津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■喉・鼻かぜ+大くしゃみ=胸・背中痛

2021-11-30 17:21:20 | 徒然

 朝散歩に出て帰宅したら奥方も買い物で不在、それはいいが鍵を持たず家には入れない。
奥方に電話するが通じず30分ほどして向こうから返事があり、鍵のありかを聞いてようやく家に入る。
少々汗をかいたのに外に立っていたから、すっかり風邪をひいてしまった。喉もやられ、のど飴のお世話にもなっている。
尾籠な話で申し訳ないが、鼻水が留まるところを知らず瞬く間にティッシュの山が出来る。
そしてクシャミの速射砲である。私のクシャミは大変激しくて奥方があきれるほどの「ご近所にご迷惑」級のものである。
勢いその反動で、胸や背中が痛くて散々の体たらくである。
厚手のカーディガンを着込んでまずはクシャミが出ないようにと本当に必至である。
そんな中、相変わらずティッシュの山は嵩を増しつつある。

明日は寝込まなければ、鍵屋さんで予備の鍵をつくり、ティッシュを大量購入しなければならない。

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■下馬橋あたり

2021-11-30 06:48:13 | 熊本

 一昨々日(土)、熊本城ホールに講演を聞きに行った帰り、壷井川ぞいの熊本城長塀前をそぞろ歩いた。
長塀が馬具櫓に突つこんでいる様子がよくわかるが、少し角度をつけ開いている。これはかってここにあった下馬橋を正面に受ける形で開くと共に、ここに升形を形成するためだと思われる。現在では大きなイチョウの木が植えられていて確認しずらい。

左下の淡彩画は甲斐青萍が昭和20年ころ、記憶をたよって書いたものだが、書物櫓の向こうに続く長塀や、遠くにはかっての有吉屋敷があった、当時の衛戍病院が描かれている。現在は、かっての国の出先機関の建物群がすべて撤去されて、往時の形が見て取れる。

下馬橋が何とも貧弱に描かれているが、上の絵図をご覧いただくともっと堂々としたものである。
右下の版画は川瀬巴水が大正11年同じ場所を描いたものだが、ここに見える橋は明治天皇行幸にあたり新しく建設された「行幸(みゆき)橋」である。
この地図や、一長一短あるいろいろな資料から当時を想像してみるのも面白い。

       

       

        

             甲斐青萍「熊本町並画集」から下馬橋付近                     川瀬巴水の版画(大正11年)
             昭和20年ころの淡彩画 水面が随分高く描かれている。

          
            下馬橋があった位置関係から馬具櫓を正面に見る。足元の石垣は崩壊している。
            左の石碑(熊本城とある)は熊本大地震で台座から45度回転して奇跡的に倒壊せずに残った。
            この場所はかって書物櫓があった場所だが、石垣の左端あたりから現在の行幸橋がかけられている。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(一)

2021-11-30 06:43:31 | 書籍・読書

      選 評(一)

 衆妙集其他遺詠作を全讀して、五十音を左に選評する。幽齋を代表する佳作は多
く餘さずと信ずるのである。出典を擧げるに當つては、衆妙集所載の歌は一々こと
わらずしてその歌の入りをる部立(春とか秋とか雑とか)のみを示すことにした。

白妙の月は秋の夜かくばかり越路の山の雪もありきや

 秋部「月の比越後の國主上杉なにがしにつかはしける」と詞書あり、天正の初の頃
の作と推定する。越後の國主云々は上杉謙信にちがひない。謙信は永禄二年上洛の
時、近衛稙家から歌の教を聽いてをり、さやうの節に、藤孝とも相識つたかも知れ
ぬ。天正五年正月には藤孝から彼に和歌口傳一巻を贈りなどしてゐる。同六年三月
謙信は急逝した、歌意、藤孝京都に在つて明日を眺めながら北越を想ひやつた趣で、
皎々として白い昨今の夜の月光、越路の連峯には既に初雪が來て、その雪の白き耀き
は、恰も秋月の光の如くあつた乎、と情を寄せ、問ひ尋ねたのである。月の光を白妙
の雪のふれるかと譬へた歌、雪の光を月の影の白きによそへた歌、共に古來夥しくあ
る。その中でも藤孝の一首は、越山の新雪を聯想したところに新鮮さが認められる。
〇日下寛編纂の豐公歌集には右の歌をば、天正十六年八月十五夜、聚楽第觀月歌會に
て上杉景勝の作つたものと記載してあり、筆者の戰國時代和歌集(昭和十八年刊)には、それ
に從つて景勝の詠と擧げておいたのであつたが、其後、再考の結果、やはり衆妙集の
方を信ずるが宜しと、訂正せねばならなくなつた。 

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