津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小倉藩葡萄酒奉行・上田太郎右衛門

2021-11-07 14:02:31 | 論考

 九州で唯一の日本ソムリエ協会の名誉ソムリエで、小倉葡萄酒研究会の小川研次様とのご厚誼は2017年に遡る。
私がこのブログで、日本で最初と言われる細川藩の葡萄酒つくりについて取り上げたのは、平成15年(2003:11:08up)に細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォーを書いたのが最初で、ちょうど18年になる。
その後、細川小倉藩に於ける「日本最初の葡萄酒作り」についての研究が一気に加速したように思う。
これがお付き合いの足掛かりである。過去にもいろいろ論考をお送りいただき、当ブログでご紹介してきたが、今回は私の高祖母の実方・上田家一族であり、葡萄酒つくりを奉行した上田太郎右衛門を取り上げた論考をお送りいただいた。

 太郎右衛門は、忠利公から「葡萄酒」や「あひん(阿片)」の製造を依頼されたり、長崎から「万力」を取り入れたり、また三齊公の依頼を受けて「黄飯」を作ったり、面白い活躍をしている。
そんな太郎右衛門個人をいろいろお調べいただき、私の全く承知していない知見をこの論考でご提供いただいた。
いつものことながら、ただただ感謝を申し上げるのみである。ここにご紹介申し上げる。


 

  ・・小倉藩葡萄酒奉行・上田太郎右衛門・・
                          小倉葡萄酒研究会・小川研次

 

 寛永三年(一六二六)、門司の大里で浪人だった上田太郎右衛門は小倉藩主細川忠利から召し抱えられた。
前年まで宇佐郡の郡奉行だった実兄上田忠左衛門の推挙もあったことだろう。
太郎右衛門は翌年から葡萄酒造りを行っており、既に醸造技術を有していたとみられる。
いつ、どこで習得したのだろう。まず、上田家の出自を探ってみよう。
時代は下り、享保二年(一八〇二)に天草郡高浜村の庄屋上田宜珍(よしうず)が自身のルーツを調べるために熊本藩士「上田家」を訪ねることから始まる。(「熊本行日記」東昇『十九世紀前期肥後国天草郡高浜村庄屋上田宜珍の家祖調査』)

上田弥兵衛(三百石)、上田十蔵(百五十石)、上田又之丞(二百石)、上田政之進(百石)であるが、初代上田忠左衛門又は実弟の太郎右衛門系であり、六、七代目の子孫にあたる。(「新・肥後細川藩侍帳」『肥後細川藩拾遺』)

太郎右衛門系の政之進によれば、上田四家は小倉藩に仕えた兄弟の子孫であり、元祖は忠右衛門としている。忠右衛門は福島正則の食客として大阪の陣後に細川忠興から千石の召し抱えの話があったが、老年のため息子四人が代わりに仕えた。実は兄弟は七人いて四人は細川家、一人は京都西本願寺、一人は江戸道中筋に居住、そして一人が行方不明となったが、この人物が天草上田家の先祖ではなかろうかと弥兵衛家に伝わっているという。

上田四家から「四人兄弟」としたと思われるが、忠左衛門、太郎右衛門の二家であろう。
父を「忠右衛門」又は「忠左衛門」、細川家に仕えた嫡子を同名「忠左衛門」として子孫の伝承を元に話を進める。

慶長六年(一六〇一)に安芸・備後に入封した福島正則は早速、検地を行った。「慶長六年安芸国佐西郡五日市之内皆賀村検地帳」(広島城所蔵)に牧主馬と「上田忠左衛門」の名が記されていることから、関ヶ原の戦い前後から仕えていたと思われる。
また、この年に正則は豊後国のキリシタン柱石である志賀親次を召抱え(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』) 、家中に多くのキリシタンが生まれることになる。真鍋五郎右衛門貞成(四千石)や大阪の陣後に明石掃部の二男内記やアントニオ石田司祭を匿って処刑された佃又右衛門(二千三百二石余)がいた。(ペドロ・モレホン『続日本殉教録』)

「福島正則家中分限帳」(『続群書類従第七百十四』)に長尾隼人一勝組に与力として「三百六石四斗、上田忠左衛門」とある。他に「上田」姓は六名いるが、兄弟関係は不明である。但し「太郎右衛門」の名はない。この分限帳の成立は慶長十七年(一六一二)から元和二年(一六一六)とされる。(『広島県史』近世資料編II) 

