津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■どの坂もお城に向かう

2021-11-18 10:25:10 | 書籍・読書

 この言葉は、熊本出身の詩人である伊藤比呂美さんがその著書「切腹考」の中で使われている。
項立ての言葉だが、ご自分がすまわれた家周辺のことを紹介されている。
その家はどこにあったのか、ヒントは二つあるがこれだけでは判然としない。
「愛染院の前を通り、旧三号線を突っ切って、裁判所の脇の急な坂を下って細道に入る。それから道はどんどん低くなり、くねくねとたどり下って、下り着いたあたりに、わたしの家がある。」
「この家の真ん前を坪井川が流れる。」

 ここに出てくる坂道が「観音坂」か「中坂」なのかも良くわからない。
しかしながら、「どの坂もお城に向かう」というのは、さすがに詩人の表現だと感心してしまう。

 現在もタモリさんが副会長かどうかは知見を持たないが日本坂道学会というものがある。(もっとも会員は二人だけという話も聞く)
これとは別に坂学会(旧・坂学会)というものがあるが、随分以前その事務局から当方にメールが入り、熊本城周辺の坂道に精しい F氏を紹介してほしいとの依頼であった。
F氏はかって熊本史談会の会員であられたが、様々な資料を読破し、現地を踏査して『熊本城下の坂』 (私家版・2013年9月発行)を物にされた。
F氏にご連絡して了解を得た上ご紹介した。そのサイト「熊本県の坂リスト」には、まさに氏の調査の結果の殆どで網羅されている。
「どの坂もお城に向かう」の出てくるその坂を調べるために、久しぶりにこのサイトを開いてみた。
ただ残念ながら、地図へのリンクや説明などがないため、単なるリストに終わっている。

 ところで伊藤さんは、この本の題名にあるように「切腹」について一冊の本に仕立てられた。
その第一項はまさしく「切腹考」で、実際切腹する人を見たと仰る。それも熊本人だそうで、わざわざ死に装束で現れて腹に刀を突きたてたという。さすがに引き回すことはなかったが・・自らがお医者さんでご自分で手当てを去れとそうだ。
顔色は一瞬に青ざめ、血が噴き出し死臭を感じたそうだが、読んでいるうちに背筋に悪寒が走るような話だった。
「どの坂もお城に向かう」でも、切腹にまつわる話につながっていて、氏の尋常ならざる「切腹愛」に付き合わなければならない。
「切腹はエロス」であり、「侍の死生観」をたどって行って、たどり着いたところが森鴎外だとされる。
私は今、その森鴎外の全集を読んでいるのだ。鴎外を呼んでいるうちに氏の「切腹考」を思い出し、もう読むことは無かろうと思ったこの本を引っ張り出した。
           
 実は以前伊藤さんからメールをいただいたことがある。その時はいたずらだと思った。
そして最後に「切腹考」を書いているから、読んでほしいというような言葉で締められていたように思う。
しばらくして、たしかにこの本が発刊され、あのメールはやはり伊藤さんからのメールだったのだと思った。
          ■伊藤比呂美著「切腹考」
残念ながらそのメールが残っていないが、この本の一刷が2017年2月だから2016年あたりのことか、5年ほど前の話である。   



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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(八)

2021-11-18 06:56:01 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 歌歴(八)

 慶長十五年八月廿日、偶然にも藤原定家の正忌の日に、幽齋は京都三條車屋町の館
で薨去した。七十七歳。九月十三日、小倉城外にて豪華無比の葬典が執行せられ、遺
骨は分つて彼地と京都とに斂めた。小倉の墓所は泰勝寺であつたが、後に其寺を肥後
國飽託郡黒髪村に移して改葬した。法號は泰勝院殿徹宗玄旨大居士。京都の墓所は細
川満元の再興せし南禪寺塔頭天授庵に在り。堂前より墓地に入り、道に從つて南行十
數間、つきあたりに生垣を繞らし、北面して木門を備ふる一域あり。これ細川家の塋
にて、幽齋の墓は其東南隅に位せる小廟舎内に五輪石塔を置く。

 幽齋の居住に就いても略述する。誕生した所は、細川系圖には「洛陽鹿谷」とし、
但、按於洛陽東山麓岡崎、三淵晴員別墅誕生、後蓋移住鹿谷と附記す。永禄六年忠興
が京一條館にて生れたが、一條の何町か不明である。細川兩家記に、永録十一年足利
義昭が將軍に拝せられて入洛した當時、藤孝の館に滞留すとあり、それは一條館のこ
とであつたろう。天正時代、洛西長岡を領邑として勝龍寺城に館した。次で、丹後
入部の節は少時宮津城にゐたこともあつたらしいが、おちついたのは田邊城である。
關ヶ原役後、忠興小倉に移封せられて以後は、彼地と京都とを往來し、京都にては吉
田に閑居して、その家を随神菴とも風車軒とも名づけた。

 仰ぐなり先づ天地の神まつる吉田の里に春を迎へて

 これは、慶長六年正月の詠である。薨去は三條車屋町で、烏丸通よりも少しく東に
當る。

 幽齋の風采如何。大徳寺高桐院藏の肖像によれば、眉長く、眼もきれ長にて、口も
と尋常、殊にふくよかな双頬がよろしい。勇敢の武將といはんよりも、大人君子の如
くに描かれてゐる。尤も、老後の面影ではある。天授庵藏の肖像も、おなじく丸坊主
の老躰ではあるが、この方は顔の表情が梢鋭く、きかぬ氣の人に見える。脇差を挟
み、右手に團扇を持つた座像である。慶長十七年(幽齋薨後二年)に描かれ、崇傳が
「讃」を作つたのは、すなはち此の畫である。讃の一節に曰く、團扇在手、掃除人間
蒸熱、利刀挟腰、截斷煩惱縛纏。

