,ある抗議を受けました。将棋の三浦弘行九段について,僕は三浦九段がコンピューターによる指し手の援助を受けていたと思っていたのに,それについて何の反省もすることなく平然と三浦九段のことを記事にしているという主旨のものです。正確にいうと,そういう抗議を僕が受けたというのではなく,そういう抗議があったということを伝えられたのです。
 僕は棋士個人についての記事を書いたことはありますが,それはだいぶ前のことですし,三浦九段について書いたことはありません。今年の2月の朝日杯将棋オープンの決勝に三浦九段は進出していて,そのことは記事にしていますので,抗議があったと伝えられた時期からして,僕が書いた記事というのはそれを指すのだと思われます。
 僕自身が抗議を受けたというわけではないということもあり,その抗議をした人が,どういう理由から三浦九段がコンピューターから援助を受けていたと僕が思っていると判断したのかということは不明です。実際のところをいえば僕はそんなふうには思っていませんでしたし,むしろその疑惑自体が疑わしいものではないかと考えていました。ですからこのような抗議をされること自体が僕にとっては心外でした。また,いまさらこのことについて書くのは三浦九段に対しても迷惑ではないかとも思えましたので,そのまま放置しておいたのです。
 ただ,よく考えなおしてみますと,僕がこの件について何も総括していないのは事実ですし,ほかにもその抗議をした人と同じように判断している人もいるかもしれないとも思えますので,これから何回かに分けて,そのときに僕がどう考えていたのかということを示していくことにします。もう5年ほど前のことになりますから,正確さを欠く部分があるかもしれませんが,もしそうした部分があったとしたらどういう形であれ伝えてください。また,熟慮して決断したこととはいえ,現在でも無実の三浦九段に対して悪意をもっている人がいるということも僕は知っての上でのことであり,結果的にこの件を蒸し返すようなことになることについて,三浦九段や将棋連盟その他の関係者に対してお詫びしておきます。

 歌謡番組に出演する歌手を除いて,妹に認知されているということは,日本人における知名度の高さを反映しているのではないかと僕は思っています。つまり,妹に認知されている人とされていない人,たとえばタモリさんと総理大臣を比べれば,タモリさんの方が日本人の間での知名度が高いというように僕は思っているのです。他面からいえば,タモリさんのことは知っているけれど総理大臣は知らないという人と,タモリさんのことは知らないけれど総理大臣は知っている人の数を比べたら,前者の方が後者よりも多いだろうと僕は思っているということです。日本人全体の間での知名度ということになると,たとえば未就学の子どもなども含まれるわけで,そうなると確かにタモリさんは知っているけれども総理大臣は知らないという人も多そうに思えますから,知名度に関する僕の仮説は,それほど間違っていないのではないかと思います。
 その妹に認知されている著名人の中に,コメディアンの志村けんさんがいます。ご承知のように志村けんさんは,まだ日本に緊急事態宣言が出される前の段階で,新型コロナウイルスに感染してそのままお亡くなりになりました。この出来事は,僕たちの行動に対して影響を与えたと僕は考えています。その理由のひとつは,志村けんさんという,妹ですら認知しているような著名人がそれに感染して亡くなったということで,新型コロナウイルスに対する不安metusという感情affectusを大きく促進したということです。ですがこれは,不安という感情が僕たちの行動に影響を与え得るという観点から説明したことですから,ここでは繰り返しません。これとは別の感情のダイナミズムが,僕たちに影響を与えたと僕は考えているのです。事前にいっておいたように,これは実証せよといわれれば無理なことではあるのですが,人間の感情のダイナミズムあるいは必然性necessitasから,論理的にはそのことを証明することができます。
                                  
 志村けんさんは知名度がきわめて高い筈なので,数多くの日本人が表象するimaginariことができる存在です。そして志村けんさんはコメディアンであるがゆえに,ほとんどの人のうちで,その表象像imagoが喜びlaetitiaを齎すようになっています。
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将棋大賞&無の肯定