この頃、忠左衛門は五品嶽城(庄原市東城町)の在番衆であった。
大阪の陣は慶長十九年(一六一四)十一月から翌年(一六一五)の五月となるが、小倉藩細川家の「大阪御陣御武具并御人数下しらへ」(『綿考輯録巻二十七』)の「志水主人」組に「上田忠左衛門」が記されている。つまり、慶長十九年十一月以前に(冬の陣として) 忠左衛門は福島家を離れ、細川家に仕えていたことになる。この人物は上述の同一ともみられるが、子孫の伝承に従い嫡子とする。
ちなみに正則重臣の黒田蔵人や高月(上月)文右衛門らが細川家に仕えるのは元和五年(一六一九)の福島家改易後である。

忠左衛門の直系とされる又之丞の「先祖附」によると、忠左衛門は「三斎様(忠興)御代於豊前国被召出、御知行二百石被為拝領、妙解院様(忠利)御部屋住之節、仲津ニ而御奉公仕候」とあり、中津にいた忠利に仕えた。
上田兄弟四人が豊前国に来て、仕えたとあるが、「大阪御陣御人数下しらへ」には忠左衛門以外の上田姓は見られない。太郎右衛門も召し出されたのは寛永三年(一六二六)である。

元和九年(一六二三)四月九日付忠利書状に「上田忠左衛門せかれ忠蔵事、ひらどへ遣し、石なとひき候色々のてだて忠蔵おぢ(叔父)存候由ニ候間、ひらどへ忠蔵を遣し習はせ可申候」(『永青文庫研究創刊号』)とあり、忠左衛門の息子忠蔵を平戸にいる叔父から石などを引く色んな技術を習うように命じている。

天分十九年(一五五〇)、フランシスコ・ザビエルが信仰の種を蒔き、キリシタン聖地となっていた平戸であるが、忠蔵が入った頃の七十年後の風景は一変していた。
昨年一六二二年、二人の宣教師を船に乗せ密入国を企てた平山常陳らが処刑され、この事件を起因とされる五十五人が処刑された「元和の大殉教」が起きていた。また小倉で活動していたこともあるカミロ・コンスタンツォも平戸の田平で処刑された。
忠蔵の入った年はイギリス商館も撤退するという混沌とした様相であった。このような時に忠蔵の「叔父」は何故、平戸にいたのだろう。この謎に「上田家」の真相が潜んでいる。

忠左衛門は上述の通り大阪の陣以前に芸備を離れている。
政之進の伝承によれば大阪の陣以降だが、細川家に仕える四人の兄弟が同時に離国したとなる。(他の兄弟も可能性あり)その時期だが、推測されるのは慶長十八年十二月(一六一四年二月)の幕府の禁教令発布により宣教師を長崎に追放し、教会を閉鎖した時ではなかろうか。

広島にいたイエズス会日本人司祭アントニオ石田だが、一六〇三年に天正遣欧少年使節の伊東マンショ、中浦ジュリアンと共にマカオの聖パウロ学院で学んでいる。一六〇八年に司祭となった伊東は小倉、中浦は博多、石田は広島の教会に就くことになる。(高瀬弘一郎『キリシタン時代の文化と諸相』) 
一六一四年、石田は国外追放のために長崎に向かうが、翌年、再び広島へ戻り潜伏することになる。この時、明石掃部の二男内記が同行したと思われる。
正則はキリシタンを保護していたが、四人兄弟が離国するのは信仰上の問題だったかも知れない。石田と共に長崎へ向かったのだろうか。
彼らがキリシタンという内外の史料は現在のところ見出さないが、可能性も否定できない。忠左衛門が忠利に仕えたことも必然性を感じる。二人を繋ぐ接点は上述の司祭であるからだ。

   利が忠蔵に平戸行きを命じた翌年には日本人司祭が豊前に入る。
「中浦ジュリアンは当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
「豊前の領主は長岡越中殿(忠興)の子細川越中殿(忠利)で、その父とは大いに違い、宣教師に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。」(同上)
忠利は中浦を匿い、母ガラシャの追悼ミサを挙行していたのである。ミサには「キリストの御血」である葡萄酒が必要だった。
太郎右衛門の葡萄酒造りは一六三二年まで細川家転封直前まで行われていた。しかし、中浦はその年末、天草出身の同宿トマス良寛と共に小倉城下で捕縛される。

