一昨日の第9期女流王座戦五番勝負第四局。
里見香奈女流王座の先手で自身が誘うような形で西山朋佳女王のノーマル三間飛車になりました。途中は後手がリードし,その後にまた混戦に戻るという展開。

先手が8七に銀を打ち,後手の馬が8六から引いたところ。
ここで☗7六飛と歩を払ったのですが,この手はあまりよくなかったと思われます。後で指された手でいえば☗5三歩と打って攻め合う方が優ったのではないでしょうか。
後手は☖6五銀と打ちました。先手は☗8六飛と逃げたのですが,これもおそらくよくなく,ここに至っては自信がなくても☗7五銀と打つほかなかったと思います。
後手は☖7四桂とさらに飛車を攻めました。これは逃げるほかなく☗2六飛。後手は☖8六歩と打ちました。

第1図から第2図への進展をみると,先手は歩を一枚入手して飛車がひとつ寄っただけ。これに対して後手は玉頭が手厚くなって大きな楔も打ち込めました。これでは後手の得の方が大きく,はっきりとした差がついたといえそうです。
3勝1敗で西山女王が女流王座を奪取。女流王座は初獲得で通算4期目のタイトル獲得です。
説明としては成立している,とりわけ緒論の全体の論旨の中では成立しているとみることができるのですが,その説明でいわれていることだけをとくに抽出してみた場合には,それはむしろデカルトRené Descartesの哲学とは齟齬を来してしまうのではないかとみることが可能だと僕は思います。
スピノザがいうには,デカルトの哲学では,もし神Deusの真の観念idea veraがある人間の精神mens humanaのうちにある場合には,その人間の精神のうちにあるすべての真の観念の確実性certitudoが保証されるのです。他面からいえば,もしある人間の精神のうちに神の真の観念がないという場合には,その人間の精神のうちにある神以外のどんな観念の確実性も保証されることはないのです。すでに説明したように,これはスピノザによるデカルトの哲学の改変であって,デカルトがそれを本当に是認するかは僕には疑問です。ですがスピノザはこういう改変が可能であると考えていたからこそ『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』という書物の,自身による執筆においては冒頭にあたる緒論の部分でこれを示しているのですから,解釈を変更したこと自体の正当性についてはここでは問うことはしません。ただ,ある人間の精神のうちにある神以外のすべての観念の確実性が,その人間の精神のうちにある神の真の観念に依拠しなければならないという点を重視します。
ある人間の精神のうちに,平面上に作図された三角形の真の観念があると仮定しましょう。この真の観念の確実性,あるいはこの真の観念から流出してくる三角形の特質proprietasの観念のすべての確実性は,その人間の精神のうちにある神の真の観念に依拠することになります。したがって,その人間が神の観念について確実であるように,平面上の三角形の内角の和が二直角であるということについても確実であるといわれるならば,これはデカルトの哲学と齟齬を来さない説明だと読解することはできると僕は思います。厳密にいうと,この説明ですら,神の真の観念についての確実性と三角形の真の観念の確実性とを等置しているとみることは可能ですが,すべての確実性の根拠となる神の真の観念を例材として,三角形の真の観念の確実性を説明することは許容できると思うのです。
里見香奈女流王座の先手で自身が誘うような形で西山朋佳女王のノーマル三間飛車になりました。途中は後手がリードし,その後にまた混戦に戻るという展開。

先手が8七に銀を打ち,後手の馬が8六から引いたところ。
ここで☗7六飛と歩を払ったのですが,この手はあまりよくなかったと思われます。後で指された手でいえば☗5三歩と打って攻め合う方が優ったのではないでしょうか。
後手は☖6五銀と打ちました。先手は☗8六飛と逃げたのですが,これもおそらくよくなく,ここに至っては自信がなくても☗7五銀と打つほかなかったと思います。
後手は☖7四桂とさらに飛車を攻めました。これは逃げるほかなく☗2六飛。後手は☖8六歩と打ちました。

第1図から第2図への進展をみると,先手は歩を一枚入手して飛車がひとつ寄っただけ。これに対して後手は玉頭が手厚くなって大きな楔も打ち込めました。これでは後手の得の方が大きく,はっきりとした差がついたといえそうです。
3勝1敗で西山女王が女流王座を奪取。女流王座は初獲得で通算4期目のタイトル獲得です。
説明としては成立している,とりわけ緒論の全体の論旨の中では成立しているとみることができるのですが,その説明でいわれていることだけをとくに抽出してみた場合には,それはむしろデカルトRené Descartesの哲学とは齟齬を来してしまうのではないかとみることが可能だと僕は思います。
スピノザがいうには,デカルトの哲学では,もし神Deusの真の観念idea veraがある人間の精神mens humanaのうちにある場合には,その人間の精神のうちにあるすべての真の観念の確実性certitudoが保証されるのです。他面からいえば,もしある人間の精神のうちに神の真の観念がないという場合には,その人間の精神のうちにある神以外のどんな観念の確実性も保証されることはないのです。すでに説明したように,これはスピノザによるデカルトの哲学の改変であって,デカルトがそれを本当に是認するかは僕には疑問です。ですがスピノザはこういう改変が可能であると考えていたからこそ『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』という書物の,自身による執筆においては冒頭にあたる緒論の部分でこれを示しているのですから,解釈を変更したこと自体の正当性についてはここでは問うことはしません。ただ,ある人間の精神のうちにある神以外のすべての観念の確実性が,その人間の精神のうちにある神の真の観念に依拠しなければならないという点を重視します。
ある人間の精神のうちに,平面上に作図された三角形の真の観念があると仮定しましょう。この真の観念の確実性,あるいはこの真の観念から流出してくる三角形の特質proprietasの観念のすべての確実性は,その人間の精神のうちにある神の真の観念に依拠することになります。したがって,その人間が神の観念について確実であるように,平面上の三角形の内角の和が二直角であるということについても確実であるといわれるならば,これはデカルトの哲学と齟齬を来さない説明だと読解することはできると僕は思います。厳密にいうと,この説明ですら,神の真の観念についての確実性と三角形の真の観念の確実性とを等置しているとみることは可能ですが,すべての確実性の根拠となる神の真の観念を例材として,三角形の真の観念の確実性を説明することは許容できると思うのです。