津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■他党はどうする・・「1日で100万円」問題

2021-11-16 13:30:36 | 些事奏論

 維新の新人議員が指摘した「わずか一日で100万円」を疑問視した話がメディアで取り上げられて、この行末は波紋を呼びそうな気配がある。
この新人議員・小野泰輔氏は先の熊本県の副知事だったから熊本人には記憶に新しい人である。
比例での当選ながらこのような「新人」感覚が汚されていない初々しさを大事にして頑張っていただきたいものだ。
維新の反応は早く、全議員のこの100万円を党費として特別に徴収して、しかるべきところに寄付をするとしている。
今のところ他党からは発言が聞こえてこないが、厄介なことを言い出したものだと、苦い顔をしている党も多いことだろう。
このことは下手な扱いをすると来年の参議院議員選挙に大きく影響をしてくるのではないか。

 今度の選挙は結果としては予想を裏切る結果になったが、メディアの調査能力のいい加減さが露呈してしまった。
共産党を含む野党の統一候補問題も、選挙結果からすると拒否反応の方が大きかったことを物語っている。
10万円給付問題も「自と公」の持たれあいからくる副産物だが、多くの国民が違和感をもった。
本来であれば、コロナで困窮する家庭に給付が行われるべきものだった。
これらの結果に国民はある方向性を感じ始めているのではないだろうか。
選挙の次の場面での投票行動に、新たな思いをするのではないか。勢力図が崩れていくような気がしてならない。

追記‐15:00
自民党の茂木幹事長が自民党も返還すると言い出した。立民は党首のい選挙をひかえているから対応に遅れるのだろうが、早い方がいいぞ。国民や共産、公明、維新はどうする・・・急がないと遅きに失するぞ。失うものは大きい。

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■部分御舊記・軍事部八(12)二月廿八日本丸にて働之衆

2021-11-16 07:13:24 | 先祖附

      ■二月廿八日本丸にて働之衆 

一、安井喜平次
  一二月廿八日有馬本丸にて敵数多居申所へ参鑓を合せ壱人突伏申候 証人合申候

相果申候
一、近藤新五左衛門
  一、二月廿八日有馬本丸にて鑓を合壱人討捕申候 証人合申候

相果申候
一、国友十左衛門
  一、二月廿は知日有馬本丸松之木壱本御座候所にて鑓を合突たをし申候
  一、同日同丸松ノ木より先へ参又鑓を合せ突倒シ申候 右之証人合申候

一、野田源四郎
  一、弐月廿八日有馬本丸にて鑓を合せ打捨ニ仕候 証人合申候

一、臼杵万五郎   付札 可相尋事
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵七人ぬき出懸り申候を壱人鑓を合仕留申候 証人合申候

御暇被置申候
一、寺尾孫丞
  一、二月廿八日朝有馬本丸柵を破敵大勢鑓・長刀持居申候を鑓を合せ大勢を突たて壱人突留申候 証人合申候

相果申候
一、臼杵少大夫
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵七人かゝり申候を則一人鑓を合仕留申候 証人合申候

御暇被遣候
一、下条長三郎
  一、二月廿八日有馬にて敵壱人鑓にて突留申候
  一、同日右之所より先にて敵と鑓を合壱人突留申候 右之証人何も合申候

弥右ヱ門事
一、桑木浅右衛門
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵と鑓を仕突留申候 証人あわせ申候

一、花分次右衛門
       一、二月廿八日有馬本丸にて敵鑓を持はたらき申候もの一人突ふせ申候 証人合申候

相果申候
一、湯浅次郎大夫
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵四人突ふせ申候 鑓を茂合せ申候 証人合申候

一、入江伝右衛門
  一、二月廿八日有馬本丸松の木之所にて鑓にて戦ひ突伏申候 証人合申候
  一、同廿七日之働ハ牢人証人にて御座候付別帳ニ仕差上申候

相果申候
一、藤本猪左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸にて柵を罷出敵あまた居申所にて鑓を合手負引取申候 証人合申候

八郎右ヱ門事
一、佐藤少三郎
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵を鑓仕申候 又弓にても矢かすを射申射たをし申候 証人合申候

御暇被遣候
一、村上清大夫
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵七人縣申を壱人仕留申候 証人合申候

与三右ヱ門事
一、吉富五左衛門
  一、二月廿八日有馬本丸にて鑓をあわせ弐人仕留申候 証人合申候

一、片岡半丞
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵壱人突留申候 其後又敵参人なた長刀・鑓にて突出申候を鑓にて一人仕留申候 証人合申候

