一昨々日(土)、熊本城ホールに講演を聞きに行った帰り、壷井川ぞいの熊本城長塀前をそぞろ歩いた。
長塀が馬具櫓に突つこんでいる様子がよくわかるが、少し角度をつけ開いている。これはかってここにあった下馬橋を正面に受ける形で開くと共に、ここに升形を形成するためだと思われる。現在では大きなイチョウの木が植えられていて確認しずらい。
左下の淡彩画は甲斐青萍が昭和20年ころ、記憶をたよって書いたものだが、書物櫓の向こうに続く長塀や、遠くにはかっての有吉屋敷があった、当時の衛戍病院が描かれている。現在は、かっての国の出先機関の建物群がすべて撤去されて、往時の形が見て取れる。
下馬橋が何とも貧弱に描かれているが、上の絵図をご覧いただくともっと堂々としたものである。
右下の版画は川瀬巴水が大正11年同じ場所を描いたものだが、ここに見える橋は明治天皇行幸にあたり新しく建設された「行幸(みゆき)橋」である。
この地図や、一長一短あるいろいろな資料から当時を想像してみるのも面白い。
甲斐青萍「熊本町並画集」から下馬橋付近 川瀬巴水の版画(大正11年)
昭和20年ころの淡彩画 水面が随分高く描かれている。
下馬橋があった位置関係から馬具櫓を正面に見る。足元の石垣は崩壊している。
左の石碑(熊本城とある)は熊本大地震で台座から45度回転して奇跡的に倒壊せずに残った。
この場所はかって書物櫓があった場所だが、石垣の左端あたりから現在の行幸橋がかけられている。
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