津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 遺著(四)

2021-11-28 17:46:05 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 遺著(四)

 又「詞のふとみ細みといふ事」の條に「歌を詠ずる事、たとへを以ていはゝ詞は糸
なり。紋をなすは心なり。歌は綾羅錦繍なり。作者、織手のごとし。細く美しき糸の
細き中へ、ふとあら/\しき糸の一ふしもまじりたらむには、綾羅おり出だしても、
何の詮か侍るべき。又詳撰の絲なりとも、織手のあしきはいかが。雅歌をよまんは、
詞の穿鑿肝要たるべし。かへす/\是を思へと、幽齋、行住坐臥の金言なり。」

 なほ彼が、智仁親王に奉りし歌口傳心持と題せる消息あり。彼の思想を一層明かに
するものなれば、その主要を抜抄せむ。「萬葉集を始め、いづれも可引見候事
勿論候。まづ常に可御心は、拾遺愚草などは、聞き得がたき所多く御座候
間、其御分別有るべく候哉。家隆の歌をば常には被御心然候。逍遥院など、
其の分御座候つると承り及び候。近き世の歌は、後柏原院御製、逍遥院殿御歌など被
御覧候て、上古中古當世の風情を能く御覧じ分られ、御作意をのべられ候はば殊
勝の御詠可出来候。」

 要するに幽齋は、もとより殊に推奨すべき學説を有する學者にあらず。ただ當時に
於いては、教養完たき一有識家として、まさに絶えなむとせし二條流歌學の傳統を傳
へたる唯一の學者なりしなり。

 以上は日本歌學史に據る。定家の詠歌大概や小倉百人一首を「行住坐臥」見習ふべ
しと云つたのは、宜しとする。「萬葉集を始め」云々も當然の意見とする。乍併、道
隆院(三條西實隆のこと)の作を推擧したり、更に、爲家の續後撰集を正風體とし花
實相應と稱するに至つては、見當が外づれ過ぎてゐる。其處が幽齋二條流の幣であ
る。又當年のいづれの人々の和歌も高度に上り得ざりし所以である。

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■柘榴

2021-11-28 14:16:37 | 俳句

           

散歩の途中三・四個はじけた実をつけた柘榴をみつけた。柘榴を見ると俳句歳時記にある、西東三鬼の句を思い出す。

              露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

なにやら鬱憤が見て取れるが、どういうシュチエーショなのかよく理解できない。
ググってみると「増殖する俳句歳時記」では次のような説明文がつけてあった。

作者の状況説明。「ワシコフ氏は私の隣人。氏の庭園は私の二階の窓から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六、七歳。赤ら顔の肥満した白系露人で、日本の細君が肺病で死んでからは独り暮らしをしている」。「叫びて打ち落す」のだから、食べるためではないだろう。いまで言うストレス発散の一法か。そんなワシコフ氏の奇矯な振る舞いを、二階の窓から無表情で見下ろしている三鬼氏。両者の表情を思い合わせると、なんとなく可笑しい。と同時に、人間の根元的な寂しさがじわりと滲み出てくるような……。

悲しみを放出させるための行為だ。露人ワシコフ氏の深い悲しみとそれを理解した作者の感情がよく表現されている。

 

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■善蔵さんをさがす

2021-11-28 11:10:10 | 歴史

 善蔵さんとは「■ 御大工棟梁善蔵聞書控から‐下津さん」で書いた熊本城の普請に係わった棟梁である。
この原本は失われたらしく、私が所持するコピーは近代に書き写されたものであろうと思われる。
有る方から「よければコピーを分けていただけませんか}とのお話が合った。

そのコピーが現況行方不明で、一昨日からそれを見つけ出すべく捜索活動を開始した。何かにファイルしたのか、袋に入れて保管したのか微塵ほども思い出せない。
あんまり出てこないと、ひょっとしたら私が所持しているというのは夢だったのではないかとも思いだしたりする。
欲しいと仰る方には分けて差し上げようと思っているのだが、見つからないでは何ともならない。
今日は、本格的に暮れの大掃除である。

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■部分御舊記・軍事部八(18)本丸・出丸ニ乗候衆差出六ッ

2021-11-28 09:54:11 | 史料

       本丸・出丸ニ乗候衆差出六ッ

        差出
一、二月廿七日城乗之刻本丸下之丸へ東之方ゟ七ッノ頭ニ乗こミ取かため居申候 他所之昇日ノ入自分に入申候 日暮候而頼
  母
殿より御使にて其外より引取候へと被仰下候得とも御使江直ニ相不申候ゆへ私前ゟ夜ニ入使を進シ丸之内ニ乗込申
  候通
申達シ候ヘハ引取候得と返事候 又使を進し爰元より本丸之乗口能御座候間其まゝ可被召置候 夜明次第ニ付而夜四
  ッ過ニ
頼母殿御座候所へ参候 廿八日ハ本丸ニ頼母殿御備ニ居申候  我等せかれ六大夫・小八郎・弟藤左ヱ門儀も同然
  ニ候以上

