津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水前寺成趣園350年記念講演・シンポジウム

2021-11-05 15:16:50 | 講演会

 水前寺成趣園は、第三代熊本藩主細川綱利公の大規模な作事により1671年に完成し、今年は築庭から350年を迎えます。
これを記念して、長い歴史に育まれた細川文化と、築庭当時の姿を今に残す貴重な大名庭園の魅力を広く国内外に発信する記念祭が開催されます。               
                                                                                                                                    (熊本市HPより引用)

記念公演・シンポジウム~肥後細川家の魅力に迫る~
  開催日:11月27日(土)
  時間:午後1時~4時半
  場所:熊本城ホール メインホール(入場無料)
  観覧方法:要事前申込     申し込みはこちら 水前寺成趣園サイト) 
  内容:
     (1)基調講演「水前寺成趣園・熊本城と細川綱利」  講師:千田嘉博さん(城郭考古学者)
     (2)パネルディスカッション
      テーマ:「肥後細川家の魅力に迫る」
      出演:
        ・千田嘉博さん(基調講演者)  
        ・吉丸良治さん(熊本県文化協会名誉会長)
        ・小林寛子さん(東海大学教授)
        ・牟礼正稔さん(兵庫県赤穂市市長)
      コーディネーター:稲葉継陽さん(熊本大学永青文庫研究センター長)


                                          

                   

 付け足し:熊本史談会では上記シンポジウムにもパネリストとしてご出席の、熊本県文化協会名誉会長の吉丸良治氏を
      講師
にお迎えして例会を11月20日、熊本市民会館6号会議室にて開催します。
      詳細につきましては後日、当サイトまたは熊本日日新聞文化面にてお知らせします。
      多くの皆さんのご参加をお待ちいたします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■快晴率

2021-11-05 11:27:36 | 熊本

 毎年文化の日の頃は雨が降らないと言われる。快晴率というデータがあり、これにより証明がなされている。
熊本では年間の快晴の日は34日だそうだが、11月4日が一番高く快晴率は83~4%だそうな。

 熊本は今日も良い天気、相変わらずみぞおち辺りが痛くて不愉快極まりないが10時過ぎ散歩に出た。
自衛隊通りのいつもの桜並木の側道を歩きながら、このお天気ならば又桜が咲いているかもしれないと上を見上げて歩いてみた。
前に見た木かそうでないかはしかとしないが、やはり二三の木でまた桜が咲いているのを見かけた。
更に歩いて自衛隊正門の少し手前の、例年一番咲きをする桜の木を見上げたら、これも見事に花をつけていた。
この木は例年、必ずと言っていいほど他の桜よりは半月ほど早く開花する。染井吉野ではあるが、少し花の色が白っぽい。
他の木ともども、あまりの温かさに狂い咲きしている。来年の花の時期は大丈夫ですかと考えてしまう。
明後日から下り坂になり数日雨模様らしい。7日は立冬、気温も下がりいよいよ冬に入る。
桜も震え上がる季節となる。

                

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■部分御舊記・軍事部八(5)本丸働

2021-11-05 08:55:15 | 史料

       ・本丸働

一、藤掛蔵人
  一、二月廿七日本丸へ乗込敵壱人討捕申印西川権四郎ニ申せ申候 証人権四郎口首慥ニ見届申候以上

坂崎清左ヱ門与
一、生嶋平右衛門
  一、二月廿七日本丸之塀ヲ越候処ニ敵かゝり申候を壱人突伏せ申候 証人寺本八左衛門組ノ永富七左衛門ニ此段慥ニ申渡候已上
  一、寺本八左衛門ヲ突申候敵の鑓私取申候 八左衛門ニ此段慥ニ申渡候已上
  一、証人永富七左衛門口相違無御座候 寺本八左ヱ門口上書付のことく

