津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「花岡興輝著作撰集」

2021-11-25 12:12:58 | 書籍・読書

               

 一週間ほど前、史談会のN君から電話があり、「ブックオフに花岡先生の著作撰集が出ていますよ。持ってますか?」ということであった。
値段は出版時価格の半分ほどである。
このブックオフは市電の健軍終点にあり、立地が良いせいか御客でにぎわっている。
我が家から2㌔少々、散歩がてら出かけた。店員さんに場所を聞き棚をさがすと、真新しい箱に入ったその本があった。
とても古書とは思えない新品同様の品である。4,000数百円のつもりで居たら、4,000円ぽっきりである。
これは買わずばなるまいと即断して購入、帰りは少々重たい荷物を抱えての散歩とあいなった。
この本は何度か図書館でコピーをさせて戴いているが、やはり座右にあるとうれしいものだ。

ちなみに今日の地元新聞は、先生のご子息花岡興文氏(九州大比較社会文化研究院・学術研究者)が熊本県多良木町の宗像氏文書の調査から、
「宗像才鶴」は毛利家臣の子、宗像大社の当主であることを突き止められて公表されたことを報じている。
興文先生のご活躍もうれしい限りである。

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 遺著(ニ)

2021-11-25 11:21:06 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 遺著(ニ)

 衆妙集拾遺なるもの有る由、年山紀聞に書いてある。紀聞に云、「今按。玄旨公の
本集は飛鳥井亞相雅章卿えらび玉ひて、衆妙集と名付させたまふは、後水尾院の勅題
なり。慈光寺中務大輔源冬仲朝臣、玄旨公をしたはるあまり。かの撰びすてられし
歌を拾ひあつめ、妙外集と名づけて、ひめおかれ侍りし」これは耳寄りであるが、残
念ながら、今日その妙外集を見るよしもない。

 九州道の記は五十四歳の時、天正十五年夏の秀吉島津氏征伐に參戰した紀行であ
る。この紀行は、甫庵太閤記に全文載せてある。文章は普通の出來榮えだけれど
も、その中に、入れた和歌には、一生の佳吟と思はれるものが、數首まじつてゐる。
精しくは次章「選評」で紹介しよう。東國陣道之記は五十七歳、天正十八年の小田原
征伐に從軍した時の手記で、これも散文の間に和歌などまじへてゐる。これ亦「選
評」に依つて知つて戴き度い。蒲生氏郷にも文禄元年初、會津から上洛した節の日記
あり、假託の疑なきにあらざる北條氏康に武蔵野紀行あり、更に古くは太田道灌に
も平安紀行といふものがある。いづれも名將らが戰時の忙中閑として面白い。

 歌論の類としては、多くはいづれも他人の記録したもので、佐方宗佐筆記の幽齋論
聞書、寛仁親王に上つた歌口傳心持、天正十四年の詠歌大概抄、慶長七年成の古今集
口訣、延寶六年刊の細川玄旨聞書全集、烏丸光廣の耳底記、松永貞徳の戴恩記などが
傳はつてゐる。これらに依つて、幽齋の歌論の如何なりしものなるかを知り得るので
あるが、それは既に佐々木信綱博士著日本歌學史に要領を盡くして紹介されてゐるの
で、ここに博士の文を自由に摘録させていただく。

 耳底記は和歌に關する雑話にして、歌書、故實、釋義等につきし幽齋の説の断片に
して、中に師實枝の説として述べしもの少なからず。聞書は、四十項にわたりて、作
歌に關する説を述べしものなるが、その説、詠歌大概、八雲御抄、愚問賢註等の抜
抄、もしくは祖述なり。

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■部分御舊記・軍事部八(16)寛永拾九年有馬働承処之覚(2)

2021-11-25 06:56:15 | 史料

                        寛永拾九年有馬働承処之覚(2)

