津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 人物(二)

2021-11-22 14:42:40 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 人物(二)

 彼が信長に從ひ、秀吉に從ひ、終には家康にも事へた閲歴を皮相に觀察して、明哲
保身の亞流と貶しめてはならぬ。彼の去就には常に立派な動機を持つてゐた。本能寺
變を聞いて光秀と断交したのは、餘りにも當然の如くであるが、細川にして見れば明
智は最も近き親戚であつた。大儀滅親の氣魄あつたればこそ、幽齋の如き去就が出來
たのだ。關原役に三成の誘惑を斥け敢然として東軍に投じたのも、おのれ父子の出世
のためではない。三成の人物を熟知せる彼として、西軍に加勢することは、治國平天
下の初一念が許さなかつた。

 久松潜一博士は其著なる日本文學評論史の總論歌論篇に於いて、幽齋の歌論を檢討
した章の中に「彼が慶長五年、石田三成のために田邉城にかこまれた時、幽齋が古今
傳授者であるために特に圍をとかれた所にも彼の中世歌學の最後の傳統者らしい點が
見られるのである。さうして彼がかくの如き種々の主君に仕へても、さういふ點を超
越して學問の傳統者としての位置を保持し得たのは、彼の圓満調和的な性格があずか
つて力がある。「彼もまた宗祇と同じく、調和的な人物であつたのである。と述べら
れて居る。これも、幽齋の學問ぶりの跡を檢すれば、一つの立派な觀察にちがひな
い。久松博士は「調和的」すなはち綜合的の性格を認めたので、決して明哲保身の意
ではあるまい。

 彼が戰國の世に在つて第一流の教養人なりしことも、尊敬に値する。彼の和歌に關
しては既に詳述した。それ以外にも、彼は殆ど信ずべからざる程の多能者であつた。
刀劍を相すること、茶を點てること、太鼓を打つこと、亂舞すること、包丁を持つこ
と、有識古實に精しいこと等々、而かもそのいづれも、檀那藝にあらずして、當時第
一流の藝であつた。まことに、幽齋ぐらゐ幅の廣い人は、古今に多く匹儔をみない。

 既に引用した末松宗賢の幽齋尊翁御葬禮記(慶長十五年九月)の一部を再び抜書す
る。「先和歌の道は奥義をきはめ、其かみの源三位入道にもまされりとなん。弓馬禮
等は天下の龜鑑たり。かみは雲の上より下は田舎に至る迄も、はる/\と心づくしの
波を分、歌連歌の點、色紙短冊の所望、禮法書札、亂舞太鼓の傳授、御門前馬の立あ
へる隙もなし。是ぞ誠に文武二道の名將なるべき」又、松永貞徳の戴恩記(元禄十五
年刊)の中にも、「此の藤孝公は、御家は細川家にて、貴くおはしけれども凡下の者
をも賤しめ給はず、諸藝に達し給へども他をそしり給はず、禪法に心を盡くし、神道
を窮め、空言を傳へたる奇特不思議を實とせず、物祝をし給はず、さりとて物を破り
給はず、一つとして誇る所なき仁君なり」と激賞し、當年の多くの人々が驕慢、贅澤
淫亂、惰弱、輕薄、不信心なるに比して雲泥の差と評している。

 慶長十七年、南禪寺崇傳の書いた幽齋肖像讃が遺つてゐるが、支那の古事を引いた
難解の形式的漢文で、誇張も過ぎてゐるゆゑ、轉録を止める。池邊義象著「細川幽齋」
の巻頭に揚げられた元田東野翁幽齋公評論といふ一文は、堂々たる幽齋論ながら、長
文なので、これも紹介を略するが、研究の志ある人々には是非一讀を薦める。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■部分御舊記・軍事部八(15)寛永十五年五月十三日従妙解公より三齊公江之御書之内・・ 他

2021-11-22 06:09:44 | 史料

      寛永十五年五月十三日従妙解公より三齊公江之御書之内
          全文有馬一件ニ付御奉書御内書并公辺自他御書通之条下ニ出

一、家中有馬之せんさくの事色々ニ撰候わけニ而ハ無御座候 今度大勢手ニ相申候故証拠無御座候ヘハ不知儀にて御座候故其面々働証拠
  を立申候を承候而遣ニ而御座候 五人十人の手ニ相候にて候ハゝ其儀茂知申候得とも俄に縣付大勢一度ニ入込申候故めん/\働候事
  も其身/\も証拠を立紛ぬ様ニ申たかり候間それを承候而遣候ぎふ・関原・豊後・大阪なとにて手ニ相候ものとも何茂被 召出
  御知行・御ほうひそれ/\ニ被下候を見申候間左様に仕候而見申度存如此御座候 昔加様之せんさく全無御座候由能者も所ニより
  時ニよりおちも存之由ニ付而信長様之御代二ハ加様之せんさく一切無御座候由承届候 是ニ付而得御意度事斗多御座候つる 立允・
  式部なとも俄之儀二而候ニ無油断かけ付満足仕候事


