スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&固有の力

2017-08-30 19:25:15 | 将棋
 徳島市で指された第58期王位戦七番勝負第五局。
 羽生善治王位の先手。菅井竜也七段は阪田流向飛車の出だしから三間飛車にするという趣向。先手は玉頭位取りで対抗しました。後手がうまく捌いて快勝という将棋だったと思います。
                                     
 7六の地点で銀の交換がなされたところ。ここで☖5六歩と垂らしたのが軽妙な一着でした。
 ☗4二銀と打てば飛車を取ることはできるのですが☖4五歩と突かれて銀の行き場がないために二枚換えになります。なので仕方なく☗同金と取ったのですが☖4五金が後手の駒に活を入れる一手。以下☗同銀☖3七桂成☗2五飛☖4五歩☗3四歩☖同飛☗2三飛成☖3六飛☗4六歩☖3八角の捌き合いに進展。さらに☗6七金打の受けに☖2七成桂とこちらに寄って2九の桂馬を取れるようにしたのも好手でした。
                                     
 部分的な応酬だけでいえば先手がひどく損をしたというわけではないと思います。ただ,玉頭位取りというのは手厚く構えて押さえ込んでいくような戦法なので,第2図のような捌き合いに進展してしまうと,それだけで振飛車の方が有利になる戦型だといえるのではないでしょうか。
 4勝1敗で菅井七段が初タイトルとなる王位を奪取。単に勝敗で圧倒しただけでなく,自己流を貫いての結果なので高く評価するべきだと思います。ただ,目新しさのゆえの対策の困難さというのもあるのでしょうから,真価を問われるのはこれからなのかもしれません。

 僕はものが神Deusの力potentiaのうちにあるということと,ものが神の力を分有するということを同一視します。これは,様態modiが神のうちにあるということと,様態とはその様態という様態的変状modificatioに様態化した神であるということが,様態に着目するか神に着目するのかという観点の相違にだけ帰着するように,そのことを力という観点から把握する場合には,これと比例的な観点の相違に帰着すると考えるからです。
 河井の論考は,現実的に存在する個物res singularisだけが固有に神の力を分有していると受け取れなくありません。もしも河井が本当にそのように主張したいのであるとしたら,第一部定理一五にあるようにあらゆるものQuicquidは神なしには存在することができずnihil sine Deo esse,かつ第一部定理三四により,神の力は神の本性essentiaそのものなのですから,それを否定します。ただしこれはある意味においては形式上の否定にすぎません。というのも,現実的に存在する個物が分有する神の力というのは,やはり固有のものではあるからです。いい換えれば,個物が神の属性attributumに包容されて存在するといわれる場合においても,その個物は神の力を分有していると解さなければならないと僕は考えますが,その限りにおいて個物が分有している神の力と,現実的に存在する個物が分有している神の力というのは,同じ力であるとはいわれ得ないと考えるからです。実際に第三部定理七というのは個物が現実的に存在する場合の本性についていわれているのであり,第二部定理四五備考というのはその現実的本性actualis essentiaが力であるといっているのですから,この力が現実的に存在する個物だけが固有にあるいは特有に有している力であるということは明白でしょう。
 さらに,現実的に存在する個物に力の観点を導入することが重要なのは,スピノザの哲学そのものにおいて力というのがどのようなものであるかということと大きく関係すると僕は考えます。スピノザは力というのを常に現実的なものとしてのみ把握するのであって,可能的なものとしては把握しません。つまり第三部定理七でいわれていることが現実的に存在する個物の力であるなら,個物はそれができるという意味ではなく,そうしているという意味なのです。
コメント
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