一、松野平兵衛
  一、二月廿七日本丸へ乗込敵壱人討捕申二ヶ所鑓手負申候 印松野右京・小笠原備前ニ見せ申候
  一、証人口相違無御座候以上

沢村宇右ヱ門与
一、富田摠兵衛
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵壱人突たをし申候 証人加賀山太郎兵衛以上
  一、証人之口相違無御座候已上

津田三十郎与
一 、井上新丞   孫兵衛
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵弐人鑓付申候 証人杉武兵衛
  一、証人之口相違無御座候已上 

一、杉 武兵衛 
  一、二月廿七日本丸へ乗込頸壱ッ捕申候 証人井上新丞
  一、証人之口相違無御座候已上

真下喜左ヱ門与
一、志賀安丞
  一、二月廿七日与頭喜左衛門ニ付本丸へ入申候 少之手ニあい申候 証人門池次郎兵衛
  一、門池次郎兵衛口刀打仕無残所働之由以上 

安井太右衛門与
一、多田十右衛門
  一、二月廿七日本丸へ乗込頸壱ッ取申候 証人荒木助左ヱ門
  一、証人之口相違無御座候已上

寺本久太郎与
一、村上太左衛門 
  一、二月廿七日本丸にて敵壱人鑓にて仕留申候 小倉少大夫証人にて御座候
  一、証人之口相違無御座候以上

明石源左衛門与
一、奥村次郎右衛門 
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵鑓持候て参候を突ふせ申候 此段長岡佐渡守内松井新太郎見申候以上
  一、証人新太郎吉相突にて御座候へとも次郎右衛門早く御座候付頸渡し申候

右同与
一、吉岡瀬兵衛
  一、二月廿七日本丸へ乗込鑓にて壱人突申候 此段山本三蔵見申候
  一、証人山本三蔵口鑓にてつき留申所紛無御座候已上

御納戸
一、森 作兵衛
  一、二月廿七日本丸にて敵壱人切殺申候 証人野々村藤大夫 
  一、証人久太郎野々村藤大夫口相違無御座候已上

寺本久太郎与
一、加藤安大夫
  一、二月廿七日本丸へ乗込敵壱人馬上筒にて討留申候 証人早水市郎兵衛ニ而御座候以上

寺内五兵衛与
一、斎藤源丞
  一、二月廿七日ニ先手へ御使ニ被遣 御意之通申候所ニ東角ゟ乗込申ニ付而私も乗込申候 鉄炮にて一人打殺シ申候
    二ノ宮長右衛門見申候已上
  一、証人二ノ宮長右衛門口無相違候以上
寺本久太郎与
一、森田弥五右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣下にて石を打申候敵私半弓にていたて申候 其後本丸ニ乗込敵余多かたまり居申候を半弓にて敵をふせき
    一人射殺し申候 証人後藤権右衛門
  一、後藤権右衛門口上慥ニ見届申候已上

(附紙)軍法破候由ニて賞不被行 後御暇ニて立退松平大和守直矩ニ仕フ)       ・・軍法破りがいかなるものであったのかは不明・・
一、早水忠兵衛 (附紙)御台所衆
  一、二月廿七日本丸ニ乗込半弓にて敵三人いふせ申候 内弐人当座ニたをれ一人は手負申候 此証拠加藤安大夫・森作兵衛・生田又助内
    井口新左ヱ門存候
  一、其後津川四郎右衛門ニあい申候而其後相詰 明ル廿八日迄詰申候 其内ノ働四郎右衛門殿御存知被成候已上
  一、証人加藤安大夫又津川四郎右衛門殿口上如書付

本庄角兵衛与
一、江口弥左衛門
  一、二月廿七日先手へ御使ニ被遣ニ付へいきわゟ弓にて二人いたをし申候 渡辺与左衛門見届申候 城内にて弐人いたをし申候
    証人寺本久太郎・加藤安大夫見届申候已上
  一、渡辺与左衛門口相違無御座候
  一、加藤安大夫口上如書付