一、財津市兵衛
   二月廿七日城乗之刻尾越儀兵衛一所にて同前之稼之申候 儀兵衛ニ御知行被下候節儀兵衛ニ申候ハ私ニ御知行被下候
   ハゝ
市兵衛にも可被下儀と存之由申と承候 右市兵衛儀かせき能御座候つるとハ申候へとも様子しかと存たるもの無
   御座候
御帳ニ茂見へ不申候以上
一、高見権右衛門
   二月廿七日城乗之刻本丸石垣へ上り稼申之由明細御帳に御座候 一所にて同前之稼仕者ニハ御褒美被遣候得とも権右
   衛門
儀御下知なしに御先へ参候付 越中様御前悪御座候以上
御褒美被遣候
一、矢野勘右衛門
   正月元旦有馬城攻之刻かせき能御座候様ニ其節有馬にても沙汰仕候 御帳之表にも其通ニ御座候 二月廿七日ニも石垣
   へ著稼申躰是亦具ニ御帳ニ御座候 是は両度之かせきにて御座候已上
御中小姓ニ而御座候を御知行弐百石被遣候
一、竹原少大夫
   二月廿七日城乗之刻本丸石垣之角より西海手之方へ早ク著申候 角二三間ほと西之方ニ塀之こわれ口御座候 これより
   城中見入候ヘハさして敵も見へ不申候 然とも未御人数一円無御座候付又角之方へ参見申候ヘハ角ゟ北三四間目ニ御
   家中侍四人石垣際ニ居申候 少大夫も其所へ参一番ニ石垣へ参申候 犬走をつたい角より西塀之こはれ口右ニ見置候付
   夫にて敵とかゝり合申候 然処に左のわきより何者とも不存これも同然ニかゝり合申候 其もの石垣下へ打落され申候
   少大夫儀も鑓・石にてうち落され上帯もきれ申刀・わきさしもおち申候 又立上り両人ともニ石垣ニ付居申候 此一人
   ハ谷主膳組ニ付申牢人各務四兵衛と申者にて御座候 証拠之状共取置申之由暫間御座候而十江太兵衛なと参申候 少大
   夫少手負不自由ニ御座候付太兵衛を頼上帯仕之由其後追々御人数も参申候 其所にてかせき申者とも何も少大夫を証
   拠ニ立申候 左様ニ御座候得ハ御人数先引取候へと度々御使参候付何も引取申候 もはや具足著仕もの一人も無御座候
   時少大夫も跡ゟ石垣之角より少下へ参候て東平を見申候ヘハ残ルものは引申候 夫より松木之御座候所へ出候ヘハ又
   てき大勢居申候 互ニ鑓を構罷居候此段上村理右衛門・松尾小才次御鉄炮之もの召連手前之敵とも大勢打せ申候由少
   大夫儀石垣へ一番ニ乗一番ニ鑓にてかゝり合申其以後城中にてもかせき申と相考へ申候 其上天草御出陳之砌より心
   之働尤ニ存候儀ともニ御座候 此段紙面ニ乗せ申所は無御座候已上
御褒美被遣候
一、金守形右衛門
   二月廿七日城乗之刻横井牛右衛門手負申と相見へ本丸石垣ニ面を付居申則言葉を替シ其儘石垣へ上り犬走ニ罷居候
   城中之敵一間間中ほと引取大勢居申候間形右衛門塀へ乗掛り十文字を以二三度うち込申候得とも敵ニ当り不申候
   塀の少こわめより敵鑓にて形右衛門左之わきけさんの上をつき候へとも身ニハ通不申候 其所何とも働にくき所にて
   御座候ゆへ海手之角塀のこわれ口御座候 形右衛門石垣を乗申時其所に誰とハ不存居申候而働申を右二見申候付犬走
   りをつたい其所へ参鑓をふりなをし敵を見申候内ニ鉄炮にて口より耳のわきへうちぬかれたをれ申候 又立上り候へ
   共働申儀不罷成石垣を漸おり申候 右之鑓をうち込申所ハ石橋宇兵衛弟同久兵衛と申牢人見届申候 此証拠佐渡守手前
   より具ニ吟味仕候由朝山斎助手負候て居申間側へより互にうなつき候て坂下へおり申之由 又馬場三郎左衛門殿御内
   野中五兵衛所より証拠之状越申之由承候以上
一、明石源左衛門
   二月廿七日城乗之刻本丸石垣下ニ罷居候中ニ左右ともニ三度なたれ申候得とも一度も居所も去不申候 此所之証拠続
   平右衛門・下村五兵衛乍遠差物ニ而見届候 其後石垣を乗塀之上へ上り敵と互ニ鑓にてからち合申候間ニ塀たおれ申
   候ニ付石垣下へ落申候 ■■ての証拠馬場三郎左衛門様被成御覧に付越中様へ此段被仰上候 二月廿區日津川四郎右衛
   門御使にて様子御尋被成候 石垣下へ落申候以後又石垣へ上り申塀の破口にて敵と暫からち合申候 其時鉄炮にてうた
   れ申候得とも刀ノ柄ニ当り柄おれ候て身ニハ通り不申候 爰にて之証拠猿木何右衛門にて御座候 同廿八日ニ本丸松木
   之際にて敵大勢居申候中ニ一先ニ居申もの一人鑓にて掛合則仕留申くびを取申候 爰にて之証拠町熊之助にて御座候
   熊之助申候ハつき合申ハ見申候 仕留申候事ハ不存候由 右之くび沢村大学ニ見せ申之由承候以上

     以上
     寛永拾九年十二月十一日

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■散歩みやげ

2021-11-24 13:10:07 | 徒然

 朝の散歩の途中の、健軍の生鮮食品のマーケット・Mの前は大賑わいで、一般の通行人は植込みの反対側の県道の側道を歩るかなければならない。
その側道を歩いていると、植え込みの中にA3程の紙に何やら書かれてその上に何かの実が置かれている。
「持って帰ってください」とある。うしろに咲いている朝顔のような白い花の実らしく、直径3㎝ほどの柘榴のようにはじけた部分からは沢山の黒い種が見えている。
一つだけ頂戴して歩き出したが、証拠写真をと思い引き返して撮ったのがこの写真である。
我が家のベランダに、大きな植木鉢が余っている。これに種をいくつか撒いてまた観察をしてみようと思う。
良い散歩土産である。感謝。本日の散歩4.6㌔。花の名前は判らず・・調査中。

      
      

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 遺著(一)

2021-11-24 08:24:29 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 遺著(一)

 細川幽齋の遺著としては、第一に家集の衆妙集あり、次に九州道の記と東國陣道之
記との、兩種の記行歌文あり、次に門下が聞書をしるし留めた歌論の類若干が傳へら
れてゐる。

