津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■部分御舊記・軍事部八(3)

2021-11-03 19:21:55 | 史料

                  ・本丸石垣根ニ著候者

沢村宇右衛門与
一、的場勘平
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著内より敵出申鑓にてからち合申所岡部庄之助一所ニ居申見申候 其後ハ御本陳ニ参候
    證人口相違無之候

右同与
一、岡部庄之助
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著内より敵出申鑓にてからち合申儀ハ的場勘平・入江傳右衛門見申候 證人口相違無之候

津田三十郎与
一、野瀬角大夫    野瀬喜兵衛子
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著さまゟ鑓合申候 津田三十郎・柳瀬牛之助見申候
  一、同廿八日ニ本丸にて鑓合仕留申候 證人野田左右衛門同所にて小屋ニ居申敵を又仕留申候 證人津田三十郎右之證人
    共紛無御座候已上

津田三十郎与
一、柳瀬牛之助
  一、二月廿七日本丸石垣下にてさまゟ鑓合申候 證人野瀬角太夫・矢野山三郎ニ言葉を替シ申候 證人口相違無御座候

一、上田久兵衛
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著上ゟ鑓にて突申候 からち合申候 證人矢野勘右衛門・松山兵左衛門 證人口紛無御座候已上
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著石垣を上り候所に石にて被打落申候 又上り敵と塀越ニ鑓を突合申 證人猿木何右衛門
    證人口相違無御座候已上
 
平野九郎右衛門与
一、木造兵助
  一、二月廿七日本丸透戸口にて敵壱人突伏申候 其後同勢引申ニ付引取御旗本へ參候 證人奥田龍徳にて御座候
    證人口相違無御座候已上

右同与
一、津田六郎左衛門
  一、二月廿七日本丸水手口見付之石垣ニ著一番ニ石垣を乗越透戸構へ著敵壱人突伏申候 証人木造兵介ニ而御座候已上 
    証人口紛無御座候

丹羽亀丞与中小姓
一、樹下九郎太郎
  一、二月廿七日本丸石垣に著則石垣を上り塀越ニきりしたんと鑓突合左之かいなつかれ落申候 其証人横井牛右衛門にて御座候
    証人相違無御座候

一、財津勝助    財津少昨子中小姓
  一、二月廿七日本丸石垣に著則石垣之上にて鑓合右之手を鑓にて被突其鑓を取申候 証人弓削五郎兵衛・上田忠蔵
    証人口相違無御座候以上

一、矢野勘右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣下ニ著松山兵左衛門一所ニ居申候 石垣半分ニ上り鑓にて突合申候 証人口相違無御座候以上

一、小林助大夫
  一、二月廿七日本丸池之上石垣根ニ著矢さまゟ敵と鑓にて相突ニ仕両ノ手ニ鑓疵負申候 石にてつらをうたれ引退申候
    証人志水新丞・佐渡守内松井采女 証人口相違無御座候以上

一、小林半三郎
  一、二月廿七日海手之角拾間程西之石垣ニ著申候 証人上田忠蔵・中根半丞 鑓を入突可申と仕候処ニなた長刀ニ而鑓を二三度伐
    其後長太刀ニ私鑓を縣ヶ引取可申とて引合鑓おれ身ハ城中へ留申候 塀へ著可申と存塀柱之繩ニ取付上り鑓へは繩切落申候
    其後本丸ニ乗込夜ニ引取申候 証人上田忠蔵 証人口相違無御座候已上

一、小崎与次兵衛  
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著塀へ上り候所ニ石にて被打落又上り敵と突合申候 羽織越ニ被突申候 証人丹羽亀丞・猿木何右ヱ門
    にて御座候 証人口相違無御座候已上

一、猿木何右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著上ニ上り申候所ニ石にて二三度打被落申候 働之様子丹羽亀之丞見申候 証人口相違無御座候已上

谷主膳与
一、澤村弥平次
  一、二月廿七日本丸石垣ノ上ニ上り塀内ゟ鑓を突出シ申候を私も鑓にて突ふせき居申候   証人佐藤七左衛門 其後本丸へ乗入候
    証人口相違無御座候已上

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■山田貴司著 ガラシャ: つくられた「戦国のヒロイン」像