相果申候
一、野田佐衛門
  一、二月廿八日有馬本丸にて鑓を合敵弐人仕留申候 証人合申候

相果申候
一、山田次郎介
  一、二月廿八日本丸にて敵壱人脇差なけ打ニ仕候を鑓ニ而仕留申候 証人合申候
  一、廿八日之働両度之内一度ハ牢人証人にて御座候付別帳ニ仕差上申候

鶴崎ニ被召置候御船頭相果申候
一、東 次介
  一、二月廿八日有馬本丸松ノ木下にて敵と鑓にてからち合壱人突ふせ申候 証人合申候

鶴崎ニ被召置候御船頭
一、藤田清兵衛     付札知れ不申候
  一、二月廿八日有馬本丸にて敵壱人突ふせ其鑓を引取内ニ又敵二三人出向候を則其鑓にて一人突伏申候 証人合申候

鶴崎ニ居申候御船頭松村久兵衛預之御加子  付札
一、御加子 仁藏       在不申候
  一、二月廿七日有馬二ノ丸にて敵小屋より出なた長刀ニ而懸り私股を切申候 則其敵を刀にて仕留申候 証人鶴崎ニ居申候医者
    道意と申もの加〃見善左衛門有馬へ罷越候ニ付而同道仕罷越城乗之刻右之通慥ニ見届申候由証文御座候

  右之働之衆
    人数合五拾人也
  寛永十五年         有吉頼母佐
     七月廿二日      長岡佐渡守
       坂崎内膳正殿

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(六)

2021-11-16 06:46:11 | 書籍・読書

  「歌仙幽齋」 歌歴(六)

 愚按によれば幽齋の幽玄主義は、二條家の歌學を勉教し、傳統氏した故といふ一事
のみに基づくのではなかつたらしい。和歌以外の方面からの因縁に於いても、彼は幽
玄を理念とするに至つたらうと愚考する。久松博士が前掲の著書の他の章に於いて論
究せられた通り、鎌倉武家時代以降には、幽玄は「道」となり「宗教的境地」とまで
發展して來たのであつた。耕雲・世阿彌・正徹・禪竹・心敬・宗祇と貫いて來た此の
理念は、武士の道念の中に影響し、滲透するに至つた。武將の幽齋は道念としての幽
玄をおのづから懐いてゐるにちがいない。又、能樂亂舞に堪能なりし彼は、この餘技
の感化からも、幽玄と不可分にならざるを得なかつた。

 幽齋は勿論單なる傳統維持者にあらずして、身後に影響を及ぼし感化を遣し、和歌
史上の一存在ともなつたのである。智仁親王・通勝・光廣・實條などの人々が其門に
出て、慶長以降の斯界を左右した。さればこそ、佐々木信綱博士著近世和歌史の如き
も、「細川幽齋及その門流」の章を以つて巻首に置いた。要するに、元禄享保に至つて
地下の革新歌人ら蹶起するまでは、幽齋が和歌界を率ゐたのであつた。彼は身後の壽
命も長かつたのである。

 木下長嘯の「玄旨法印をいためることば」といふ一文が芙蓉拾葉集に収めてある。
餘り上手ならぬ擬古文をだら/\と長く書き、花多くして實少なく、甚だ讀みづらい
が、幽齋と竝び穪せられた歌人の文なので、左に一端を抄録する。

 「さりとも今一度の對面は給はりて、おぼつかなくいぶかしき事のうたがひは、
はるるばかりねんじわびながら、深谷の埋木となりて、人しれぬ栖にかさけちぬれ
ば、松の柱の竹の垣はうき世隔つるふしとか、外に窓の月影さし入、よな/\は、
もとつ人を思ひ出て、軒端の草のしのぶかた/\おほくて、つひにやみにしぞか
し。」「さてもおのれ、いつばかりにや、ふな君が七もじあまりをつらねて、みせ奉
りし事のありしに、心ざしやさしとて、よろしきよし、たすけのたまへりしを、そ
ののちあまたたびになりにければ、こまやかなることなど、したためおかれし一ま
き、今みいでたるに、有りしながらの俤さへそひて、長き形見の筆の跡、海より深き
惠は、おきどころなく、いつわするべしともおぼえ給へらぬを、言葉いやしとて空
しくやみなんは、かへりて理りを知らぬ物なるべし。たどる/\も、そぞろごとを
だにかきつがんと、ねんずめれど、こがねをのりものにすらん人のほかおもけれ
ば、うちまどへる心地して、いよ/\みだりがはしく、そのすじとなき、とりのあ
とどもになむ。」

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