2021-04-06 19:34:01 | 将棋トピック
 昨年度の将棋大賞が1日に発表されました。
                                        
 最優秀棋士賞は藤井聡太二冠。棋聖挑戦,奪取。王位挑戦,奪取。銀河戦優勝。朝日杯将棋オープン優勝。最多勝利賞と勝率一位賞という記録部門でもふたつを制したことが評価されました。最優秀棋士賞は初受賞。
 優秀棋士賞は渡辺明名人。名人奪取。王将防衛。棋王防衛。棋戦の優勝はありませんでしたが,タイトルは3つですから,最優秀棋士賞でないのならこうなるのは当然でしょう。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度,2015年度,2018年度に続き2年ぶり7度目の優秀棋士賞。
 敢闘賞は豊島将之竜王。前年度中に挑戦を決めていた叡王を奪取。竜王防衛。日本シリーズ優勝2017年度以来3年ぶり2度目の敢闘賞。
 新人賞は池永天志四段。新人王戦優勝。対局数で5位,勝数と連勝で4位と,記録部門でも健闘しています。初受賞。
 記録部門は最多対局が永瀬拓矢王座,最多勝利は藤井二冠と永瀬王座,連勝は澤田真吾七段でした。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流四冠。女流王位防衛。清麗防衛。女流王座挑戦。倉敷藤花防衛。女流名人防衛2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度に続く6年連続11度目の最優秀女流棋士賞。
 優秀女流棋士賞は山根ことみ女流二段。女流王位挑戦。年度中のタイトル戦には出場していませんが,勝利数と連勝は1位で,この点が大きく評価されたのでしょう。初受賞。
 記録部門の最多対局は加藤桃子女流三段でした。
 升田幸三賞は大橋貴洸六段の耀龍四間飛車。同特別賞は棋聖戦五番勝負第二局の☖3一銀により藤井聡太二冠。名局賞は棋聖戦五番勝負第一局。女流名局賞は女流王座戦五番勝負第五局。名局賞の特別賞は竜王戦二組準決勝の藤井二冠と松尾歩八段の一戦。これは3月の将棋で記憶に新しいところ。飛車を取る一手と思えたところで,銀を捨てる王手をしてから飛車を取った将棋です。

 ある人間の精神mens humanaのうちに混乱した観念idea inadaequataがあるとき,それはそれ自体でその人間が誤謬errorを犯しているということではないのですが,その人間の精神の一部が虚偽falsitasによって構成されているということは意味します。一方で十全な観念idea adaequataは真理veritasなので,第二部定理七系の意味から,神Deusのうちにある観念はすべて真理です。また,第二部定理三八系により,現実的に存在する人間の精神の一部は真理によって構成されていることになります。
 このことは,真理と虚偽の間にある関係だけを意味するのではありません。なぜなら,スピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念の間にある関係は,前者が真理であり後者が虚偽であるということを意味すると同時に,有と無の関係,すなわち十全な観念が有esseであるのに対し,混乱した観念は無であるということも意味するからです。したがって,現実的に存在する人間の精神の一部が混乱した観念によって構成されているというとき,その人間の精神のうちに混乱した観念があるといういい方をするのは,厳密にいえば好ましくありません。混乱した観念は無なのであって,無であるものがあるというのは語義矛盾であるからです。ただ,たとえばAという人間の精神のうちに混乱した観念があるというのは,Aの精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにその観念があるということなのであり,この限りで神のうちにある観念は十全である,いい換えれば有ですから,この点まで注意すれば,混乱した観念について,それがあるといういい方をしても,許容はされるだろうと僕は考えます。
 このことから分かるように,混乱した観念のうちにもそれを肯定する意志作用volitioが含まれているということは,無であるものにもそれを肯定する意志作用が含まれているという意味なのです。このために僕たちは,不可能であるもの,必然的necessariusであるといわれるのと反対の意味において不可能であるものについても,それを表象し,あるいは同じことですがそれを肯定する意志作用を有することができるのです。不可能であるというのは存在することが不可能であるという意味であって,存在することが不可能ならそのものは無です。
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天才の考え方&社長の要望