 衆妙集は、幽齋薨後六十年を經て、霊元天皇の寛文十一年(二三三一)に、幽齋の
曾孫細川丹後守行孝の請に依つて、飛鳥井雅章編纂にかかり、一二細川幽齋家集とも
云ふ。元禄四年に初めて刊行された。雅章は雅經の後胤で、應仁前後に名の顕れた雅
世・雅親などの子孫に當るが、後水尾院より古今集の奥義を傳げて戴き、もとより二
條流幽齋の傳統に属した堂上歌人である。集の内容は初めの三巻に和歌を、四巻に九
州道の記を、五巻に東國陣道之記を収む。歌數約八百首あつて、詠百首和歌及び詠二
十首和歌を巻頭に置き、次で春・夏・秋・冬・戀・雑と部立す。巻末、漢文第十一暦
季冬、雅章の跋文あり、その中に「歌數八百餘首、偶以清書之本皇之御覧
其名衆妙集是玄旨之集面玄之又玄之意歟、又被御筆外題、法印身後
之榮、何事可之乎、誰人不之哉。」法皇とは、後水尾院の御事である。幽齋
玄旨の穪は、いふ迄もなく、彼が和歌の理想とした所の、俊成の標語「幽玄」に基づ
くのであつたが、後水尾院、その穪より聯想し給ひ、玄之玄なるものの御心にて「衆
妙集」とあそばされ、外題に御染筆までも賜ふとは、まことに雅章の感激した如く、
幽齋の餘榮極まれりと云ふべし。古今の歌人中、幽齋程ほどの果報者は稀有なのであ
る。この家集に關して、佐々木信綱博士は、「就中、時に臨んで詠んだ詞書の作が多
く、これは史乘を補ふのみならず、殆ど題詠ばかりであつた。當時の家集中に、一異
彩を放つものである」と言はれた。それは按ふに、天正九年正月安土にて、八月十五
日夜關白殿云々、朝鮮國正使松堂老人の時に唱和云々、天正二十年入唐の御沙汰あり
し年の元旦に、文禄二年鹿児島にて元旦を迎へて、慶長に念八月昌山御不例のよし聞
きて云々、などの詞書、それから二種の從軍紀行の歌などを意味せられたのであら
う。又、博士は「萬葉假字を用ゐて記し、萬葉集の詞を用ゐた歌もある」と指摘して
居られる。更に博士は近世和歌史の中に幽齋の家集を概評して、「彼の歌風は、やす
らかに正しいのを理想とした二條流の歌風をよく代表してゐる。さすがにその中に、
詠み口の比較的確かなところが見えるのは、彼が當第及び後世に重んぜられた所以を
爲してゐると思ふ。古歌の趣向や成句を借り用ゐた歌もまた多い」と述べて居られ
る。

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■中国文学者・【狩野君山】 七絶・五行書 紅紙 掛軸 共箱・高瀬武次郎極 熊本・京都帝大教授

2021-11-24 06:43:56 | オークション

    中国文学者・【狩野君山】 七絶・五行書 紅紙 掛軸 共箱・高瀬武次郎極 熊本・京都帝大教授 

 
       

                         君山・狩野直喜 は、祖母の叔父にあたる人である。多くの皆さんが応札しておられる。横合いから応札することは慎みたいと思う。

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■部分御舊記・軍事部八(16)寛永拾九年有馬働承処之覚(1)

2021-11-23 12:00:57 | 先祖附

      寛永拾九年有馬働承処之覚(1)

一、津田六郎左衛門
   二月廿七日有馬城乗之刻本丸水の手口の坂中にて本丸と出丸と両方より鉄砲にてうちすくめられ候ニ付一先引取可申
   哉と申すものも御座候つれとも引申儀ハ見苦敷御座候と申候て其所を一番ニ走り出水の手口ほうあて石垣わきへ早く
   著申候 其石垣上ニハ敵のあしよわとも未居申候由少間御座候間此石垣一番ニ乗越申内ノ透戸越ニ付居申候間ニ左右之
   升形より石なとひたとうちかけ申少々手負申候 然処ニ城中より敵一人鑓をふり透戸口へ参六郎左衛門脇に居申候もの
   をつき込少かゝり合申候ヘハ敵其儘鑓を引すり城中へ引取申候 其後御人数先引取候へと御諚之由承すとのきわを引の
   きほうあての石垣きわへ参候内ニ石にてうちたおされ申節死仕候を内之者引掛蓮池まて罷下候 右之証拠始中終ともニ
   木造兵助にて御座候由六郎左衛門儀始中後透戸際ニ相詰稼申候と聞申候以上
一、藤掛蔵人
   二月廿七日城乗之刻馬場三郎左衛門様蓮池の脇に御座候を御本陳より被成御覧いごし参候様ニ思召候間たてをもたせ
   参候へと被 仰付候付則たてをもたせ三郎左衛門様御側へ参右被仰付通申上候ヘハ御手前ハ不苦候本丸石垣下七八間
   ほとニたてをつかせたて裏ゟ上矢をうたせたく思召候由被仰候間則名名字を申上たてともを持せ岸を上り申候時沢村
   宇右衛門ニ参逢言葉を替シ石垣際より一間半下ニたてをつきならへ立石助兵衛ニ蔵人申候ハ御鉄砲たて裏ゟうたせ候
   へ蔵人事ハたて奉行ニ而候間たて裏ニ居候而ハいかゝニ存候間たての表ゟ下知可仕之由申候てたてより外へ出下知仕
   たてをしかとつかせ申候而ゟ石垣ハ乗掛り上ニ居申弓削五郎兵衛と度々言葉を替シ申候 其後何も先引取候へと 御諚
   ニ候へとも御人数引取候てより後たてを引取可申と津川四郎右衛門ニも断其儘罷居候 然処ニ石垣之角ゟ乗込申躰ニ御
   坐候付則蔵人も乗込申城中にて敵一人つきふせ申候 くびハ西川権四郎ニ見せ申之由其所へ蔵人預りのたてより外ニハ
   一ッも不参候と聞へ申候已上
一、入江八郎兵衛
   二月廿七日城乗之刻三ノ丸一番ニ乗込申候 此外ニ三人同前ニ乗申候 八郎兵衛儀ハ本丸塀ニ著申候処ニ塀之破より二鑓
   つかれ申手痛ニ付引取申之由是は両■■■■■■■■御座候以上
一、加藤安大夫
   二月廿七日城乗之刻御人数先引取候へとの御使ニ本丸下まで参候 御人数大分引取申候 然処ニ城中見申候ヘハ敵もさの
   ミ見へ不申候間乗込申候而見不申と早水忠兵衛ニ言葉を替シ則乗込申候 其辺にてハ其身一番ニ乗込候と存候へとも数
   ヶ所之儀にて御座候付差出ニ一番とハ書不申候 御帰陳以後御吟味之上を以益田哉一右衛門一番乗ニ罷成候 弥一右衛門
   乗込候節敵壱人つきふせ申候を安大夫見届申則証拠人ニ罷成候 弥一右衛門は角より西海手之方ゟ乗込申安大夫儀は角
   より北東之方ゟ乗込申城中にて参逢候 然時ハ安大夫儀も乗込申候段ハ一二をあらそひ候様二存と申之由其上城中にて
   御預之小筒にて手きわニ敵一人打ふせ申候 此証拠人早水忠兵衛にて御座候由安大夫儀越中守様江御老中ゟ別紙ニ書物 
   上り申能かせきニ相究申様ニ承候已上
一、乃美新八
   二月廿七日城乗之刻二ノ丸・本丸にても働能御座候様二御帰陣以後拾二と風聞仕候 更ともしかと仕たる儀ハ不承届候
   其身ニ鉄炮も五ッ当り申候へとも身ニハ一ッ通申候 新八儀今程江戸ニ罷居候間手を廻し可承様も無御座候以上