寛永二年(一六二五)の細川家惣奉行書状に「忠左衛門尉二番めのせかれ加左衛門と申者、平戸ニ忠左衛門弟居申候ニ養子ニ遣置申候」(『永青文庫研究創刊号』)とあり、忠左衛門の二男が平戸にいる弟の養子になっていたのである。
さらに「拾五六ニ成申せかれも壱人御座候」とあり、十五、六歳の息子がいたが、寛永九年(一六三二)に召し出された久兵衛とみられ(系図では二男とされている)、七代目が上述の又之丞である。
この三男の年齢から父忠左衛門の年齢を推測してみよう。
この年(一六二五)に長男忠蔵を満十八歳、二男加左衛門十六歳、三男十四歳としたら父親が三十八歳ぐらいであろう。つまり一五八七年生まれとなる。関ヶ原の戦いの時は十四歳、大阪冬の陣では二十七歳である。「寛文四年(一六六四) 六月御侍帳」にも名があり、御年七十七歳となるが、十歳若くすれば、十歳の時に長男が生まれたことになるので、ギリギリの線である。太郎右衛門はおよそ十歳程離れた弟とみる。

ここで「叔父」の正体を推考してみよう。
まず考えられるのは南蛮技術を有する太郎右衛門である。しかし、二代目は「弥兵衛」(「真源院様御代御侍名附」)という嫡子がいたので養子を迎えるのは考え難い。
では何故、太郎右衛門は南蛮技術を有していたのか。いつ、どこで誰から学んだのかである。
広島を離れたのが禁教令以降(一六一四年)として、長崎や平戸で宣教師に学ぶことは至難の業である。命の危険に晒されながら潜伏しなければならなかったからである。では、禁教令前としたら、広島時代であり、石田司祭もいたから充分に考えられる。
次は小倉時代である。太郎右衛門が寛永三年(一六二六)に召し抱えられるまでの浪人時代である。その時の司祭は潜伏していた中浦ジュリアンをおいて他にはいない。天正遣欧少年使節としてヨーロッパへ行き、スペイン国王フェリペ二世やローマ教皇と謁見した中浦は本物の「葡萄酒」に触れている。半世紀にも及ぶ信仰生活から得た南蛮文化、学問の知識や技術は日本人としては当代随一である。
太郎右衛門が中浦から学んだとしたら、忠利の指示以外は考えられない。つまり仕官の条件として南蛮技術を身につけたのである。広島説よりも小倉説の方が真実味を帯びる。

では、平戸の「叔父」は誰だろう。
宜珍によれば初代は「助右衛門正信」(一五七五〜一六四七年)とし、大阪の陣の後の元和三年(一六一七)、息子の定正と共に家臣田中清兵衛、清水安左衛門、僧志白を引き連れ、天草郡高浜村へ移住とある。(「正信墓碑」『十九世紀前期肥後国天草郡高浜村庄屋上田宜珍の家祖調査』)
しかし、上述のように忠左衛門の推定出生年は一五八七年である。正信は弟どころか一回り上の兄となる。正信の出生年に信を置くならば別人となり、平戸ではなく天草に直に入ったことになる。

この初代上田正信墓碑は文政元年(一八一八)に宜珍が建立したものである。(同上) 「福島正則」「大阪陣の後」「七人の兄弟」ともあり、上田家子孫の伝承を盛り込んでいることから、正信出生についても不確実である。
出生年が一五八七年以降であれば、忠左衛門弟の可能性がある。
そうすれば、正信を平戸の「叔父」で上田助右衛門正信、息子(養子)が兄忠左衛門の二男加左衛門こと「定正」となる。天草上田家では「勘右衛門定正」としている。(「天草陶石と上田家の歴史」〜天草高浜焼寿芳堂HP)
しかし、ここでまた何故に天草なのかと疑問が起きる。島ごとキリシタンである天草である。

イエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスの「コーロス徴収文書」(一六一七年)に天草下島キリシタン三十四名が代表として署名している。高浜村は崎之津と同じ三名であり、大江村は五名である。(松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』)
この数字は二百年後の文化二年(一八〇五)、崎津村、大江村、今富村、高浜村でキリシタン暴露事件で理解できる。四ヵ村で総数五千名以上という驚異の数である。世に言う「天草崩れ」である。崎津村は約千七百人、大江村は二千百人で村民の約七割がキリシタンであった。今富村は千名で六割だが、高浜村は三百名とおよそ一割だった。
この時、今富村庄屋は上田演五右衛門と高浜村庄屋は実兄上田宜珍であった。(大橋幸泰『潜伏キリシタン』)
高浜村の減少は島原藩から忖度された上田家が転宗させた結果と考えられるが、当時は相応のキリシタンがいたはずである。
このような状況下で上田家がキリシタンと無縁とは考え難い。初代上田正信が天草郡高浜村へ移った理由は平戸での迫害ではなかろうか。