2021-11-03 09:08:33 | 書籍・読書

                   

                「ガラシャ・つくられた戦国のヒロイン像」2,200円   


 熊本県立美術館に居られた山田貴司氏は、現在福岡大学・人文学部歴史学科の准教授になられている。
熊本時代の氏のご活躍は周知のことであるが、平成三十年に永青文庫展示室開設十周年記念として熊本県立美術館で行われた展覧会「細川ガラシャ」はその集大成でもあったかと理解している。
ガラシャに関するこれだけの資料が、今後一堂に会することはないのではないかと言われたほどの品々を我々は展観することが出来た。
この時の図録は今では大切なガラシャに関する資料となっている。
その図録に於いてトップを飾る形で、氏の「ガラシャの生涯とそのイメージ展開」なる文章が総論として掲げられている。

この度その氏が10月15日平凡社から「ガラシャ・つくられた戦国のヒロイン像」を出版された。
私は先に、「もうガラシャはいい」といささかの拒否反応を宣言したことがあるが、山田先生の御著であれば前言を翻さなければならないと思ったことである。
ご一読されんことを・・・

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■川田順著「幽齋大居士」三三、近衛殿

2021-11-03 06:44:09 | 書籍・読書

      三三、近衛殿

 松永貞徳戴恩記から種を拾つて、紹介する。
 近衛殿が十五首の和歌を作つて、幽齋のもとに遣はした。幽齋これを見ると、器用
に詠んであるけれども、歌の本道にははづれてゐた。 「恐れあれば、難をば申し難
し。然し悪き所あるを輕薄に褒め申すも道にあらず。」と思案の結果、添削も批評もし
ないで、同題の和歌十五首作り、「御詠に引かれて愚老も斯の如く詠み候。」と返事を
したためた。かう返事したならば、自他の歌を見比べて悟るだらうと考へたのであつ
た。つまり、婉曲に批評したのである。ところが相手は悟りわろく、
「さすがの幽齋も麻呂の歌には感服したと見えて、唱和し來居つたわい。」
 と得意になつた。加之、取巻の連歌師どもに幽齋の返書を見せて、
「いづれの歌が勝ると思ふぞ。」
 といふ始末だ。取巻たちは無論追從を言つて、
「それはもう、ごぜんさまのが數段とすぐれて居られます。」
 と持上げたのだからたまらない。幽齋これを傳聞して、困つたものだと嘆息した。
 戴恩記には單に「近衛殿」とのみあつて、何人だかしかとわかりかねるが、大方
白信尹
のことであらうか。その他に、幽齋の弟子筋になる近衛家の人はちよいと見當
らぬ。信尹はすなはち有名な三貌院で、天下の能筆にして又慶長千首の歌人なるのみ
ならず、秀吉に憚られて一時薩州坊の津に遠流となつた程の苦勞人だから、幽齋の本
意を解し得なかつたといふことはあるまい。それは兎も角、この話の中身はなかなか
面白い。幽齋といふ人が心使ひのこまやかな人間であつたことがわかる。ポンとやつ
ゝけずに、先方が自發的に合點するのを待たうとしたなどは、武人ながら短氣でな
い。
 悟りの悪い人間は、「近衛殿」ならずとも古今無數にある。實はありすぎて困るの
だ。かういふ話も聞いてゐる。昔、何代目か觀世太夫が、弟子をつれて、夜おそく
鴨河の岸を歸つて來た。彼等の數十歩前を、一人の侍が謡ひながら行く。太夫、弟子
をかへりみ、
「あの謡、黙らせて見ようか。」
「大そう得意のやうですから、なかなかやめますまい。」
 觀世太夫はつかつかと武士の背後に歩み近づき、ただ一句發聲した。武士はぴたり
とやめてしまつた。名人の一句に驚いて、引きさがつたのだ。太夫のいふやう、
「あのお侍の謡は、極めて上手なのだ。それだから黙ってしまつたのさ・」
 實に佳い話だと思ふ。この武士は藝の優劣をわきまえてゐる。だから名人の一句に
驚いて引きさがつたのだ。觀世太夫の謡はうが、梅若太夫が謡はうが、自分の下手な
頓馬ごゑを倍々張り上げる人間の多い世の中だ。

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