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■【希少本】永源師檀紀年録並付録 正伝永源院蔵本【日本史 細川氏】

2021-11-23 07:32:57 | オークション

             【希少本】永源師檀紀年録並付録 正伝永源院蔵本【日本史 細川氏】

                

 ヤフオクにこの本が出品されるなど思ってみませんでしたので、大変驚いています。
細川家の根本史料として知られますが、熊本県立図書館でも所蔵していません。発行部数も少なくなかなか入手がむつかしい希少本です。
即決価12,000円とはこれも驚きですね。フリーにしておけば結構上がるのではないかと思いますけど。
欲しいなと思いますが、一冊持ってますから当方はご遠慮することに致します。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 人物(二)

2021-11-22 14:42:40 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 人物(二)

 彼が信長に從ひ、秀吉に從ひ、終には家康にも事へた閲歴を皮相に觀察して、明哲
保身の亞流と貶しめてはならぬ。彼の去就には常に立派な動機を持つてゐた。本能寺
變を聞いて光秀と断交したのは、餘りにも當然の如くであるが、細川にして見れば明
智は最も近き親戚であつた。大儀滅親の氣魄あつたればこそ、幽齋の如き去就が出來
たのだ。關原役に三成の誘惑を斥け敢然として東軍に投じたのも、おのれ父子の出世
のためではない。三成の人物を熟知せる彼として、西軍に加勢することは、治國平天
下の初一念が許さなかつた。

 久松潜一博士は其著なる日本文學評論史の總論歌論篇に於いて、幽齋の歌論を檢討
した章の中に「彼が慶長五年、石田三成のために田邉城にかこまれた時、幽齋が古今
傳授者であるために特に圍をとかれた所にも彼の中世歌學の最後の傳統者らしい點が
見られるのである。さうして彼がかくの如き種々の主君に仕へても、さういふ點を超
越して學問の傳統者としての位置を保持し得たのは、彼の圓満調和的な性格があずか
つて力がある。「彼もまた宗祇と同じく、調和的な人物であつたのである。と述べら
れて居る。これも、幽齋の學問ぶりの跡を檢すれば、一つの立派な觀察にちがひな
い。久松博士は「調和的」すなはち綜合的の性格を認めたので、決して明哲保身の意
ではあるまい。

 彼が戰國の世に在つて第一流の教養人なりしことも、尊敬に値する。彼の和歌に關
しては既に詳述した。それ以外にも、彼は殆ど信ずべからざる程の多能者であつた。
刀劍を相すること、茶を點てること、太鼓を打つこと、亂舞すること、包丁を持つこ
と、有識古實に精しいこと等々、而かもそのいづれも、檀那藝にあらずして、當時第
一流の藝であつた。まことに、幽齋ぐらゐ幅の廣い人は、古今に多く匹儔をみない。

 既に引用した末松宗賢の幽齋尊翁御葬禮記(慶長十五年九月)の一部を再び抜書す
る。「先和歌の道は奥義をきはめ、其かみの源三位入道にもまされりとなん。弓馬禮
等は天下の龜鑑たり。かみは雲の上より下は田舎に至る迄も、はる/\と心づくしの
波を分、歌連歌の點、色紙短冊の所望、禮法書札、亂舞太鼓の傳授、御門前馬の立あ
へる隙もなし。是ぞ誠に文武二道の名將なるべき」又、松永貞徳の戴恩記(元禄十五
年刊)の中にも、「此の藤孝公は、御家は細川家にて、貴くおはしけれども凡下の者
をも賤しめ給はず、諸藝に達し給へども他をそしり給はず、禪法に心を盡くし、神道
を窮め、空言を傳へたる奇特不思議を實とせず、物祝をし給はず、さりとて物を破り
給はず、一つとして誇る所なき仁君なり」と激賞し、當年の多くの人々が驕慢、贅澤
淫亂、惰弱、輕薄、不信心なるに比して雲泥の差と評している。