寛永元年(一六二四)には、平戸藩主松浦隆信は三十八人のキリシタンを処刑したとあり(『日本切支丹宗門史』) 、ますます迫害が激化していた。
寛永三年(一六二六)二月九日付けの書状に平戸の「叔父」の養子になった弟加左衛門が小倉に戻っていた。父忠左衛門が惣庄屋と出入り事件を起こし入牢され、裁判があったためである。忠利は「平戸のハ他国之者」だから人に預けてはならないと申し付けている。(『永青文庫研究創刊号』)
つまり、この時点では平戸に養父がいたことになる。
もし、この忠蔵「叔父」父子が天草へ渡ったとしたら、この年かも知れない。

「大矢野の島には、やはり肥後を訪問したフランシスコ・ボルドリーノがいた。この地方の領主は、キリシタンを虐めなかった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
また、イエズス会日本管区長のコーロスが潜伏したのも天草だった。(五野井隆史『島原之乱とキリシタン』) コンフラリア(信徒組織)がしっかりと機能していたことも、「天草崩れ」で理解できよう。
このような状況下で正信・正定父子は高浜村に潜伏したのである。
天草が司祭不在となるのは、寛永十年(一六三三)、日本人司祭斉藤小左衛門が捕縛された時である。(『日本切支丹宗門史』)

平戸藩御用窯である三川内焼の祖とされる朝鮮陶工巨関(こせき)の孫の代にあたる今村正名(弥治兵衛)は寛文二年(一六六二)、天草陶石を発見した。(上田家資料館) この陶石を採掘したのが高浜村の上田家である。その後、天草上田家は二代目定正から代々庄屋を務めることとなる。初代がキリシタンとしても、庄屋の立場から二代目以降に棄教・転宗したことも考えられる。

豊前、平戸、天草に残した上田家の足跡はキリシタンの歴史と重なる。
それは太郎右衛門が小倉藩で葡萄酒を造っていたことが物語っている。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 時代(ニ)

2021-11-07 06:49:04 | 先祖附

                  「歌仙幽齋」 時代(ニ)

 一般歴史に關することは省略して、幽齋に因縁ふかき和歌界の状態を述べよう。
 細川幽齋が呱々の聲を擧げた室町末期より、彼が老熟した文禄・慶長の時代に亘つ
て斯界を概觀するに、鎌倉時代からの傳統依然として、師範には堂上歌人等が控へて
ゐた。さうして、彼等は、血統に於いて藤原定家を祖とするが、もしくは歌學に於い
て彼を宗とするが、或はその兩方からあつて、彼と無關係に超然たる人はなかつたと
云つて宜しい。すなはち、三條西實隆・三條西公條・三條西實枝・九條稙通らの人々
は定家の子孫ではなかつたけれども、彼の嫡流なる二條家の歌學を傳へた。冷泉爲和
・同爲益・同爲満らは、定家の血統の人々で、彼の依鉢を傳へた。飛鳥井雅綱・同雅
春・同雅敦らは雅經の後胤であつたけれども、定家を歌聖と尊崇することに於いて冷
泉・三條西の人々と相違はなかつた。「飛鳥井家は準二條家ともいふべきもの」と佐
々木信綱博士著日本歌學史に書かれた如くである。堂上以外に在つて、部門出の専門
歌人として、東常縁の子孫なる常慶・尚胤・常氏などがゐたけれども、この人々も、
二條流の傍流であつた。
 これら師範又は専門家に就いて、武人らは和歌(又は連歌)を學んだことは、戰國
次代の特異なる現象であつた。有名の武將にして文藻を喜ばなかつた者は、むしろ例
外に属する。その中に在つて、幽齋が最も顕れたのであつた。彼は三條西實枝の門に
入つたが、元龜三年及び天正四年の二回に亘つて和歌秘訣を授けられ、爾来斯界に漸
く重きをなし、遂には二條家歌學の權與となつた。堂上歌人にして彼の教を聽く者甚
多く、古今傳授を彼より承けた人さへ數者に及んだ。戰國末期の斯道が武將の幽齋に
依つて維持たされたのは、時代相の現れである。

   當時は又、和歌よりも連歌(付随して發句)の方が一般に流行し、歌人の間に於い
ては勿論、武人の間にも瀰漫した。和歌を詠まざる武將は稀に有つたとしても、連歌
を翫ばぬ武士は殆どなかつたと云つて宜しい。幽齋も亦これを樂しんだ。幽齋の生れ
た時に宗祇・兼載・肖柏・宗長らは既に亡くなつてゐたが、守武・宗鑑・宗二・紹巴   
・昌叱・貞徳らは彼と同時代に生存した。

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