2020-11-16 18:57:35 | 将棋トピック
 将棋関係の書籍の紹介。9冊目となる今回は,加藤一二三と渡辺明の『天才の考え方』です。今年の4月に中央公論新社から発売されました。
                                        
 5部構成になっています。第1部が渡辺明の思考法①で,これは渡辺が書いたもの。第2部は加藤一二三の思考法①で,こちらは加藤が書いた部分です。第3部は対談。加藤と渡辺の対談です。第4部が渡辺明の思考法②で第5部は加藤一二三の思考法②。それぞれ渡辺と加藤が書いたもので,これは対談を受けて書かれたものと推測されます。対談がいつ行われたのかは定かではありませんが,この中で昨年の11月の王将戦挑戦者決定リーグ戦で,広瀬章人八段が藤井聡太七段(当時)を破って挑戦権を得た将棋に関する言及がありますから,たぶん今年に入ってからのことでしょう。
 各々の部にはサブタイトルがつけられています。第1部は「天才の準備の仕方」。第2部は「天才は過去も未来も気にしない」。第3部は「天才の運とツキを考える」。第4部は「天才はそこに「解」があるかを考える」。第5部は「天才が考えるライバル論」です。当然ながらそのサブタイトルに沿った事柄が書かれまた話されているわけですが,必ずしもそれだけではなく,直接的にいうならそれとは無関係であるようなことも書かれたり話されたりしています。サブタイトルは初めからあって,それについて書いたり話したりするという依頼があったのではなく,書かれたものや話されたことを総括して,後につけられたものなのかもしれません。ですから各部のサブタイトルについては,さほど気にしない方がいいかもしれません。
 加藤の『羽生善治論』と同様に,だれが「天才」について語る資格があるのかということは,この本の場合にも問題になるかもしれません。ただ,加藤がそれについて語る資格があるということは,『羽生善治論』を著述する資格があるというのと同じ理由によって成立します。一方,対談の中で加藤は渡辺について,天才であると思っていると発言しています。したがって加藤が「天才」について語る資格を有しているのと同じ意味で,渡辺もその資格を有しているということになるでしょう。

 もう一点,役所への手続きをする際には墓の名義人,すなわち父のきょうだいの長男である,僕の伯父の実印と印鑑証明が必要になるとのことでした。ただ,役所への手続きというのは,遺骨を移す日時が決定してから,社長の方で実施することになっています。したがって次に何をなすべきなのかということははっきりとしていて,それは日時を決定するということでした。この決定については,社長の方から要望が出されました。それは,日時の決定後に役所への手続きを済ませ,その前に伯父の実印と印鑑証明が必要になってくるということ,また,遺骨をきれいな状態で渡すためには一定の期間にわたって乾燥させる必要があるという二点を踏まえ,日時の決定後に三週間から四週間ほどの余裕が欲しいということでした。つまり,日時は僕たちで決定するわけですが,そのときに,たとえば来週に移すというような決定は避けてほしいというのが具体的な要望の内容です。これについては了承しました。
 ただ,日時を決定するのには問題がありました。彼岸会が簡略化されたように,新型コロナウイルスの影響によって,お寺では人が集まるような儀式,たとえば御講のような儀式を,この時期には実施していなかったからです。もちろん通夜や葬儀,法要といったものは実施していたのですが,それ以外の,必ずしもその時期にやらなくてもいいような儀式については,すべて先送りしていたのです。遺骨を移すということも,必ずしもすぐに実施しなければならないことであるというわけではなく,先送りしても構わないことだといえます。ですからこちらからもこの時期にはお寺に対して依頼しにくかったのです。なのでそうしたお寺の事情については僕の方から社長に伝え,もしかしたら実行するのはかなり先のことになる可能性もあるということを了承してもらいました。
 3月27日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
 3月29日,日曜日。午後1時10分にグループホームの職員,昨年度までの妹の担当者から電話がありました。これは週末の予定の確認でした。この週のうちに年度が変わるので,確認が必要になったものです。
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