 慶長十七年、南禪寺崇傳の書いた幽齋肖像讃が遺つてゐるが、支那の古事を引いた
難解の形式的漢文で、誇張も過ぎてゐるゆゑ、轉録を止める。池邊義象著「細川幽齋」
の巻頭に揚げられた元田東野翁幽齋公評論といふ一文は、堂々たる幽齋論ながら、長
文なので、これも紹介を略するが、研究の志ある人々には是非一讀を薦める。

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■部分御舊記・軍事部八(15)寛永十五年五月十三日従妙解公より三齊公江之御書之内・・ 他

2021-11-22 06:09:44 | 史料

      寛永十五年五月十三日従妙解公より三齊公江之御書之内
          全文有馬一件ニ付御奉書御内書并公辺自他御書通之条下ニ出

一、家中有馬之せんさくの事色々ニ撰候わけニ而ハ無御座候 今度大勢手ニ相申候故証拠無御座候ヘハ不知儀にて御座候故其面々働証拠
  を立申候を承候而遣ニ而御座候 五人十人の手ニ相候にて候ハゝ其儀茂知申候得とも俄に縣付大勢一度ニ入込申候故めん/\働候事
  も其身/\も証拠を立紛ぬ様ニ申たかり候間それを承候而遣候ぎふ・関原・豊後・大阪なとにて手ニ相候ものとも何茂被 召出
  御知行・御ほうひそれ/\ニ被下候を見申候間左様に仕候而見申度存如此御座候 昔加様之せんさく全無御座候由能者も所ニより
  時ニよりおちも存之由ニ付而信長様之御代二ハ加様之せんさく一切無御座候由承届候 是ニ付而得御意度事斗多御座候つる 立允・
  式部なとも俄之儀二而候ニ無油断かけ付満足仕候事


       寛永十五年五月十三日従妙解公より三齊公江之御書之内
          全文有馬城攻之条下ニ出

一、壱番乗之事我等手にてハ海手之すミからハ増田弥一右衛門にて候 弥一右衛門おい岡本伝十郎続而はいり火を付候又鉄炮之者
  山田五兵衛・平井甚兵衛・岩男牧右衛門・斎藤少蔵はいり候て是も火を付候由申候 扨弥一右衛門と一度ニ歩小姓都甲太兵衛・
  後藤権右衛門・池永源大夫乗込由申候 是ハ三人一度ニはいり候由申候 又証拠人も右三人にて候事
一、益田弥一右衛門事ハ塀際ニ付て居候時石谷十蔵手ニ居候牢人錦歟錦襴歟の頭巾仕候もの一所ニ居申候 又寺尾左助鉄炮之もの
  上矢を打候而弥一右衛門後二五人居候而見申候 証拠人多候間弥一右衛門海手の早き乗込之証拠人多キ者にて候弥一右衛門二
        ■にたるほとニ有御小姓三人はいり候事
一、蓮池の上のひらより海手の升形の間まてニ早ク乗候もの早水市郎兵衛・津川四郎右ヱ門・川北九大夫・山田新九郎ニ而候
  海手ハ蓮池の方よりハ見へ不申候故何れはやく候と申事紛候得とも爰ニ存候事御入候諸手のものも我等も其方も海手のすミ
  ゟ乗込候ハ無紛候間海手一番たるへく如何被存候哉之事
一、右一番乗と申ニ間もなく先手のもの共乗込候不及申候事
一、八代之儀ハ 三斎様江様子申上候得と被仰越候間立允せんさく不仕候由ニ付不存候
一、大方せんさく仕候而侍共ニ遣申候間先月五月ニ入月も日も能候間一礼可申候 扨次第ニ能々念を入聞届候而可申付と存候事
一、二ノ丸本丸内の働
一、本丸岸ニ付候もの
一、本丸石垣際ニ付候もの
一、本丸塀際に付候もの
一、本丸一番のり右之次第御をせんさく証拠次第聞せ候 勿論同所ニ而も早き遅色々可有之候事
一、鉄炮なと能打せ候ものも勿論可有之候 今度ハ急ニ聞候てハ成事にて無之候事


      寛永十五年五月廿五日従妙解公真源公江之御書之内
          全文御書付并御書部御父子様并御連枝様御書通之条下ニ出

一、有馬にて討死又国ニ居候牢人下々まて申付様家中手取に相申候ものせんさくゆる/\仕候事永日向殿へ夕庵遣被申此比鶴なと
  音信ニ遣候も夕庵持参申候処あなたより返事あるへき由得其意存候事


                      年月不知 十一月廿五日右同断

一、今度有馬にて能候もの爰もとのなミに可申付候由監物所へ被申越候 一段尤候其段ニ申付候事
一、年月方向仕候もの共之事是ハ有馬にてよきものと一度にハ不入儀候間くたり候て相談可申候 書付ハ請取置候可心安候事


