津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

海舟日記を読む

2009-06-18 22:24:51 | 書籍・読書
 (株)勁草書房の勝海舟全集18の「海舟日記Ⅰ」を読み始めた。
熊本県立図書館から、福岡県立図書館蔵書を借り受けていただいた。
「日記Ⅰ」は、文久二年から慶應三年までであるが、海舟と熊本藩との接触が結構有ったことが伺えて驚いている。肝心の坂本龍馬をつれての、佐賀関から熊本をへて長崎に至るその往復は、新たな発見には至らなかった。横井小楠との接触などが興味深い。
編者の勝部真長氏は、勝海舟の独特の筆跡に往生したとされるが、「一年半にらめっこをしていたら読めるようになった」と述懐して居られる。明治31年に至るまでの大作だが、大変なご苦労であったろうと推察される。さて当方はといえば、「Ⅰ巻」だけで音を揚げそうだが、大変興味深い記述もあり二三日はまりそうである。
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田中意徳養嗣子・甚左衛門の迷惑

2009-06-18 18:14:44 | 歴史
 忠利に殉死した田中意徳の跡目は、意徳の実弟・永野一閑(絵師・狩野甚右衛門)の嫡子・甚左衛門(初名・田中作丞)が継いだ。永野一閑は豊前中津で亡くなっているが、転び切支丹であり死後数代に渡って穿鑿されている。先のTK様のご教示にあるように、意徳も又医学修得の為に一時期切支丹であったとされる。
 正保四年三月継嗣・作丞(甚左衛門)は堺の玄齊なる人物に、「作丞はかって切支丹であった」と堺町奉行所に告訴されている。二十年も前のことだという。甚左衛門は堺町奉行所に出頭、玄齊と対決無実が晴れてお咎めなしとされた。玄齊が永野一閑に遺恨あってのことであった。迷惑千万な話ではある。

 肥後國飽田郡熊本城下浪人転切支丹永野一閑系

 永野一閑---+--○○---田中一入---庄右衛門---+---勘十郎
         |                       |
         |                       +--庄右衛門
         |                       |
         |                       +--帰空
         +--離世---+--村上平内
                 |
                 +--なつ

     ○○が甚左衛門(作丞)だと思われるが、何故か○○と表記してある。
     夫々の人の届出の記録が記入されており、転切支丹の子孫が徹底して追跡調査
     を受けていることが判る。
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田中意徳関係

2009-06-18 16:25:56 | 歴史
 昨日の田中意徳に係わるブログに対し、埼玉のTK様から貴重な関係情報を頂戴したので厚く御礼申し揚げると共にここにご紹介する。

■ 備前池田家中にも田中意徳の家筋がございます。
  「吉備温故秘録」に引用されている田中が家の記によりますと、

  近江佐々木高嶋の末裔にて代々近江の住人田中猪右衞門は、織田信長に奉公し、
  安土在郷方の御役を勤め、信長滅亡後は山城八幡田中に住し、剃髪して休味と号
  しました。

  其子田中猪右衞門は、二十四歳の時京都に出て浪人のまま弓稽古などしていまし
  たが、南蛮渡りの金瘡外科の秘法を習得し、剃髪して意徳と号しました。
  医術習得のため一旦切支丹となりましたが後に転び、川家康・家光より赦免され、
  禁裏参内宮方療治に与ったりもしました。叙法眼。万治元年十一月二十九日病死。

  其嗣子田中意徳、実は猪右衞門弟の子。明暦三年金瘡外科の家業を継ぎ法眼常安
  と号しました。寛文六年八月二十二日池田光政へ二百五十石にて召出されました。

■ 「先祖書上並御奉公之品書上」によると田中家は池田家中にて、田中意徳常安以降、
  田中意徳常悦、田中意徳.、田中意通、田中意通、田中意庵、田中意策、田中省元、
  田中意気揚昭と代々続いているようです。

■ 意徳だらけで分かりにくい上に、「おきく物語」の記事と比べると、年齢、世代ともにい
  まひとつしっくりこない感じがあります。
  岡山の池田家文庫の家譜史料と、熊本の先祖付や綿考輯録を比較して精査すれば、
  田中意徳の係累がより明らかになり、「おきく物語」の周辺が多少明確になるとかね
  がね思っているのですが、大坂陣とはいささか遠くなるので、調査するパワーが萎え
  てしまいこれまで手付かずのままでおります。

■ なお、防長毛利家の記録によると、近江佐々木高嶋の末裔永田喜左衞門正定は、慶
  長末年大坂城に籠りましたが、其次子長綱が京都にて田中意徳より南蛮流外科医術
  を学び、後に医業を以て毛利家に召出されています。
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