津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「花岡興輝著作撰集」

2021-11-25 12:12:58 | 書籍・読書

               

 一週間ほど前、史談会のN君から電話があり、「ブックオフに花岡先生の著作撰集が出ていますよ。持ってますか?」ということであった。
値段は出版時価格の半分ほどである。
このブックオフは市電の健軍終点にあり、立地が良いせいか御客でにぎわっている。
我が家から2㌔少々、散歩がてら出かけた。店員さんに場所を聞き棚をさがすと、真新しい箱に入ったその本があった。
とても古書とは思えない新品同様の品である。4,000数百円のつもりで居たら、4,000円ぽっきりである。
これは買わずばなるまいと即断して購入、帰りは少々重たい荷物を抱えての散歩とあいなった。
この本は何度か図書館でコピーをさせて戴いているが、やはり座右にあるとうれしいものだ。

ちなみに今日の地元新聞は、先生のご子息花岡興文氏(九州大比較社会文化研究院・学術研究者)が熊本県多良木町の宗像氏文書の調査から、
「宗像才鶴」は毛利家臣の子、宗像大社の当主であることを突き止められて公表されたことを報じている。
興文先生のご活躍もうれしい限りである。

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 遺著(ニ)

2021-11-25 11:21:06 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 遺著(ニ)

 衆妙集拾遺なるもの有る由、年山紀聞に書いてある。紀聞に云、「今按。玄旨公の
本集は飛鳥井亞相雅章卿えらび玉ひて、衆妙集と名付させたまふは、後水尾院の勅題
なり。慈光寺中務大輔源冬仲朝臣、玄旨公をしたはるあまり。かの撰びすてられし
歌を拾ひあつめ、妙外集と名づけて、ひめおかれ侍りし」これは耳寄りであるが、残
念ながら、今日その妙外集を見るよしもない。

 九州道の記は五十四歳の時、天正十五年夏の秀吉島津氏征伐に參戰した紀行であ
る。この紀行は、甫庵太閤記に全文載せてある。文章は普通の出來榮えだけれど
も、その中に、入れた和歌には、一生の佳吟と思はれるものが、數首まじつてゐる。
精しくは次章「選評」で紹介しよう。東國陣道之記は五十七歳、天正十八年の小田原
征伐に從軍した時の手記で、これも散文の間に和歌などまじへてゐる。これ亦「選
評」に依つて知つて戴き度い。蒲生氏郷にも文禄元年初、會津から上洛した節の日記
あり、假託の疑なきにあらざる北條氏康に武蔵野紀行あり、更に古くは太田道灌に
も平安紀行といふものがある。いづれも名將らが戰時の忙中閑として面白い。

 歌論の類としては、多くはいづれも他人の記録したもので、佐方宗佐筆記の幽齋論
聞書、寛仁親王に上つた歌口傳心持、天正十四年の詠歌大概抄、慶長七年成の古今集
口訣、延寶六年刊の細川玄旨聞書全集、烏丸光廣の耳底記、松永貞徳の戴恩記などが
傳はつてゐる。これらに依つて、幽齋の歌論の如何なりしものなるかを知り得るので
あるが、それは既に佐々木信綱博士著日本歌學史に要領を盡くして紹介されてゐるの
で、ここに博士の文を自由に摘録させていただく。

 耳底記は和歌に關する雑話にして、歌書、故實、釋義等につきし幽齋の説の断片に
して、中に師實枝の説として述べしもの少なからず。聞書は、四十項にわたりて、作
歌に關する説を述べしものなるが、その説、詠歌大概、八雲御抄、愚問賢註等の抜
抄、もしくは祖述なり。

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■部分御舊記・軍事部八(16)寛永拾九年有馬働承処之覚(2)

2021-11-25 06:56:15 | 史料

                        寛永拾九年有馬働承処之覚(2)