      寛永十五年七月十九日従三齊公妙解公江之御書之内  
          全文右同断

一、摠見院殿御代は武篇せんさくなとの事不承及と申候事可為不審と存候 又岐阜・関原・豊後・大坂之儀ハ可有穿鑿わけ我々手前
  二は一切無之候つる 其内大坂にて之事は五六人之内少之跡先之事申候シ又 太閤様御代之儀二付偽申者も候つれとも卒度も
  せんさく可在之わけにて無之候シ事
一、右之ものハ功者今のものハ初心なると申わけハ在之間敷事かと存候 前も年寄たる衆も若き衆も候つれとも何方か功者共初心
  成とも申候事も無之候つる事
一、先度申候ハ歴々の者共何もせんさく仕きくき儀と存ニ付存寄通与風申候つる別之入わけ我々一切不存候事

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■熊本史談会12月例会、講師の御著「城に会いにゆく‐もののふの鼓動が聞こえる 」

2021-11-21 16:26:58 | 書籍・読書
  熊本史談会では12月例会に於いて、元熊本日々新聞社の記者で、熊日情報文化センター常務、熊本シティエフエム常務などを勤められた
佐渡滋氏を講師にお迎えして「日本の城めぐり」をお聞きする。

そのお話は、日本100名城をすべて回られて以下の著を出版されたという氏のご体験から、中身の濃いものをうかがえるものと期待している。
又氏は『耕治人(こうはると)の想念と校歌の運気』で「第43回熊本県民文芸賞「評論・ノンフイクション」部門の最優秀賞を得られた。

その表彰式は12月10日、熊本史談会は12月の18日(土)お祝いを申し上げながら、お話を拝聴することになる。

日本100名城をすべて回った元熊日記者による全国お城巡歴記。
  に会いにゆく‐もののふの鼓動が聞こえる

       

   著 者  :佐渡 滋(元熊本日日新聞記者)
   体 裁  :A5判、並製本、152ページ
   出版年月日:2020年1月25日
   定 価  :2,200円(本体2,000円+税10%)
   I S B N   :978-4-908313-57-8 C0021
   制作・発売:熊日出版    本のご購入について

     (Amazonでの購入)

内容紹介

  日本100名城をすべて回った元熊日記者による全国お城巡歴記。第一章には、著者が撮影した名城の写真とともに、城の歴史紀行を収録。
  第二章では、熊本城筆頭家老兼八代城主であった加藤右馬允正方のエピソードと、肥後を二分して治めた小西行長と加藤清正のライバル物語を、
  史実を基に創作。元新聞記者ならではの分かりやすい文章で、城への思いが感じられる一冊。

【掲載している城】

  熊本城、八代城、小田原城、箕輪城、彦根城、犬山城、七尾城、一乗谷城、丸岡城、和歌山城、備中松山城、福山城、月山富田城、吉田郡山城、松江城、津和野城、
  大洲城、今治城、宇和島城、伊予松山城、中津城、平戸城、肥前名護屋城、岡城、人吉城、今帰仁城、中城城、首里城、会津城、弘前城、五稜郭、二条城、高知城など

著者紹介

  1943年、八代市生まれ。1967年、熊本日日新聞社入社。社会部記者を振り出しに、宇城支局長、社会部次長、企画部長。
  その後、熊日情報文化センター常務、熊本シティエフエム常務を経て、一般財団法人熊本公徳会事務局長を歴任。
  著書に『新九州人国記』(熊本日日新聞社、共著)、『黒川温泉「急成長」を読む』(熊日情報文化センター)、記者生活伝『壺中 日月長し』(熊日出版)

 

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■借金の調査

2021-11-21 08:22:50 | オークション

          松井興長・有吉英貴連署書状一通 長岡監物(是季)宛 

   虫食い文書を綺麗に裏打ちされているようだ。倉橋少兵衛なる人物から細川藩の錚々たる上級家臣が借金して
   いることに対し、何やら調べ始めていることが判る。
   沢村宇右衛門が沢村大学の養子となるのは寛永十年(1633)の事であるから、この書面は肥後入国後のものである。
   そしてこの文書の署名者・家老の有吉頼母(英貴)がなくなる正保二年(1645)までの12年の間のことである。

        ・沢村宇右衛門   寛永十年沢村大学養子となる・松井庄二郎 後・家老職13,000石
        ・道家左近衛門   御小姓組 千七十三石
        ・西郡要人     人持衆・五番組頭 二千石(真源院様御代御侍名附)(真源院様御代御侍免撫帳)
        ・丹羽亀丞     千石 人持衆併組迯衆  (真源院様御代御侍名附)
        ・加々山権左衛門  御側弓鉄炮頭并組外衆 五百石・持筒頭 (肥後御入国宿割帳)
        ・奥野半大夫    不明

   虫食いと共に判読できない部分を何とか読み下したいと思っている。そしてこの文書の背景を探ってみたい。
   天草島原の乱の戦費か?

   

                                         一筆申入候 然ハ倉橋
                  少兵衛殿金子御家中
                  衆かり被申候ニ付而其
                  様子先日預御状候間
                  ■其意則爰元にて
                  せんさく仕候處沢村
                  宇右衛門 道家左近衛門
                  西郡要人 丹羽亀丞
                  加々山権左衛門 奥村半大夫
                  此六人ハ連判にて借用
                  被仕通亀丞所ニ■■
                  仕被置付而右六人ハ
                  志連(しれ)申候 残衆々儀は
                                                                  ■■ 申候頃より■■
                  被仕候様ニ御奉行衆も
                  堅申渡■■御せんさく
                  仕候有無之儀追而可申
                  入候恐惶謹言

                       有頼母
                   卯月廿日  花押
                       長佐渡
                         花押