       寛永十五年五月十三日従妙解公より三齊公江之御書之内
          全文有馬城攻之条下ニ出

一、壱番乗之事我等手にてハ海手之すミからハ増田弥一右衛門にて候 弥一右衛門おい岡本伝十郎続而はいり火を付候又鉄炮之者
  山田五兵衛・平井甚兵衛・岩男牧右衛門・斎藤少蔵はいり候て是も火を付候由申候 扨弥一右衛門と一度ニ歩小姓都甲太兵衛・
  後藤権右衛門・池永源大夫乗込由申候 是ハ三人一度ニはいり候由申候 又証拠人も右三人にて候事
一、益田弥一右衛門事ハ塀際ニ付て居候時石谷十蔵手ニ居候牢人錦歟錦襴歟の頭巾仕候もの一所ニ居申候 又寺尾左助鉄炮之もの
  上矢を打候而弥一右衛門後二五人居候而見申候 証拠人多候間弥一右衛門海手の早き乗込之証拠人多キ者にて候弥一右衛門二
        ■にたるほとニ有御小姓三人はいり候事
一、蓮池の上のひらより海手の升形の間まてニ早ク乗候もの早水市郎兵衛・津川四郎右ヱ門・川北九大夫・山田新九郎ニ而候
  海手ハ蓮池の方よりハ見へ不申候故何れはやく候と申事紛候得とも爰ニ存候事御入候諸手のものも我等も其方も海手のすミ
  ゟ乗込候ハ無紛候間海手一番たるへく如何被存候哉之事
一、右一番乗と申ニ間もなく先手のもの共乗込候不及申候事
一、八代之儀ハ 三斎様江様子申上候得と被仰越候間立允せんさく不仕候由ニ付不存候
一、大方せんさく仕候而侍共ニ遣申候間先月五月ニ入月も日も能候間一礼可申候 扨次第ニ能々念を入聞届候而可申付と存候事
一、二ノ丸本丸内の働
一、本丸岸ニ付候もの
一、本丸石垣際ニ付候もの
一、本丸塀際に付候もの
一、本丸一番のり右之次第御をせんさく証拠次第聞せ候 勿論同所ニ而も早き遅色々可有之候事
一、鉄炮なと能打せ候ものも勿論可有之候 今度ハ急ニ聞候てハ成事にて無之候事


      寛永十五年五月廿五日従妙解公真源公江之御書之内
          全文御書付并御書部御父子様并御連枝様御書通之条下ニ出

一、有馬にて討死又国ニ居候牢人下々まて申付様家中手取に相申候ものせんさくゆる/\仕候事永日向殿へ夕庵遣被申此比鶴なと
  音信ニ遣候も夕庵持参申候処あなたより返事あるへき由得其意存候事


                      年月不知 十一月廿五日右同断

一、今度有馬にて能候もの爰もとのなミに可申付候由監物所へ被申越候 一段尤候其段ニ申付候事
一、年月方向仕候もの共之事是ハ有馬にてよきものと一度にハ不入儀候間くたり候て相談可申候 書付ハ請取置候可心安候事


      寛永十五年七月十九日従三齊公妙解公江之御書之内  
          全文右同断

一、摠見院殿御代は武篇せんさくなとの事不承及と申候事可為不審と存候 又岐阜・関原・豊後・大坂之儀ハ可有穿鑿わけ我々手前
  二は一切無之候つる 其内大坂にて之事は五六人之内少之跡先之事申候シ又 太閤様御代之儀二付偽申者も候つれとも卒度も
  せんさく可在之わけにて無之候シ事
一、右之ものハ功者今のものハ初心なると申わけハ在之間敷事かと存候 前も年寄たる衆も若き衆も候つれとも何方か功者共初心
  成とも申候事も無之候つる事
一、先度申候ハ歴々の者共何もせんさく仕きくき儀と存ニ付存寄通与風申候つる別之入わけ我々一切不存候事

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする