津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■BF8★古文書・智海院(熊本藩主)様・寛文元年没・殉死者子孫・弐百御忌御法会・万延元年・ 必要経費等・藩★

2021-11-09 11:00:36 | オークション

           BF8★古文書・智海院(熊本藩主)様・寛文元年没・殉死者子孫・弐百御忌御法会・万延元年・ 必要経費等・藩★

    

 説明書では大変良く内容が説明されており、智海院に殉死した方々の200回忌に関することが記されているとする。
表題では「智海院」を熊本藩主としてあるが、残念ながらこれは間違いで「熊本藩家老=八代城主」の松井興長の事である。
興長は寛文元年に死去しているが9人の家来が殉死した。寛文3年には武家諸法度により殉死が禁止されているから、細川藩内では最後のことであった。
其子孫が9家、200回忌にあたり一堂に会し、回忌を催した軽費を書き上げて、9分割し負担分を計算したものと思われる。
大変珍しい、貴重な資料である。

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■部分御舊記・軍事部八(8)寛永拾五年二月廿七日 肥前國於有馬原城働之御帳(一)

2021-11-09 08:23:00 | 史料

     寛永拾五年二月廿七日 
           肥前國於有馬原城働之御帳(一)

付札以下同
九郎兵衛事
一、長岡八郎左衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫ゟ本丸石垣下江参摠並ニ乗込右馬助手負ニ付右馬助与少々引廻
    廿七日之夜本丸ニ相詰暁に引取頼母佐備へ參申候 明ル廿八日にも頼母佐与同前ニ本丸ニ相詰申候 証人合申候

亀右衛門事
一、松野縫殿助
  一、二月廿七日有馬之城二丸にて敵突伏高名仕候
  一、同日又二丸中程にて鑓にて突倒首取申候
  一、本丸石垣ニ著塀越ニ鑓にてせり合一人突倒申候 其時右之手ニ少鑓手負申候 証人合申候

松野善右衛門与
一、吉弘四郎大夫                    府内目付牧野伝蔵成純
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓合一人突倒申候 此段牧伝蔵様御覧ニ付嘉悦平馬を以無御失念候哉と御尋申上候ヘハ
    不被成御失念由平馬書付有之

一、明石源左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著塀越ニ貴利支丹とかゝち合申候而壱人突申候 塀へ乗縣申候所石にて打落され申候 源左衛門
    著申候所石稠敷打申候ゆへいつれもなたれ申候へとも源左衛門残居申候本丸へ參候儀ハ御下知にて参り申候
  一、明ル廿八日本丸松之木御座候所にてかせき敵一人鑓付申候 証人合申候

一、續 平右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走ニ著鑓にてからち合申候 御下知にて引取申候 証人合申候
  一、石かきへ乗鑓を入申事三度なり

御暇被遣候
一、松山兵左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走ニ著敵と鑓をからち合申私鑓おれ申候 其後敵鑓を突出申候所を取申候ヘハ手之内きれ申候
  一、同日本丸へ乗込鑓にてつきやをし首弐つ取申候 証人合申候

病死仕候
一、竹内八兵衛
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 其時鑓手負申候 二丸より引取申候 証人合申候

病死仕候
一、香山与助
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合突伏申候 其後鉄炮手負引取申候 証人合申候

一、服部武右衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合一人打捕申候 証人合申候

病死仕候
一、山内三大夫
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合壱人突たをし申候 其時鑓手三ケ所鉄炮手壱ケ所負申候而引取申候 証人合申候

一、荒木彦大夫
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫より与頭ニ追付与頭一所に罷居申候 証人合申候

一、小崎次郎左衛門
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫より本丸石垣下ニ著申候 証人合申候

一、寺尾求馬
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合高名仕候 夫より与頭一所に本丸へ著鉄炮手負引取申候 証人合申候

相果申候
一、松山次郎大夫
  一、二月廿七日有馬原之城二丸にて鑓を合突倒し申候 鑓手負申ニ付二丸より引取申候 証人合申候

相果申候
一、小崎与次兵衛
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り貴利支丹と鑓ニ而突合申候所を内より鑓にて突落され又犬走江上候所をり 証人合申候

一、岡部庄之助 
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著鑓にてからち合私鑓を切おられ石にて打落され 其後又石垣際へ付申候 其所を石を打申候ニ付而なたれ候へとも残居申候
    御下知にて引取申御本陳へ參申候 証人合申候

相果申候
一、猿木何右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀ぐいに取付塀裏にて鑓にて突合申候 内より鑓にて突落され石にても打落され申候 御下知にて御本陳へ參申候
   
 証人合申候

相果申候
一、矢野勘右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほと上り内より鑓突出シ申所を私も鑓にて突申候ヘハ私鑓を切折申候 其後何も同前に乗込申候 証人合申候

相果申候
一、柳瀬茂左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣犬走の上にて塀の破より敵鑓を突出シ申所を私も鑓にてからち合申候 手負申ニ付而引取申候 証人二三度かち合申所見届候

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(一)

2021-11-09 06:50:57 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 歌歴(一)

 細川幽齋は天文三年四月廿二日、三淵伊賀守晴員(入道宗勲)の第二子として洛東
鹿谷に生れ、同七年、細川播磨守元常の養嗣子となる。細川氏は清和源氏、足利義康
の孫義實の子義季を祖とし、代々三河國細川に住して地名を族穪とした。室町時代に
入つて、幕府の重臣に列したが、頼春の次子頼有の家は元常に至つて嗣子なく、將軍
義晴の命によつて、三淵藤孝を容れて繼がしめたのである。元常は天文二十三年六月
十六日卒去、時に藤孝廿一歳であつた。

 幽齋の實家三淵氏をしらべる。細川刑部少輔元有に男二人あり、長を元常といひ、
次を晴員といふ。晴員出でて三淵氏を繼ぐ。三淵氏は清和源氏、山城國三淵邑より起
り祖先は足利尊氏の落胤とも、義満の庶子ともいひ傳ふ。三淵加賀守晴恒に子なかり
しため、細川晴員を迎へて嗣とす。それが三淵伊賀守入道宗勲である。その次子藤孝
が出でて元常の養子となつたのだから、藤孝は伯父の家を繼いだことになる。晴員は
元龜元年三月一日、七十一歳にて卒去し、藤孝時に三十七歳。

 母はいかなる人かといふに、養母すなはち細川元常室は清林院とのみ、身分不明。
實母すなはち晴員室は船橋大外記清原宣賢女、天正十三年八月十日逝、藤孝五十二歳
の時である。船橋家は清原氏の族にて、世々明經博士、大外記であつた。

 以上は細川系圖の記すところに據つたのだが、藤孝の血筋に就いては面白い異説が
鹽尻に載つてゐる。それによると、彼は將軍義晴の四男だといふ。義晴に義輝・周崇
・義昭・藤孝といふ子供達あり、藤孝の母は舟橋義賢(宣賢の誤なるべし)の女で、
義晴の愛妾であつたが、後に、藤孝を連れて三淵晴員に嫁したと云。
 かやうに調べてみると、藤孝の父方には、八幡太郎の古はさて措き、祖先以來歌人
又は文人として顕れた人が多かつたが、母方船橋家は清原氏で、世々明經博士・大
外記であつたゆゑ、學問の血脈が幾分かでも傳はつてゐたものと考へられる。 

 

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