                   長岡監物様
                      人々御中
                  

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■お気の毒さま

2021-11-20 07:17:47 | 徒然

 うちの奥方は必ず寝る前に夜空を見上げるほどの「天体」好きである。
140年ぶりとかいう昨晩の月蝕には大いに期待して待っていた。
私が住むAPは、完全南向きである。時間が来てもお月様が見えない。
前の日に二回目ワクチン接種して頭痛がする(一回目も)といって一日休んでいたが、APの北と南にある駐車場までおりて眺めに行った。
「見えない・・」と少々機嫌が悪い。頭痛のせいもあるのだろう。「しばらくすれば登ってくるさ」と私も気になり始めた。
何度もベランダに出てみるが見えない。どうやらAPの真上に位置しているのではないか?
TVでは熊本城内の「細川刑部邸」のもみじやイチョウの紅葉の中から、月蝕の様子が放送されている。
奥方のイライラぶりが見て取れる。「もう・・生きているうちには見れないのョ。」と大いに不満げである。
蝕が終了しても月の姿は見えない。体調が悪いのもあいまって、誠にお気の毒様としか言いようがない。

(ご愁傷様と書きかけたが、先の選挙番組でタレントの某の不愉快な発言を見ていたから、学習していて慌てて打ち直した)

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 人物(一)

2021-11-20 06:51:24 | 先祖附

              「歌仙幽齋」 人物(一)

 細川幽齋は、歌人としてよりも人物として一層尊敬に値する存在であつた。世間に
は、専門の藝能にのみすぐれて、人間として一向敬服し難い者が多ぎる。幸いにして
我が幽齋は、撰を異にした。戰國の境遇に鍛冶されて、巌の上に突立てた柱の如き人
物と成つたのである。

 歌名に覆はれて、武人の幽齋はややもすれば小さく見られるが、それは傳紀を究め
ることがおろそかな爲である。太田和泉守資房(一牛と號す)の信長記や小瀬道喜(甫
庵)の太閤記は、それぞれ織田豊臣の右筆によつて書かれ、大方信用すべき文獻であ
るが、それらの中から幽齋に關する記事を拾ひよみしても、彼が並々ならぬ勇將なり
しことは窺ひ得る。天正元年七月、足利義昭が信長を討たんと擧兵した時、その主將
岩成主税頭といふ剛の者の楯籠つた淀城を、藤孝は奮戰して攻略した。同三年八月、
信長が朝倉氏の餘黨を討伐せんと越前に出馬した際、藤孝は随行した。同四年初夏、
信長大阪本願寺の石山寺を攻めた時、藤孝は先陣を承り、森口表に放火して力戰し
た。同五年春、紀州雑賀征伐にも參戰して異常の働きをなした由は、信長記に委曲し
い。同年暮秋の頃には、信忠の軍に從つて大和の松永久秀を伐ち、遂に彼を敗死せし
めた。同八年丹後に封ぜられ、辛苦して其地の一色氏を平らぐ。信長亡後は、秀吉に
属し、天正十三年三月根來征伐に從ひ、蒲生氏郷らと共に積善寺城を攻略した。同十
五年の九州征伐、同十八年の小田原征伐には、いづれも從軍し、殊に韮山城攻圍には
苦戰したらしい。文禄元年七月には島津歳久問責使として薩州へ赴いた。朝鮮役には
名護屋に在つて秀吉の帷幄に參し、渡海はしなかつた。慶長五年秋の田邊籠城は、武
將幽齋の面目を十分發揮し、有終の美をなしたものと云へる。

 彼は忠厚の人で、義理を重んじた。細川家が代々室町幕臣なりしことを省み、暗愚
なる義昭をも庇護して、信長にすがり、彼を足利氏最後の將軍にまでもり立てたので
あつた。義昭が忘恩して擧兵の時、藤孝、信長に属して淀城を屠つたのは、決して足
利氏の舊恩に反いたわけではない。義昭愚劣にして、到底亂世を治める人物にあらざ
る事を、慨嘆した餘りであつた。後年義昭零落して大阪に病臥すと聞くや、幽齋は京
都から微行して彼を慰藉した。忘恩どころではない。彼は若くして、治國平天下の悲
願を懐いてゐたのだ。いかにもして、應仁以來の混亂を拾収し、蒼生を安んじ度きも
のと、初一念を抱いてゐたのだ。身は足利氏の出なるも、皇室の式微を嘆き、信長の
忠誠にすがつたならば尊皇の素志を貫徹し得べしと信じたのである。

 細川兩家記を讀むと、足利義昭は永禄十一年十一月入洛して「細川殿の屋形」に滞
在し、同月廿二日將軍拝命の御禮に參内したが、廿四日には織田信長に宛てて感謝の
「御内書」を贈つた。その全文「今度國々之凶徒等、不日不時悉令對治
之、速入洛候條、武勇天下第一也、當家再興不之、彌國家之安治偏頼入之外
他、猶藤孝、惟政可申也」  藤孝は一乘允覺慶(義昭)を救出した命の親でもあ
り、旁々、惟政可申也と重んぜられたのは當然である。と同時に、鹽尻に記せる、
藤孝は、將軍義晴の子で、義輝や義昭の弟だと云ふ一説が、必ずしも浮説ならずと思
はれる。

