津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「長元記(長曽我部元親記)」著者・立石助兵衛

2009-06-25 16:19:08 | 歴史
「土佐一条家」というサイトに、「長元記」を著した立石助兵衛のことが次のように紹介されている。

【立石正賀 たていしまさよし 1565~1659】
長曽我部氏家臣。通称助兵衛。元々立石家は一条氏に属したとゆう。兼定追放のとき10才、内政死去のときでも16歳なので、厳密には一条氏の家臣とはいえない。長じてからは元親に仕え、1580年の久武親信の伊予三滝城攻めに従軍、1582年の高森城・沼田城攻めでも功名を挙げた。元親の逝去に際しては遺言を受けた重臣の一人で、関ケ原では敗北後井伊直政を通じて謝罪に赴くが、結局長曽我部家は改易された。その後細川忠興に仕えて千五百石を食む。のち「長元記」(「長そかべ元ちか記」の略)を著した。自身が南予方面で戦った経験があるので「長元記」のこの方面の信憑性は高いとされる。あくまで軍記としてだが。

 この立石助兵衛についての細川家史料は中々見つからない。
「御侍帳・元禄五年比カ」に、「立石助兵衛 二十挺組・小兵衛組 千五百石」と見えるのみである。上記説明によると、忠興代の召出しとあるから、私の史料の読み込みが不足しているのかもしれない。島原一揆に関する綿考輯録の記述の中には「立石助兵衛・其子市兵衛共に与を下知し、引上候へとの仰を受ても様子見合候内、組足軽添嶋九兵衛城中を見て告る、市兵衛其所より乗込、組の足軽不残集り候を、御両君も御覧被成候」とある。侍帳にも、以降立石姓の人が数人見えるが、その末ははきとしない。
長曽我部氏(町氏)、久武氏など長曽我部氏旧臣が細川家に在る。
少し詳しく調べなければと思っている。
ちなみに熊本県立図書館には、宮村典太が書き写した膨大な写本「雑撰録」の中の「巻97」に、「長元物語」(一名立石正賀覚書)として所収されてある。

  ○ 立石市兵衛 (助兵衛子) 
    (1)側小姓・御扈従役歟・組無衆 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)三百石  (肥後御入国宿割帳)
    (3)八代与力衆 千五百石 (真源院様御代御侍名附)
    (4)千五百石  (真源院様御代御侍免撫帳)
    (5)三百石   (真源院様御代御侍免撫帳)・・・・重複?
    (6)八代御城附衆 千五百石 (寛文四年六月・御侍帳)

以下続き柄不明(まったくの他人かもしれない)
  ○ 立石助右衛門  三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
  ○ 立石弥平太    長岡監物組 五人扶持廿石 (寛文四年六月・御侍帳)
  ○ 立石善右衛門  二百石 延宝九年六月十四日 煩ニ付知行被差上候 (※)



コメント (2)
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