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■部分御舊記・軍事部八(13)佐渡・頼母申上書物 覚 他

2021-11-18 06:55:13 | 先祖附

      ■佐渡・頼母申上書物
           覚
                 松野縫殿助
                 明石源左衛門
                 鎌田源大夫
                 柏木少九郎
                 小林半大夫
                 山本三蔵
此者とも働之様子委敷御帳ニ御座候仕上候御帳之内ニ而ハ右之者共ハ少ハよきやうニ奉存候
                 矢野吉丞
此者之儀二ノ丸にてハ小屋之内ニ居申者と鑓を合候 本丸石垣下ニ前後つきて居申候 其後乗込申明ル廿八日茂本丸にて又鑓を
合敵壱人仕留申候 其上今度御陳中被仰付候御大工方之儀殊外精を出シ埒を明申候間別ニ書付指上申候已上

  七月十日         長岡佐渡守判
               有吉頼母佐判
    坂崎内膳殿


      ■御請之覚

一、志水新丞儀本丸塀ニ著手をも負申候得共物頭衆ニ加様之衆いまた御座候間 御前江被 召出之儀ハ如何可有御座候哉と奉存候事
一、有吉舎人佐儀頼母佐存候ハ証人ニ罷成候ものハ討死仕候 田中又助召仕候小姓なとを証人ニ相立申儀ハ如何奉存候間此度 御前へ
  不被 召出様ニと奉存候通頼母佐申上候事
一、白井兵助儀与之ものを少々召連本丸之出丸内之石垣下ニ著申かせき申候通右ニ書上申候 其上今度嶋原・天草ニ而御船手之儀万事
  つかへ不申様ニ埒を明申儀二御座候間被召出可然様ニ奉存候事
    已上
  八月十六日        長岡監物判
               有吉頼母佐判
               長岡佐渡守判
    坂崎内膳正殿


      ■覚

一、長岡右馬助
  一、二月廿七日有馬二ノ丸にてなた長刀をかまへ居申候敵を二鑓にて仕留申候 鑓を引取申候時小屋之内ゟやり二而私ほうさきを
    突申候 彼者を私若党仕留申由二候事

一、小笠原備前守
  一、二月廿七日有馬本丸二著ならしより乳通り上のびあがり塀の破目御座候所ゟ敵と互ニ鑓にてからち合申候内ニ石にて打落され
    申候由ニ候事

一、清田石見守
  一、二月廿七日有馬本丸之出丸石垣ニ著申候処ニ御鉄砲ども追々参候間右之所を二三間立退御鉄砲之下知を仕うたせ申候内ニ
    鉄炮手負申ニ付而引取申候由ニ候事

一、平野弥次右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸水ノ手石垣へ著矢手・鑓手二ヶ所負申其より引取申候事

一、三淵内匠頭
  一、二月廿七日二ノ丸にて敵居候所へ懸り合処を鉄炮手負引取申候由ニ候事

一、氏家志厂守
  一、二月廿七日有馬本丸水手之石垣ニ著居申候由ニ候事

一、庄林隼人佐
  一、二月廿七日有馬本丸之出丸へ乗込申候由ニ候事

一、新美八左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸之出丸へ乗込申候由ニ候事

   以上
  八月廿四日        有吉頼母佐判
               長岡佐渡守判
     坂崎内膳正殿


      ■白井兵助手前吟味仕候覚書   長岡佐渡守
                      有吉頼母佐
       

一、白井兵助二月廿質日有馬城乗之刻兵助組之御船頭・御加子共ニ百廿七人召連罷出候得とも二ノ丸より本丸之間にて多分おくれ申候
  出丸之詰之丸江兵介著申所江は兵助共ニ十一人之外ハ参不申候 出丸之次之石垣迄ハ参候 御船頭・御加子も御座候 夫よりおく詰ノ丸
  ヘハ右十一人著申候 御船印ニ角取紙をつけ兵助持せ申候所ニ詰之丸ニ而御船印ニ城内より火をかけきり折申候 此証人合申候
  廿七日の手負・死人拾八人御座候 今度之御陳ニ付而兵助組之手負・死人有馬海手之御番船ニ居申候ものゝ内又ハ天草ニ一揆おこり
  申候刻御使は舟ニのり参候御加子之内右之手負・死人前後四十七人御座候事
一、廿七日之夜雨ふり申ニ付而とまを取ニ御加子を遣申候得ハ其御加子罷帰兵介ニ申候ハ入江三丞兵助を被尋候と申候間則引取三丞を
  尋申夜明時分ニ尋相申候処ニ御船手をかため居申候へと御意之由三丞申候間御船頭・御加子をあつめ御船手かため廿八日落著迄
  相詰居申候事
一、出丸之詰之丸へ著申ものとも
             白井兵助上下二人
            御船頭
             手嶋茂大夫
             佐川少兵衛
             高見善兵衛
             渡辺七郎左ヱ門
            御船頭久間平兵衛せがれ
             久間傳藏
            御やとひの御船頭
             竹田忠左衛門
             松田七郎兵衛
            御加子
               少三郎
               佐右衛門

右兵助手前之様子吟味仕書付上ヶ申候 今度天草・嶋原へ御人数渡り申候儀二付而も万事手つかへ不申候様ニ精を出し残所も無御座候以上
 七月廿二日        長岡佐渡守判
              有吉頼母佐判
    坂崎内膳殿
  

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