   寛永十五年七月四日      新美八左衛門判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、二月廿七日城乗之刻私共ハ七ッ頭ニ本丸大手之出丸を乗取申候 其砌ハ他所之者不参候 夫より方々之者著申候 他所之
  昇日之入自分ニ見へ申候 然処ニ及暮ニ頼母殿より両度之御使參候而早々引取可申由ニ候間引取申候以上
   寛永十五年七月四日      庄林隼人佐判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、有馬城乗之刻私共ハ七ッ頭ニ本丸出丸を乗取申候 其砌ハ他所之者も不参夫より次第/\ニ方々ノ者共著申候 昇ハ日ノ
  入時分ニ私共居申所より跡まて著候而夜ニ入候てから私共居候所へ玄蕃殿昇著申候と見へ申候 然処ニ及暮ニ及て頼母
  殿より庄林隼人・新美八左衛門方へ両度使參早々引取可申由にて右両人引取被申ニ付私も引取申候 明ル廿八日まて相
  組一所に居申候以上
   寛永十五年七月四日      槙島掃部判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、二月廿七日有馬城乗之刻私儀ハ本丸之出丸石垣下へ八ッ之下刻ニ著申候而御鉄炮せ申候 左候而則七ッ頭ニ石垣を乗申
  候 其刻石垣へ一二間手前にて両もゝをうたれ其上之かいまを石にてうたれ申候 つれともやう/\に石垣を乗上り塀を
  乗越候而御鉄炮を打せ居申候 其砌ハ他所人数ハ見へ不申候 夫より次第ニ方々の者共乗込申候と見へ申候 昇もいつか
  たのも不参候 日暮ニ成候而有馬玄蕃殿昇私とも居申所より跡に見へ申候 左候而夜ニ入り私とも居申所の右之方へのほ
  り参候 然処庄林隼人・新美八左衛門方へ頼母殿より早々引取候へとの御使度々参候由にて右之両人引取被申候 夜更候
  てから私ハ手所こハり申ニ付国友式右衛門・佐藤安右衛門抔ニ申談候て本小屋へ引取申候 与之御鉄炮之者共せかれ五
  郎三郎ニ付置御鉄炮打せ申候 其後式右衛門・安右衛門なと同前ニ出丸を引取式右衛門同心仕本丸柵きわへ上り候て翌
  廿八日まて御鉄炮打せ申候以上
   七月四日           高田角左衛門判
        志水新丞殿
        清田石見殿 


        差出
一、有馬城乗之刻私とも二月廿七日七ッ之頭ニ本丸出丸を乗取申し宇候て鉄炮うたせ居申候 其砌ハ他所之ものも不参候
  夫より次第/\に方々のもの共著申候 塀ハ日ノ入方ニ私居申候左之方へしほり昇三本立可申と仕候間細川七左衛門
  私申候ハ細川越中守之内ニ而候間他所ニ御立候ヘハ色々せんさく仕候而後御人数ゟ右之方へ通申候 私引候迄ハ御人数
  之中ヘハ他所之昇立不申候 然処ニ暮ニ及庄林隼人・新美八左衛門方へ頼母さまより御使両度参候而早々引取可申由に
  て右両人の集引取申候 谷忠兵衛・高田角左衛門両人ハ手負申候ニ付引取申候 差候ヘハ国友式右衛門・佐藤安右衛門引
  取申候と見へ申候間我等も引取申候 前後之儀ハ前之差出ニ書上申候已上
   寛永十五年七月四日      松崎助右衛門判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、二月廿七日有馬城乗之刻二ノ丸海手之方ノ須戸口を乗上申候処ニ二丸より本丸へのき申敵余多御座候 其敵二付溜池の
  頭まで追付ニ御鉄炮衆ニうたせ則ため池上東平ノ石垣より本丸之内大手之小丸江乗込申候 夫より丸之内ニ而御鉄炮衆
  ニ打せ申候 私共小丸へ乗込申時分ハ七ッノ頭にて御座候 其時ハ他所之人数昇なとハ中/\乗込不申候 後ニハ次第/
  \他所之人数も参候と見へ申候 昇ハ日之入時分ニ其丸之西之方へ参り申候と見へ申候 然処ニ私儀丸へ乗申砌石垣下ニ
  而手負申候へとも当分いたみ不申候ニ付乗込申候小丸へ乗申候段又手負申由も夜ニ入佐渡殿へ申入候ヘハ手負申候ハ
  ゝのき申候様ニと被仰下候 其上手もいたみ申ニ付夜更ニ而のき申候
     以上
   寛永十五年七月四日      谷 忠兵衛判
        清田石見殿
        志水新丞殿




                      

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