津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(6)

2010-06-22 16:05:04 | 歴史
     ■五月十日 当番仁保太兵衛

  御年寄へ差紙を以、申遣候事
一、樹下清十郎役儀之事 1

  九郎右内小田少右衛門を召寄、目録相渡候事
一、平野九郎右衛門へ、御加増知ノ目録相渡候事 2

  遣切手二日分遣也
一、野田小左衛門所へ之状ヲ持せ、中津へ遣候飛脚、今朝返事持参候 3

一、長崎へ御かい物奉行、今朝昼ノ塩ニ出船候事 4
  
  度々ノ御惣談ニも不相成候、菟角御下向之上、達御耳儀ニ相究候間、不成と申、書物返し申候
一、長浜之者共、柳村より廻り候かや舟損候、取上候ニ付、出入之儀、銀壱枚之過怠ニてゆるし被下候
   様ニと、書物上られ候事 5

  山田彦右衛門・吉村甚右衛門へさしかミ遣候事、御掃除之者ニ持せ遣候也
一、大学殿(沢村吉重)より、三官今日より金吹候ニ、かきはいの儀申来事 6

一、当町ニて、似横目ノ似仕候者、今日誅伐仕候、御大脇差大道打、一ノ筒ヲためし申候、あばら弐枚
   かゝり申候 7

2、九郎右衛門・長之--父(甚左衛門・長景)と共に大阪に籠城し、後洛外に居住、元和八年豊前召寄せられ、知行五百石組外に差し
  置き。忠利代元和八年八月、三百石加増、小姓頭。其の後大目付。寛永元年八月、百五十石加増・都合千石。
  島原乱の時光尚に近侍、武功吟味役。

6、沢村大学吉重--もと若狭國小濱邊見昌經家臣。邊見没落後、天正十年八月忠興に仕え千五百石。豊前入国後千五百石加増。
  都合三千石。寛永二年二月暇。同三年九月歸参、百人扶持。肥後入国時三千石を知行。慶安三年九月十七日歿。年九七。
  三官については「大日本近世史料-細川家史料」の人物索引によると「明國人。歯科の治療に功なり」とある。

7、頭注には「横目ヲ騙リシ者ヲ試斬」とある。誅伐された者を大脇差「大道」で「筒きり(胴斬)」にしたが、あばら骨に懸った(不成功?)
  と云うのである。この刀は再度砥ぎに出され、寺尾佐助が再挑戦することになる。
気持ちの良い話しではない。


     ■五月十一日 当番小篠次太夫

一、かわらノ弥兵衛、あかゆ玉可仕上之由、江戸へ大学殿・利斎より被得 御意候ヘハ、可仕上之由、
   被 仰出候との 御書、御城へ持参被仕、弥兵衛ニ御米借シ候へと被申候事 8

  入江仁兵衛・木村九郎兵衛・財津惣左衛門・上田忠左衛門方へ、被知行被引渡候へと、折帋遣候事
一、平野九郎右衛門尉方御加増分ノ知行諸へ、九郎右衛門内小田少右衛門入ア仕候事 9

一、中津かきせ口新開、凡五、六段程も在之由候、検地ノ御奉行出シ可申候 10

一、卯月十八日之御書、神戸喜平次与ノ者持参候也 11

一、北ノ御丸ノ御小風呂御苻切申候也 12

8、「かわら」とは地名、「香春」のことである。地元の人でしか読めないかも・・・
9、「2」に関連する記事、九郎右衛門の家来が知行地に入った事が判る。
10、「かきせ」は「蛎瀬」、中津市役所の北東部で周防灘に程近い地域。この時代から干拓が行われていた事が判る。「五・六段」の
  「段」は「反」のこと、5,000~6,000㎡といった広さである。
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