スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

啓蒙の不可能性①&アルベルト

2015-09-26 19:12:14 | 哲学
 共通概念によってスピノザと啓蒙思想を中和し,そこにスピノザ主義的な啓蒙の可能性を僕は見出しました。でも実はこの可能性は,事実上は不可能性を示しているともいえるのです。そのようにいえる理由がふたつあると僕は考えています。まずスピノザの哲学における認識論に絡めて説明してみましょう。
 スピノザの哲学では,人間の精神による事物の認識が,一般的な意味でいうなら,純粋な受動になっています。つまり精神は意図的にある事柄を認識したりしなかったりするのではありません。むしろ与えられた原因によって必然的に認識するか,何の原因も与えられずに認識することが不可能であるかのどちらかなのです。僕たちはその与えられた原因のすべてを認識することができないので,あるいは第二部定理九の無限連鎖のすべてを認識することは不可能なので,自分自身の認識についてさえ,偶然と可能によって説明できると思いがちです。ですが神の視点からは,人間の精神の認識のすべてもまた必然と不可能によって説明され得るのであり,実際に認識はそのようにして生じています。
 このとき,ある人間が別の人間を啓蒙することが可能であることを認めるためには,これも普通に考えたなら,人間の精神の認識が可能的なものでなければなりません。というのは啓蒙される人間の認識は,偶然であっては啓蒙とはいえないでしょうが,必然であっても啓蒙とはいい難いからです。そうではなく,ある人間Aにとって可能的であったけれども実現していなかった認識が,Bによって現実化されるということが,BがAを啓蒙するということの一般的な意味である筈だからです。
 したがって,ある人間Xが別の人間Yと関係して,Yに何らかの共通概念が生じたとしても,それは必然的に生じるのであり,Yにとって可能的だったものが現実化したのではありません。いい換えればXはあらかじめYを啓蒙するという意図のもとに,この関係を構築することは現実的には不可能なのです。

 ヨハネス・ファン・デル・メールからの質問の書簡が掲載されていないことが,その書簡がなかった根拠になると僕は考えています。書簡六十七が掲載され,ステノの書簡の掲載が見送られたことは,その根拠を補完する材料になると思います。
                         
 六十四はアルベルト・ブルフからスピノザに送られたものです。
 ユダヤ人共同体から破門されたスピノザは,一時的にアムステルダムに住めなくなり,アウデルケルクのコンラート・ブルフの家ないしは別邸で世話になったのでした。コンラートはアムステルダム市の裁判官としていますが,大臣なども務めた人物で,要はアムステルダムの有力な貴族のひとりでした。アルベルト・ブルフはその息子です。コンラートとの混同を避けるため。ここからはアルベルトと名前で表記します。アルベルトがその家ないしは別邸に行かなかったとは考えにくいので,1656年にはふたりは知り合っていたと判断します。
 アルベルトからの書簡は1675年に出されていて,『ある哲学者の人生』ではそのときアルベルトは24歳だったとされています。なので1651年に産まれたとして,ふたりが出会ったとき,まだアルベルトは5歳でした。ですから知り合ったといっても,この頃は特別の関係があったとは思えません。
 1668年,すなわち17歳でライデン大学の研究生になりました。研究内容が哲学で,スピノザとの関係は続いていました。このことはスピノザがアルベルトに宛てた返信の中で,ステノについて語り合ったと書いていることから確実視できます。語り合った内容はもちろんステノの改宗についてです。ナドラーがいうように,その改宗が1667年であるなら,それ以後のことになるからです。スピノザはこのときはライデン郊外のレインスブルフではなく,ハーグ郊外のフォールブルフに住んでいたわけですが,たぶん会って話をしていたのではないかと思います。アルベルトが研究生であったこと,スピノザの方が20近く年上であったことから考えて,このふたりの関係は間違いなく師弟に類するものだったと推測されます。ナドラーもアルベルトはスピノザの門弟であったとしています。
コメント
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