一、財津市兵衛
   二月廿七日城乗之刻尾越儀兵衛一所にて同前之稼之申候 儀兵衛ニ御知行被下候節儀兵衛ニ申候ハ私ニ御知行被下候
   ハゝ
市兵衛にも可被下儀と存之由申と承候 右市兵衛儀かせき能御座候つるとハ申候へとも様子しかと存たるもの無
   御座候
御帳ニ茂見へ不申候以上
一、高見権右衛門
   二月廿七日城乗之刻本丸石垣へ上り稼申之由明細御帳に御座候 一所にて同前之稼仕者ニハ御褒美被遣候得とも権右
   衛門
儀御下知なしに御先へ参候付 越中様御前悪御座候以上
御褒美被遣候
一、矢野勘右衛門
   正月元旦有馬城攻之刻かせき能御座候様ニ其節有馬にても沙汰仕候 御帳之表にも其通ニ御座候 二月廿七日ニも石垣
   へ著稼申躰是亦具ニ御帳ニ御座候 是は両度之かせきにて御座候已上
御中小姓ニ而御座候を御知行弐百石被遣候
一、竹原少大夫
   二月廿七日城乗之刻本丸石垣之角より西海手之方へ早ク著申候 角二三間ほと西之方ニ塀之こわれ口御座候 これより
   城中見入候ヘハさして敵も見へ不申候 然とも未御人数一円無御座候付又角之方へ参見申候ヘハ角ゟ北三四間目ニ御
   家中侍四人石垣際ニ居申候 少大夫も其所へ参一番ニ石垣へ参申候 犬走をつたい角より西塀之こはれ口右ニ見置候付
   夫にて敵とかゝり合申候 然処に左のわきより何者とも不存これも同然ニかゝり合申候 其もの石垣下へ打落され申候
   少大夫儀も鑓・石にてうち落され上帯もきれ申刀・わきさしもおち申候 又立上り両人ともニ石垣ニ付居申候 此一人
   ハ谷主膳組ニ付申牢人各務四兵衛と申者にて御座候 証拠之状共取置申之由暫間御座候而十江太兵衛なと参申候 少大
   夫少手負不自由ニ御座候付太兵衛を頼上帯仕之由其後追々御人数も参申候 其所にてかせき申者とも何も少大夫を証
   拠ニ立申候 左様ニ御座候得ハ御人数先引取候へと度々御使参候付何も引取申候 もはや具足著仕もの一人も無御座候
   時少大夫も跡ゟ石垣之角より少下へ参候て東平を見申候ヘハ残ルものは引申候 夫より松木之御座候所へ出候ヘハ又
   てき大勢居申候 互ニ鑓を構罷居候此段上村理右衛門・松尾小才次御鉄炮之もの召連手前之敵とも大勢打せ申候由少
   大夫儀石垣へ一番ニ乗一番ニ鑓にてかゝり合申其以後城中にてもかせき申と相考へ申候 其上天草御出陳之砌より心
   之働尤ニ存候儀ともニ御座候 此段紙面ニ乗せ申所は無御座候已上
御褒美被遣候
一、金守形右衛門
   二月廿七日城乗之刻横井牛右衛門手負申と相見へ本丸石垣ニ面を付居申則言葉を替シ其儘石垣へ上り犬走ニ罷居候
   城中之敵一間間中ほと引取大勢居申候間形右衛門塀へ乗掛り十文字を以二三度うち込申候得とも敵ニ当り不申候
   塀の少こわめより敵鑓にて形右衛門左之わきけさんの上をつき候へとも身ニハ通不申候 其所何とも働にくき所にて
   御座候ゆへ海手之角塀のこわれ口御座候 形右衛門石垣を乗申時其所に誰とハ不存居申候而働申を右二見申候付犬走
   りをつたい其所へ参鑓をふりなをし敵を見申候内ニ鉄炮にて口より耳のわきへうちぬかれたをれ申候 又立上り候へ
   共働申儀不罷成石垣を漸おり申候 右之鑓をうち込申所ハ石橋宇兵衛弟同久兵衛と申牢人見届申候 此証拠佐渡守手前
   より具ニ吟味仕候由朝山斎助手負候て居申間側へより互にうなつき候て坂下へおり申之由 又馬場三郎左衛門殿御内
   野中五兵衛所より証拠之状越申之由承候以上
一、明石源左衛門
   二月廿七日城乗之刻本丸石垣下ニ罷居候中ニ左右ともニ三度なたれ申候得とも一度も居所も去不申候 此所之証拠続
   平右衛門・下村五兵衛乍遠差物ニ而見届候 其後石垣を乗塀之上へ上り敵と互ニ鑓にてからち合申候間ニ塀たおれ申
   候ニ付石垣下へ落申候 ■■ての証拠馬場三郎左衛門様被成御覧に付越中様へ此段被仰上候 二月廿區日津川四郎右衛
   門御使にて様子御尋被成候 石垣下へ落申候以後又石垣へ上り申塀の破口にて敵と暫からち合申候 其時鉄炮にてうた
   れ申候得とも刀ノ柄ニ当り柄おれ候て身ニハ通り不申候 爰にて之証拠猿木何右衛門にて御座候 同廿八日ニ本丸松木
   之際にて敵大勢居申候中ニ一先ニ居申もの一人鑓にて掛合則仕留申くびを取申候 爰にて之証拠町熊之助にて御座候
   熊之助申候ハつき合申ハ見申候 仕留申候事ハ不存候由 右之くび沢村大学ニ見せ申之由承候以上

     以上
     寛永拾九年十二月十一日

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