スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理二五&無神論者

2015-08-28 19:09:56 | 哲学
 第三部定理四〇に示されている憎しみの連鎖はしばしば生じるのに,第三部定理四一で示されている愛の連鎖は滅多に生じません。つまり他人から憎まれる場合に,憎まれる正当な原因を与えたと表象することは稀で,愛される場合には愛される正当な原因を与えたと表象しがちいうのが,スピノザの人間観のひとつになります。このゆえに人間の現実的本性は,他人に感謝することよりも,復讐することに向う傾向が強いことになります。
                         
 こうした傾向を根本的に支えるのは第三部定理一二第三部定理一三です。すなわち喜びを追求し,悲しみを忌避する人間の現実的本性です。同時にこの根本原理を原因として必然的に発生する別の原理が,さらにそうした傾向を強化することになります。その原理として示されているのが第三部定理二五です。
 「我々は,我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを,我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に,我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める」。
 ここでも努めるといわれるのは,意志をもって努力するという意味ではありません。単にそのような傾向があるという意味です。つまり僕たちは,単に喜びを追求し悲しみを忌避するだけでなく,喜びをもたらすものを肯定し,悲しみをもたらすものを否定しようとする傾向を有するのです。
 このために,憎しみの正当な原因を与えたと表象せず,愛の正当な原因は与えたと表象する傾向が発生します。なぜなら第三部定理三〇により,憎しみの正当な原因を与えたと表象するのは悲しみですが,愛の正当な原因を与えたという表象は喜びだからです。
 人間の現実的本性が感謝より復讐に傾いていること。それは人間の現実的本性が恥辱よりも名誉に傾いていることと同じ意味なのです。

 スピノザのフェルトホイゼンへの反駁のうち,顧慮しておきたいもうひとつの点は,冒頭部分の記述です。
 『神学・政治論』は匿名で発刊されました。なのでオーステンスに評価を送ったとき,フェルトホイゼンは著者がスピノザであることを知らなかったようです。そこで著者のことを彼といっています。その最初の部分でフェルトホイゼンは,彼がどの民族に属するかもどんな生活を送っているかも知らないし,知りたくもないと書いています。その理由はこの著者が理神論者に属するからです。フェルトホイゼンにとって理神論者と無神論者は同じ意味だったと理解して構わないと思います。つまりフェルトホイゼンがスピノザの生活を知りたいと思わないことの根拠は,スピノザが無神論者であるからだと解することにします。
 これがフェルトホイゼンの手紙の冒頭部分なので,スピノザもそれに呼応して,手紙の冒頭部分で反論したのでしょう。スピノザがいうには,むしろフェルトホイゼンは著者であるスピノザの生活態度を知るべきでした。そしてそれを知れば,フェルトホイゼンはきっと著者が無神論者であるという結論を出すことができなかったであろうとしています。その根拠は,一般に無神論者といえば,名誉や富を法外に欲するものだけれども,スピノザがそういう人間でないということは,その生活を知ったならば明らかな筈だという点にあります。
 ここで無神論者という語句が,個人が有する思想を表現するものでなく,その人間の態度を示す語句として用いられている点が大いに注目に値します。フェルトホイゼンがスピノザの生活態度を知りたいとも思わないといったのは,おそらくフェルトホイゼンもスピノザと同じような意味で無神論者という語句が意味する対象を認識していたからだと思われます。要するにそんなものは見たくもないという意味が含まれていたのだと思うのです。そしてたぶんこれは,この当時の無神論者という語句が使われる場合の,一般的な意味であったのでしょう。つまりそれは信仰を持たないとか,神を信じないという意味ではなく,放埓で野蛮な生活を送るというような意味だったのです。
コメント
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