寺内五兵衛与
一、上野市左衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ゟ一間程下にて鉄炮敵壱人討取申候 八並少介・野脇久允証人にて御座候 証人口相違無御座候以上

右同与
一、八並少介
  一、二月廿七日本丸石垣際ニ著申鉄炮にて敵一人打ころし申候 証人田中左兵衛ニ而御座候 証人口相違無御座候

寺内五兵衛与
一、野脇久丞
  一、二月廿七日本丸之塀際へ御使ニ参鉄炮にて敵一人討取申候 証人品川六兵衛 証人口相違無御座候

一、塩津与三右衛門
  一、二月廿七日本丸へ乗込塀内ノ敵十四五人居候を鑓を合追くつし申候 証人田原平兵衛ニ而御座候
    証人口相違無御座候已上

一、山本三蔵
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵壱人討取申候 証人加来勘三郎・吉岡新兵衛ニ而御座候 証人口相違無御座候已上

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」三五、終焉

2021-11-05 06:29:00 | 書籍・読書

      三五、終焉

 慶長十五年八月二十日、七十七歳の幽齋のいのちは、京都三條車屋町の館で、朝露
と共に消えた。八月二十日といへば、定家の正忌に當る。二條流歌學の維持者なりし
幽齋として、これ以上に望ましき最期の日はない。京都と小倉とに分骨して葬つた
ヶ原役後、忠興は豊前四十萬石に封ぜられ、小倉城に移つたが、父幽齋は、或時は彼
地で、或時は洛東吉田の閑居で暮らしたらしい。慶弔十四年秋上京し、翌年夏から病
みついたのであつた。葬典は九州にてとの遺言により、九月十三日、小倉城の東なる
「野がみが原」で、豪勢極まる葬儀が執行された。群書類從所収、末松宗賢の幽齋尊
翁御葬記に委曲しい。「記」は式後六日目に書かれたもので、信用するに十分だか
ら少々抜いて見よう。
 大徳寺、南禪寺、天龍寺、相國寺、建仁寺等から導師七人、その他の僧百五十餘人
が招請された。方八町の式場には垣を結び廻し、境内の北には靈柩を安置すべき龕前
堂を建てた。堂は十二間四方の幕垣で圍み、幕の内部は尺地も餘さず敷物を敷きつ
め、四方に華表を立てた。堂の四隅の柱は青緞子で巻き、軒引の水には、紫空色の絹
布を用ゐ、恰も紫雲の柵曳いたやうだ。辰の一點、彦山の山伏五百人、法螺貝を吹き
立て駈足で式場を通りぬけた。悪魔を拂うためだらう。午の刻、靈柩がついた。故人
秘藏の月毛の駒が、全身白絹で包まれ、四人の舎人に曳かれて來る。次に弓、鑓、長
刀、鋏箱、袋太刀等々。次に位牌は、當年八歳の孫(玄蕃頭興元の子)が侍の肩に乗
りながら、持つてゐた。それから靈柩。これは五色に彩り、箔にて磨き、金のかなも
のを用ゐ、玉の瓔珞を下げ、風鈴を掛けたから、日に輝き、風に和して、美妙の音を
立てた。そのうしろから喪主忠興、侍數百人を連れ、冠を被り、にぶ色の束帯、短き
太刀を佩き、中啓を持ち、草履穿きで從ふ。等々々。
 抜き書すればなほ幾らでもあるが、やめておかう。孫が侍の肩に乗りながら位牌を
持つとは、なんと美しい、可愛らしい光景だ。嚴粛莊重を極めて身動きもならぬやう
な儀禮でありながら、その中心には肩車した小童が居る。他人の我等でさへ微笑まし
くなる。幽齋大居士の靈は、さぞ感悦したであらう。

             上篇「幽齋大居士」了


         次回からは下篇「歌仙幽齋」を取り上げます。     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする