津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■散歩みやげ

2021-11-24 13:10:07 | 徒然

 朝の散歩の途中の、健軍の生鮮食品のマーケット・Mの前は大賑わいで、一般の通行人は植込みの反対側の県道の側道を歩るかなければならない。
その側道を歩いていると、植え込みの中にA3程の紙に何やら書かれてその上に何かの実が置かれている。
「持って帰ってください」とある。うしろに咲いている朝顔のような白い花の実らしく、直径3㎝ほどの柘榴のようにはじけた部分からは沢山の黒い種が見えている。
一つだけ頂戴して歩き出したが、証拠写真をと思い引き返して撮ったのがこの写真である。
我が家のベランダに、大きな植木鉢が余っている。これに種をいくつか撒いてまた観察をしてみようと思う。
良い散歩土産である。感謝。本日の散歩4.6㌔。花の名前は判らず・・調査中。

      
      

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 遺著(一)

2021-11-24 08:24:29 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 遺著(一)

 細川幽齋の遺著としては、第一に家集の衆妙集あり、次に九州道の記と東國陣道之
記との、兩種の記行歌文あり、次に門下が聞書をしるし留めた歌論の類若干が傳へら
れてゐる。

 衆妙集は、幽齋薨後六十年を經て、霊元天皇の寛文十一年(二三三一)に、幽齋の
曾孫細川丹後守行孝の請に依つて、飛鳥井雅章編纂にかかり、一二細川幽齋家集とも
云ふ。元禄四年に初めて刊行された。雅章は雅經の後胤で、應仁前後に名の顕れた雅
世・雅親などの子孫に當るが、後水尾院より古今集の奥義を傳げて戴き、もとより二
條流幽齋の傳統に属した堂上歌人である。集の内容は初めの三巻に和歌を、四巻に九
州道の記を、五巻に東國陣道之記を収む。歌數約八百首あつて、詠百首和歌及び詠二
十首和歌を巻頭に置き、次で春・夏・秋・冬・戀・雑と部立す。巻末、漢文第十一暦
季冬、雅章の跋文あり、その中に「歌數八百餘首、偶以清書之本皇之御覧
其名衆妙集是玄旨之集面玄之又玄之意歟、又被御筆外題、法印身後
之榮、何事可之乎、誰人不之哉。」法皇とは、後水尾院の御事である。幽齋
玄旨の穪は、いふ迄もなく、彼が和歌の理想とした所の、俊成の標語「幽玄」に基づ
くのであつたが、後水尾院、その穪より聯想し給ひ、玄之玄なるものの御心にて「衆
妙集」とあそばされ、外題に御染筆までも賜ふとは、まことに雅章の感激した如く、
幽齋の餘榮極まれりと云ふべし。古今の歌人中、幽齋程ほどの果報者は稀有なのであ
る。この家集に關して、佐々木信綱博士は、「就中、時に臨んで詠んだ詞書の作が多
く、これは史乘を補ふのみならず、殆ど題詠ばかりであつた。當時の家集中に、一異
彩を放つものである」と言はれた。それは按ふに、天正九年正月安土にて、八月十五
日夜關白殿云々、朝鮮國正使松堂老人の時に唱和云々、天正二十年入唐の御沙汰あり
し年の元旦に、文禄二年鹿児島にて元旦を迎へて、慶長に念八月昌山御不例のよし聞
きて云々、などの詞書、それから二種の從軍紀行の歌などを意味せられたのであら
う。又、博士は「萬葉假字を用ゐて記し、萬葉集の詞を用ゐた歌もある」と指摘して
居られる。更に博士は近世和歌史の中に幽齋の家集を概評して、「彼の歌風は、やす
らかに正しいのを理想とした二條流の歌風をよく代表してゐる。さすがにその中に、
詠み口の比較的確かなところが見えるのは、彼が當第及び後世に重んぜられた所以を
爲してゐると思ふ。古歌の趣向や成句を借り用ゐた歌もまた多い」と述べて居られ
る。

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■中国文学者・【狩野君山】 七絶・五行書 紅紙 掛軸 共箱・高瀬武次郎極 熊本・京都帝大教授

2021-11-24 06:43:56 | オークション

    中国文学者・【狩野君山】 七絶・五行書 紅紙 掛軸 共箱・高瀬武次郎極 熊本・京都帝大教授 

 
       

                         君山・狩野直喜 は、祖母の叔父にあたる人である。多くの皆さんが応札しておられる。横合いから応札することは慎みたいと思う。

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