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■部分御舊記・軍事部八(14)向五郎八書物壱包三通

2021-11-19 10:58:03 | 先祖附

      ■向(井)五郎八書物壱包三通

一、二月廿七日之城責之時拙者罷出候時ハ戸田与市其外牢人衆と罷出三ノ丸土井乗越申候而二の丸の木戸口より五六間前にて鉄炮にて
  すねを打レ申候 此証拠ハ矢城源太左衛門・柳田平兵衛と申牢人衆にて御座候事
一、手負申候ゆへはやくかけ申候儀成兼候而二ノ丸へ右之衆ゟ少遅候ゆへ手ニ逢不申候 孤独地にて鉄を半分過こちおり申候而二ノ丸
  中ほとにて越中様御内鎌田源大夫私ニ手所見せ申理り先へ参候事
一、二ノ丸未浜手の土井ノ上にて肥後様ニも縣御目候内ニ手所縣御目其ゟ先へ急申候而本丸之下ニ而馬場三郎左ヱ門殿へ逢申候而
  手所見せ申候 坂ののほり口にひかへ罷有御家中中根市左ヱ門殿ニ断り申候 手負申候ゆへ諸勢を乗越上へあかり申候事成不申候
  罷在候処ニ日入自分ニ本丸先乗衆被申候 我等・戸田与市・生田喜三郎三人一度本丸へあかり申候 我等共一所ニ立花殿御内池部勘解由
  親子罷在候間互言葉をかわし本丸我等共居申候 右之方ニ越中守のほりも弐本立申候事
一、廿八日の朝ハこやへ何も罷帰故我等も手負故帰候而夜明時分本丸出角ノ石垣の下ニ罷在候 足叶不申候間たゝのほり申儀成不申候所ニ
  のほり橋かけ申候衆御座候間石垣の上へあかりやりにてつき合候処ニ我等小者とびおり又敵と仕合耳の根を鑓にて少つかれ申候事
  先荒増申上候已上
   二月廿八日         向井五郎八判
     本ノママ(
      岡式部少様まいる

     
  二月廿七日之城責之刻三ノ丸へいをのり申候時ハ戸田与一郎・屋代源太左衛門・柳田平兵衛と申牢人一所ニのり申候 二ノ丸
  木戸口より五六ま前にて拙者向すねを鉄炮にてうたれ申候 此証拠ニハ屋代源太左衛門・柳田平兵衛と申牢人にて御座候事
一、手負申候得とも二ノ丸之木戸迄敵の居申候内ニ参著木戸越ニ鑓を入候得ともはや内へ方々より乗こミ候衆敵を打取被申候
  にて残ル敵ハ本丸之方江にけ申候と見へ申候間我等も一人無念ニ存木戸ゟ右之方之土居をのり候而敵をおい申候得とも足叶ヒ
  かね候ゆへおい付不申所ニ越中様内鎌田源大夫殿ニ二ノ丸中ほとにて相申候而手柄見せ申候而鑓をつゑニ仕先へかせき申所ニ
  二ノ丸之末浜之方土居にて肥後様江懸御目御馬廻衆ニ手所を縣御目候而夫ゟ本丸へ急申候而坂下にて馬場三郎左ヱ門ニ相申手
  所見せ見せ申候得ハのけ候へと種々被仰候へとも本丸きわにて殊之外何れも働御座候間足叶かね候へとも坂中迄上り候ヘハ
                           
  上より人百斗おちかゝり手所を殊外うたれ申候間無是非かへ罷在候処ニ越中様御内中根市左衛門殿頓て上ニ御座候間手負申
  様子具ニ理り候手坂中ニひかへ罷在候 自然市左ヱ門殿御失念候半も不存候 御尋可被候 右之所にて少いきをつき罷在候所ニ
  先衆本丸へ乗被申候間生田喜三郎・戸田与一郎・屋代源太左衛門・柳田平兵衛なとゝ申牢人衆と一度ニ拙者も本丸へのり申候
  本丸二て右之浪人衆又立花殿御内池辺勘解由・同角兵衛一所ニ罷在候 其場ニ越中様御のほりたち申候 少相隔申候而御のほり
  大将衆へ言葉をかわし不申其夜之七時分迄右之場ニ罷在候得とも先ニハさくを御つけ何もとりさたに敵ハつめの丸へ引取申候
  間鉄炮責ニ被成候様ニ牢人共申候間小屋へ罷帰食たべ候間夜明時分ニつめ可申之由にて大勢引取被申候間我等も本丸ヲ罷出
  越中様御陳所へ帰り申候 廿八日之夜明時分ニ何も牢人衆同道仕参候得とも我等足まかひ不申ゆへおそく本丸石かき之下迄参候
  ヘハ足川権太郎・山本十郎右衛門・林弥兵衛なとニ相申候得ハ本丸へ心縣候得とも諸勢石垣之上ニ居被申候ニ付石垣ニのほり
  申儀成不申候其上敵くびをのへきられ申様成躰と承候間是ニひかへ居申由ニ候間其より拙者ハ越中様御陳所へ参縣御目 又本丸
  へ心縣石かきのきわ迄参候へとも足かなひ不申候ゆへひかへ居申候処ニのほり橋かけにて乗申人御座候間其時我等も石垣江上
  り申候て城中ヲ見申候得ハ敵四五人死人之中よりおきあかり石垣下ニ而何もとしやい申候所ニ我等小者とびおり首を一ッ取申
  候而より何も石垣より此方へおり申候 我等も越中様御本陳まて罷帰候 其刻ハ敵一人も城中見へ不申候間右之通ニ御座候 以来ハ
  何もニ右之段御尋少もいつわり御座候ハゝ我等ニ被仰聞可被下候爲其如此御座候 越中様江も右之様子御次而之刻具ニ被仰上可
  被下候以上

    三月朔日            向井五郎八
       長岡式部少様  
  

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