「歌仙幽齋」 遺著(四)
又「詞のふとみ細みといふ事」の條に「歌を詠ずる事、たとへを以ていはゝ詞は糸
なり。紋をなすは心なり。歌は綾羅錦繍なり。作者、織手のごとし。細く美しき糸の
細き中へ、ふとあら/\しき糸の一ふしもまじりたらむには、綾羅おり出だしても、
何の詮か侍るべき。又詳撰の絲なりとも、織手のあしきはいかが。雅歌をよまんは、
詞の穿鑿肝要たるべし。かへす/\是を思へと、幽齋、行住坐臥の金言なり。」
なほ彼が、智仁親王に奉りし歌口傳心持と題せる消息あり。彼の思想を一層明かに
するものなれば、その主要を抜抄せむ。「萬葉集を始め、いづれも可レ被ニ引見一候事
勿論候。まづ常に可レ被レ縣ニ御心一は、拾遺愚草などは、聞き得がたき所多く御座候
間、其御分別有るべく候哉。家隆の歌をば常には被レ縣ニ御心一可レ然候。逍遥院など、
其の分御座候つると承り及び候。近き世の歌は、後柏原院御製、逍遥院殿御歌など被レ
成ニ御覧一候て、上古中古當世の風情を能く御覧じ分られ、御作意をのべられ候はば殊
勝の御詠可ニ出来一候。」
要するに幽齋は、もとより殊に推奨すべき學説を有する學者にあらず。ただ當時に
於いては、教養完たき一有識家として、まさに絶えなむとせし二條流歌學の傳統を傳
へたる唯一の學者なりしなり。
以上は日本歌學史に據る。定家の詠歌大概や小倉百人一首を「行住坐臥」見習ふべ
しと云つたのは、宜しとする。「萬葉集を始め」云々も當然の意見とする。乍併、道
隆院(三條西實隆のこと)の作を推擧したり、更に、爲家の續後撰集を正風體とし花
實相應と稱するに至つては、見當が外づれ過ぎてゐる。其處が幽齋二條流の幣であ
る。又當年のいづれの人々の和歌も高度に上り得ざりし所以である。
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