細川家の根本家臣「青龍寺以来」の一人に、神戸喜右衛門がいる。「天正十二三年の比被召出、丹後にて弐百石、本は伊勢の者也」とある。幽齋の田辺城籠城に際し行動を共にした「初より持口被仰付、あなたこなた走廻り働候間、五百石被下、忠利君御代迄相勤候ひしか、気腫を煩ひ候故、御知行差上、逼塞して居申候」と綿考輯録(巻五)は記す。
千利休が秀吉の怒りを得て「終に切腹可被仰付ニ定り候」とき「依之忠興君より(中略)神戸喜右衛門次義を葬礼奉行に被遣候二月廿八日切腹の期ニ臨ミ、懐より羽与様と筒に書付たる茶杓を取出し、茶杓は是にて候と忠興公江申て給り候へとて神戸喜右衛門ニ渡し候、茶の湯の印可相伝の心にやと人々申候と也」とも記されている。
(綿考輯録・巻十)
下って寛永十三年十月二日光尚に待望の男子が誕生、しかし同十四日室・禰々が死去する。禰々の急死について、病状の詳しい報告がなされなかった事に三齋は激怒、江戸留守居の三人が扶持放しとなる。上記の「御知行差上、逼塞して居申候」がこれである。
寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)
中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事
三齋に心配をかけまいとの光尚の配慮であったともいう。光尚の死により再度の召出しはかなわず、息子の代になってようやく召出しとなった。
千利休が秀吉の怒りを得て「終に切腹可被仰付ニ定り候」とき「依之忠興君より(中略)神戸喜右衛門次義を葬礼奉行に被遣候二月廿八日切腹の期ニ臨ミ、懐より羽与様と筒に書付たる茶杓を取出し、茶杓は是にて候と忠興公江申て給り候へとて神戸喜右衛門ニ渡し候、茶の湯の印可相伝の心にやと人々申候と也」とも記されている。
(綿考輯録・巻十)
下って寛永十三年十月二日光尚に待望の男子が誕生、しかし同十四日室・禰々が死去する。禰々の急死について、病状の詳しい報告がなされなかった事に三齋は激怒、江戸留守居の三人が扶持放しとなる。上記の「御知行差上、逼塞して居申候」がこれである。
寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)
中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事
三齋に心配をかけまいとの光尚の配慮であったともいう。光尚の死により再度の召出しはかなわず、息子の代になってようやく召出しとなった。
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