選 評(一)
衆妙集其他遺詠作を全讀して、五十音を左に選評する。幽齋を代表する佳作は多
く餘さずと信ずるのである。出典を擧げるに當つては、衆妙集所載の歌は一々こと
わらずしてその歌の入りをる部立(春とか秋とか雑とか)のみを示すことにした。
白妙の月は秋の夜かくばかり越路の山の雪もありきや
秋部「月の比越後の國主上杉なにがしにつかはしける」と詞書あり、天正の初の頃
の作と推定する。越後の國主云々は上杉謙信にちがひない。謙信は永禄二年上洛の
時、近衛稙家から歌の教を聽いてをり、さやうの節に、藤孝とも相識つたかも知れ
ぬ。天正五年正月には藤孝から彼に和歌口傳一巻を贈りなどしてゐる。同六年三月
謙信は急逝した、歌意、藤孝京都に在つて明日を眺めながら北越を想ひやつた趣で、
皎々として白い昨今の夜の月光、越路の連峯には既に初雪が來て、その雪の白き耀き
は、恰も秋月の光の如くあつた乎、と情を寄せ、問ひ尋ねたのである。月の光を白妙
の雪のふれるかと譬へた歌、雪の光を月の影の白きによそへた歌、共に古來夥しくあ
る。その中でも藤孝の一首は、越山の新雪を聯想したところに新鮮さが認められる。
〇日下寛編纂の豐公歌集には右の歌をば、天正十六年八月十五夜、聚楽第觀月歌會に
て上杉景勝の作つたものと記載してあり、筆者の戰國時代和歌集(昭和十八年刊)には、それ
に從つて景勝の詠と擧げておいたのであつたが、其後、再考の結果、やはり衆妙集の
方を信ずるが宜しと、訂正せねばならなくなつた。
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